36話 虎子を得る
危うきは、君子が支配する。
私物の一切を取り上げられたヤンはルキと黒服の後ろをついて行く。たった一か月で「お得意様」に成り上がったルキは丁寧な待遇を受け、遊技台の席に通される。ぐるりと見回した部屋は安物の赤じゅうたんに暖色系の照明が似非っぽい高級感を醸し出していた。そこかしこからは時折悲喜こもごもの声が上がり、今しがたも誰かの人生が破綻を迎えているようだった。
ヤンは言われるがままに遊技台に座り、支配人と呼ばれる賭博の進行役からルール説明を受ける。横にはルキと、もう一人見知らぬ男が座っている。
後ろから「お客様」と声をかけられ振り返ると、そこには黒いネクタイとベスト姿のヒデが飲み物を乗せた丸い銀盆を手ににこにこと立っていた。ここでは飲食物は無料で提供されている。ヒデがアルバイトとして働いていることは事前に聞いていたものの、実際に働いているのを目の当たりにすると笑いがこみ上げてくる。
「お飲み物、いかがですか?」
「いや、いい」
ヤンは素っ気なく断り、再び遊技台に目を向ける。一方のルキはヒデから不思議な色をした酒を受け取り、代わりに心付けを渡していた。
「それじゃ、今日も頑張って勝ちますか!」
ルキは腕まくりをして支配人に配られたカードを手にした。
厨房に戻ったヒデは空になった盆に準備されていた飲み物を新しく乗せていく。こんなところへの潜入捜査などするつもりはなかったのだが、本来来るはずだったジライは別の任務中に高所から落ちて骨折してしまったらしい。急遽白羽の矢が立ったヒデは「何事も卒なく、揉めずにこなしそう」という理由だけで送り込まれたわけだった。まさかこんなところで人生初めてのアルバイトをするなど夢にも思っていなかった。
「秋也くん、これもお願い」
「わかりました!」
厨房担当の男から追加で酒を受け取る。
堅洲村に住んでいるときは酒になど縁のない日々だったが、ここへ来てからというもの、こんなにも人は酒で変わるものなのかと改めて辟易する毎日だった。何杯飲んでも顔色を変えずけろりとしているルキのような人間もいれば、大暴れののち出入り禁止措置を取られてしまう人間もいる。
アルバイト初日、新顔だったヒデにこの店の魅力を熱く語ってくれた常連客によると、賭博も楽しいのはもちろんだが、しかし、何よりこの酒を目当てに無い金をはたいて来ているとのことだった。顔見知り同士である常連たちが一様にうなずいていたところを見ると、嘘ではないようだ。果たして酒の魔力とはそれほどの物なのかと首をかしげていたところ、帰宅後にケイから真相を告げられた。
それは常連客や固定客を増やすために飲食物に少量ながら薬物が混ぜられているということだった。客として通っていたルキが症状を訴えてわかったことだ。なるほどそれで客役のルキとヤンだけではなく、店側の人間としてもう一役必要だったのかと理解した。
極度の依存症が出ないように、ルキにはすり替えた無害の飲食物を渡し早三週間。しかしそれなりに依存症に苦しんでいるらしいルキや骨折したジライに思いを馳せ、ヒデは身体には気をつけようとぼんやり思った。
そんなことをしている内に、賭博場からはわっと歓声が上がった。ヒデはまた誰かが大勝したのかとひょっこり顔を出した。大勝したところで、店を出た数分後にはタタキと呼ばれる賭博場の人間から金を巻き上げられる運命なのだ。一炊の夢とはこのことだなと毎回喜んでいる人を見るたび不憫に思う。
しかし今回だけはそんな心配もなさそうだ。そこには「素人のまぐれ当たりだろ!」とルキに揶揄されるヤンがいた。どうやら配当の高い勝ち方をしたらしい。あっという間にルキの借金分も取り返し、周りからもやんやと囃し立てられている。ヒデの後ろでは店の人間がぼそぼそと後ろ暗い計画を立てているのも気にせず、ヒデはケイの筋書きの成功を祈った。
しかし、大勝したかに見えたヤンも結局その後は負けに負け、入店した時よりも所持金を減らした状態でルキと帰って行った。
ヤンの賭博初日はそうしてあっけなく終わってしまった。
『初の賭博はどうだった?』
ケイからの無線を受けたとき、ヤンは一人ベッドに寝転びながら寝室に置かれた本を読んでいた。ご丁寧に、賭博に関する低俗な雑誌から高尚な確率論の論文まで、寝室にそろえられた本の種類は様々だった。
「バカの集まりって感じ」
『しかし、初回は大勝したらしいじゃないか。流石だな』
「イチの特訓のおかげだよ」
ヤンはベッドの縁に座り直し、伸びをする。
「次は何日後に行けばいい」
『二、三日後でいいだろう。依存症になれば一日に何回も足を運ぶらしいがな』
「依存症ってやつは厄介なもんだな」
『依存症がどうして厄介か知ってるか?』
「知らねえな」
『愛だの気の持ちようだので治ると思ってるバカが一定数いるからだよ』
思った以上に歯に衣着せぬ物言いにヤンは思わず噴き出した。
「そりゃそうだ。病気は病気だろ。そんなもんで治るなら医者は要らねえし、ルキもヤヨイのところに行かなくて済むんだよ」
『ちなみにルキはさっきヤヨイに診察台に縛り付けられてたぞ。あいつの好きな荒療治だ』
「薬中にはちょうどいい制裁だな。久しぶりの堅洲村がヤヨイの宿とはな」
ヤンはまた声を上げて笑い、再び寝転んで天井を仰いだ。ふかふかの布団は堅洲村の慣れきったせんべい布団とは全く違う安心感がある。母親の優しさを思い出すような暖かさだと思っている内にヤンはいつの間にか眠ってしまっていた。
それから数週間、ヤンは持ち前の器用さと心理戦の巧みさを武器に勝率を自ら一割程度に落ち込ませていた。ルキが作った負けも含めると総額二千万はつぎ込んでいるだろう。それにもかかわらず、毎回羽振りよく常人には使えない金額を使い、そして涼しい顔で帰っていく青年の噂はたちまち従業員、客を問わず話題になった。ルキからの前情報でヤン扮する藤代風斗が大金持ちだということを知っている従業員たちはどうやって更に大金をつぎ込ませようかと画策するほどだった。
「秋也くん、今日は藤代さん勝つと思う?」
客から注文された料理を厨房で待っている間、同じく給仕を担当しているヒデより少し年上の川口という男が話しかけてきた。どうしてこんなところで働いているのかと思うほどどこにでもいるような青年だ。ここへ来た経緯を興味本位で聞くと、驚いたことにどこにでも置かれているような求人雑誌に載っていたとのことだった。意外と身近に闇への入り口ってあるんだなとヒデは苦笑いで受け流した。
「僕は今日も負けると思うよ。藤代さん、最初しか勝ったことないじゃん。素人目に見ても賭博の才能ないと思う」
人目をはばからず堂々とヤンを批難できる数少ない機会だ。後ろめたさを感じながらも、ヒデは率直な感想をこぼす。
「金持ちっていいよなあ。俺なんかこんなに働いても生活費払った残らないってのに。ああ言う人は楽して、何の悩みもなく生きてんだろうな。羨ましいよなあ」
「そうだよね」
ヒデは川口と一緒になって笑う。「道楽息子」の肩書を与えられた以上、その通りに見えているならそれはヤンの手柄だ。しかし、自分たちの境遇を明かせないもどかしさを感じた。すべてを理解したうえで道化師を演じるしかないヤンを哀れにすら思う。
さらに夜は更け、終電までの暇つぶしに遊んでいた客たちはもうすっかり帰ってしまい、残っているのは依存症か、その一歩手前の人間たちだけになった。ヒデがそろそろ時間だなと思いながら帰った客の後片付けをしていると、予定通りのどよめきが背後から湧きおこった。藤代が「飽きた」という理由だけでこの賭博場からの引退を声高に宣言したからだ。そして今までの負けの総額を取り戻すために、同じだけの金額を賭けると豪語したところだった。
「さあ、始めようか。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってな」
今から何か舞台でも始まるのかと思わせるヤンの笑う顔は大金持ちの堕落しきった息子のものではなく、ヒデのよく知る誘の顔をしていた。
たった数分後、支配人はわなわなと震え、その場に崩れ落ちていた。その目の前ではこの賭博場で一番高い配当の役を作り、見事大金を手にしたヤンが任務など関係ないかのように喜びを爆発させていた。人を負かす、完全敗北させるというのはさぞヤンの性分に合っているのだろう。
こんな闇の賭博場がいかさまをしていないはずはない。しかしながら既死軍のケイとイチにかかれば、そんな陳腐な子供騙しを見抜くのは容易いことだった。ヒデが地道に設置していった監視カメラや盗聴器も役に立ったことだろう。それに加えてヤンのペテン師さながらの人心掌握術で場の雰囲気を支配してしまえば勝つのは確実だった。
今現在店に置かれている現金をすべて合わせても足りないほどの配当金を手に入れたヤンは、不足分は後日取りに来ると呑気な言葉を残し、颯爽と退店した。「立つ鳥跡を濁さず」を体現したような、見事な遊技台の離れ方だった。
悲嘆に暮れていた店員と驚いていた客たちはヤンの姿が消えたことを確認するとお互いの顔を見合わせ、うなずき合う。勝者を襲い、配当金を巻き上げるタタキを行うという合図だ。ヒデも小声で無線に向かって連絡をする。給仕役である自分に対してはそれなりに親切に接してくれた店員や客がこれからヤンに半死半生の目に合わされるのかと思うと僅かに心が痛む。
その横では川口が相変わらず楽観的に羨ましがっていた。
エレベーターを降りたヤンはケイからの無線で予想通りタタキが自分を狙っていることを知った。いつの間にか時間は深夜も過ぎている。ヤンはわざと人通りが少なく、外灯もないような場所を選んで歩き、今か今かとその時を待っていた。そして遂に後方から数人の足音が聞こえ始めた。
ヤンは振り下ろされたバットを振り向きざまに腕で防ぎ、男のみぞおちを殴りつける。不意を突いたつもりだった男たちはヤンの反撃にいささか驚いた様子を見せたが、多勢に無勢だと言わんばかりに一気に襲い掛かってきた。
「頭でも勝てなきゃ力でも勝てないんだな!」
ヤンはいつも通りの勝気な挑発をしながら男たちの攻撃をかわす。いくつもの死線をくぐり抜けてきたヤンにしてみれば、相手は素人ではないにしろ取るに足らない敵だった。疾風のごとく繰り出される拳や蹴りに成す術もなく、男たちは返り討ちにされてしまった。
任務のためとはいえ今まで散々負けさせられていた憂さ晴らしかのようにヤンは道端に倒れ込んでいる男たちを見て笑った。
「弱い弱い。何なら俺がお前らの代わりにタタキやってやろうか? 日給五万、日払いでどうだ」
ヤンは男たちに目線を合わせるようにしゃがんで手の平を大きく広げ、小馬鹿にしたようにひらひらと振る。
「その代わり今日の配当金はいらねぇ。無い脳でもどっちが得かわかるよな? もし、俺を雇うの拒否するなら毎日通って大勝してやってもいいんだぜ。それとも賭博でも喧嘩でも、俺に勝てるやついるのか? どうせ俺が返り討ちにしたところで、違法に金稼いでる店も客も治持隊には駆け込めねぇもんなあ。それとも俺が通報してやったっていいんだぜ。なんでも揉み消せる俺が罪に問われることはないからな」
「お前、一体」
男は怯えたような目で声を震わせる。今までただの道楽息子だとバカにしていた人間に足蹴にされるとは思ってもみなかった。こんな人間と関わるのは、保身のためであれば凶であることは十分わかりきっていたことだ。それでもヤンの言う「今日の配当金は要らない」という言葉に心が揺らいだ。
「知ってるだろ。俺には莫大な遺産がある。賭博なんざただの暇つぶしだ。欲しいなら一億でも十億でもくれてやる。だが俺は刺激を求めてる。賭博でも喧嘩でも、俺より強いやつに会わせてくれるなら用心棒ぐらいしてやる。給料ってのはそうだな、ただの見返りだ。無料じゃ割りに合わねぇだろ」
しばらくの沈黙の後、店員は小さくうなずき、ヤンを雇うことを了承した。得体の知れない人間ではあるが、常軌を逸した金持ちとはこのような思考回路なのだろうと無理矢理自分を納得させたのだった。




