32話 灰燼(かいじん)の向こう側
錯綜する。朧。
冗談だと思っていたケイの発言は、視界に広がる光景によって現実であると思い知らされた。地上へ戻ってきた二人が目の当たりにしたのは火事の一言では済ますことができないほど充満した黒煙だった。異常な熱が一気に体温を上昇させる。
『大久保の回収は終了した。ついでに許可が出たから工場の始末もしてもらっといたぞ。今なら蜉蒼のせいにできるしな』
高笑いをするケイに文句を垂れる暇もなく、シドとヒデは最寄りの出口へと走り出していた。その間もケイは話し続ける。
『火元はそこから一番離れたところにある休憩室の電気配線だ。感謝しろよ。お前らのところにはまだ煙ぐらいだろうが、工場内の気流循環で火の回りが早い。スプリンクラーは作動しないからさっさと脱出しろ』
そんなわかりきった指示を出されるまでもなく、二人は脳内に描かれている構内図を頼りに最短ルートで屋外へと向かう。脳がドクドクと脈を打ち、頭痛やめまいを悪化させていく。頭上を流れる無味無臭の有毒ガスに全身を侵されていく感覚だけがはっきりとしている。ヒデはこのまま倒れてしまった方が楽になれるのではないだろうかという考えを何度もかき消した。
やっと煙を吐き出す出口が見えたところで、前を走るシドがぴたりと足を止めた。一帯は比較的煙が薄くなっている。どうしてこのまま走り抜けないのかとヒデが不思議そうにふらふらと歩み寄ると、シドが突如がくりと膝をついた。さすがのシドでも酸欠状態には敵わないらしい。熱に当てられたのか、シドがうわ言のようにつぶやいた。
「命を賭して一人を護る者を皇と呼び、命を賭して百人を斬る者を元帥と呼ぶ」
それは帝国民が物心つく前から聞かされる、親から子へ受け継がれる「帝国の神髄」とも呼ぶべき言葉だった。ヒデも幼いころ、幾度となく父親から教えられた。文字を読み書きするよりも早く覚えたと言っても過言ではない。今となっては顔も声もわからない父親ではあったが、この記憶だけは確かなものだった。
「こんなもの、くだらないと思わないか、ヒデ」
珍しく呼吸を荒くしたシドが大量の汗をかきながらヒデを睨み付ける。顔を合わせるたびに射殺さんばかりの視線を向けられてきたヒデだったが、今、まさにシドから向けられているそれはこれまでとは異質なものであることを感じた。
「血を流してでも、お前のように泣き叫んででも、武器を手に戦っているのは俺たちだ。皇はいつ血を流した。いつ泣き叫んだ。ただ隔絶された御簾の向こうにいるだけだ。お前は見たこともない、実在するかもわからない皇を、なぜそんなに神格化する」
いつになく真剣な眼差しに思わずヒデは息をのむ。
「ヒデ、お前自身で考えろ。誰が一人を護った。誰が百人を斬った。帝国のために命を賭しているのは、一体誰だ」
シドの言葉が自分が信じてきたはずの存在を、自分が見てきたはずの世界を真っ白に塗り潰していく。
ぐちゃぐちゃと脳内をかき回されているように激しい頭痛がする。最早一酸化炭素中毒なのか、シドに気圧されているのか、ヒデには判別がつかなかった。額から汗が一筋頬を流れ、顎から滴り落ちる。
「僕は」
熱でひりつく喉を介し、ヒデはやっとのことで言葉を発した。しかしそんな奮起もむなしく、続けようとした声は乱暴な足音に遮られてしまった。
駆け寄ってきたのは帝国の火消組織である臥烟だった。オレンジ色の防火服に身を包んだ二人の臥烟は軽く敬礼をし、陸軍の制服を纏うシドとヒデに敬意を表す。
「まだいらっしゃったんですね! 出口はあちらです。我々はこのまま奥の見回りに参ります!」
臥烟は出口を指差し、そことは反対方向へ走り去ろうとする。そんな二人をシドが苦しそうな呼吸のまま声を絞り出して制止する。
「奥に、人はいない。私たちが最後だ」
「そうでありましたか。ご協力、ありがとうございます!」
臥烟は再び敬礼をし、シドを介抱しようと手を伸ばす。しかしシドは拒否を示した。
「安野、手を貸せ」
視線を合わせると、かすかにシドの口角が上がったように見えた。ヒデが驚いて瞬きをすると、そこにいるのはいつも通りの不機嫌そうな表情をしているシドだった。
ヒデはうなずき、手を差し伸べた。
臥烟たちと外に出ると、既に消火活動が始まっていた。敷地内にはそこかしこにサイレンを鳴らす緊急車両が停まり、事の重大さを物語っている。人々は不安げに夜の帳を焦がす炎をただ見つめている。こんな猛火の中にいたのかと自分の置かれていた状況を認識した途端、ヒデはめまいがして座り込んでしまった。遥か遠くからケイの自慢げな声が聞こえるように思える。
『死傷者はいないはずだ。なんてったって俺の計画だからな』
「事前に言っておけ」
シドは小声でそう吐き捨てると顔の煤を拭った。
『敷地の入り口付近にある軍の救命車が既死軍のだ。それに乗って帰って来い』
振り向くと、ケイの言う通り、大きく陸軍のマークが描かれている救命車が遠くで静かに赤色灯を回していた。運転席から衛生兵の腕章をつけた軍服姿の男が降り、大声でシドとヒデを呼びつけた。
「石田一等兵殿、安野一等兵殿、こちらにお乗りください」
二人が重い足取りで車両に近づくと、男はにやにやと青白い顔で笑顔を見せた。その表情に気づいたヒデは小声で名前を呼ぶ。
「ジンさん?」
「わたくし、衛生部の森と申します。第四衛戍病院までお送りします。お疲れ様でした」
既死軍で宰那岐という、未だによくわからない不思議な役職を担当しているジンがわざとらしく自己紹介をする。
周囲のざわめきにまぎれ、シドとヒデは車体後方のドアから救命車に乗り込む。すぐ目に飛び込んで来たのは車載用担架に横たわっている大久保の姿だった。応急処置はされているが、その痛々しい姿にヒデはぎょっとする。シドは平然とした様子で、自分が痛めつけた人間を気にも留めず横の長椅子に腰掛けた。ヒデもシドと距離を取り、こわごわと横並びに座る。
ジンが運転席から後部に身を乗り出し話しかける。
「とりあえずここから離れる。車庫までしばらくかかるから寝ててもいい。大久保は眠らせてるから気にするな」
そう言うとひらひらと手を振り、アクセルを踏んだ。聞き慣れたサイレンが辺りに響き渡り、車体が動き出す。工場から離れるに従って安心感と疲労感が波のように押し寄せてくる。そこに心地よい揺れが加わり、ヒデは気が付いた時には眠りに落ちていた。
ヒデは天地の区別もつかない空間の遠くに父親の姿を認めた。顔は相変わらず霞がかったようで思い出すことはできない。どんな声だったか、どんな人となりだったか、確かに知っていたはずなのに、思い出すのを拒むようにすっぽりと抜け落ちてしまっている。
どうして父親の夢など見ているのだろうかと周囲を見回したところで、この不思議な世界を不明瞭にしているものが黒煙であることに気付いた。先ほど目の当たりにした炎が鮮烈な印象を残したのか、ヒデは業火の中に独りたたずんでいた。熱さと不快感で全身から汗が噴き出す。
燃え盛る赤い障壁の向こうから父親が何かを叫び、ヒデに手を伸ばした。その瞬間、夢にしてはいやに現実味のある痛みが全身に走り、口の中には鉄臭い血の味が広がった。手の甲で口元を拭うと、そこからぬるりと血が腕を伝う。とめどなく流れる一筋の本流はやがて支流にわかれ、既死軍の真っ白な制服を赤く染める。息苦しさを感じて咳き込むと、ぼたぼたと血が吐き出された。立っていられないほどの脱力感から、膝を折って身をかがめる。
恐怖か痛みか、あふれ出した涙と共に、これまでの人生で幾度となく打ち砕かれてきた「助けて」という陳腐な願いが口をついて出た。誰も助けてはくれないということは今更思い知らされるようなことでもない。
轟音を立てて、絶望すら焼き尽くすような炎が間近に襲い来る。血を吐いても、泣いても、死が迫ってもなお、頼れる人間などは存在しない。
「僕が助ける。僕が守る。だから、僕がやらなきゃ」
ヒデは震える足で立ち上がり、いつの間にか手にしていた下弦を握る。何千回と繰り返してきた動作で弓を構え、キリキリと引き絞る。何度も同じ言葉をつぶやきながら遠くに見える父親を見据えた。
迷いなく、ヒデは言い切る。
「僕が、殺さなきゃ」
放たれた矢は思い通りの直線を描き、父親の姿を霧散させた。
はっと目を覚ますと、そこはまだ救命車の中だった。前には横たわったままの大久保、右には腕組みをして眠るシドの姿があった。
ヒデはまじまじと手の平を見る。さっきまで下弦を持ち既死軍の制服を着ていたと思ったが、やはり今は陸軍の制服を着ているようだ。不快な夢だったと額に滲む脂汗を拭う。
立ち上がったヒデは助手席へと移動する。ジンは「起きてたのか」とちらりと横目でその姿を見た。
「寝てたんですけど、目が覚めました。嫌な夢見ちゃって」
ヒデは伏し目がちに座り、シートベルトを締める。さっきまでははっきりと覚えていたはずの夢は既に輪郭がぼやけ始めていた。
「気になるなら夢占いでもしてやろうか?」
「占いなんて信じてないです」
「夢占いってのはな、古代から世界中で行われている歴史ある由緒正しい占いだ」
ヒデの返答など相手にせず、ジンは言葉を続ける。
「しかし、何千年も昔の非科学的なものを今も有難がってるなんて滑稽だよな。きっと何かにすがって安心したいだけなんだろうな」
ジンは自分の発言を小バカにしたように鼻で笑った。信号が黄色から赤に変わり、ゆっくりと車窓から見える景色が止まる。
「ただ、夢を見ること自体には意味がある。記憶の取捨選択とも言われている。悪夢であれ、夢に見るってことはきっとヒデの中で捨てられなかった記憶なんだろう」
「でも、さっき夢に見たような記憶も経験も、僕にはありません」
「何も、一貫性のある実体験とは限らない。別々の記憶がでたらめに結び付けられているものの方が多いぐらいだ」
「ジンさん、詳しいんですね」
「俺は元々心理学と脳科学が専門だからな。時代が違えばオカルトだったのに、今じゃいっちょ前に高尚な学問扱いだ」
ジンは正面を向いたまま、表情を変えずに「笑えるよな」と再び嘲る。
「ルキのバカは何度説明しても『変な力』としか言ってくれないが、俺の持つ宰那岐という能力も心理学と脳科学に基づいたものだ」
「そんな立派な能力と経歴があるのに、何でジンさんは既死軍にいるんですか?」
「ヒデは既死軍のこと、本当に何にも知らないんだな」
再び景色が動き始める。後方に流れていく建物は深夜だと言うのにところどころ明かりがついている。
「知りたいことは山ほどあるだろうが、俺から教えることはできない。宿家親には宿家親の掟がある」
「わかってます」
既死軍の人間が多くを語らないことをヒデはすっかり理解していた。知りたいことはジンの言う通り山ほどあった。もうすぐ今の生活が始まってから四季が一巡しようと言うのに、共に暮らすアレンのことすら何も知らないままだ。知れば絶望するのだろうか、失望するのだろうか。それとも、希望を見出すのだろうか。しかし、好奇心から開けてみた蓋がパンドラの箱だったのでは取り返しがつかない。
「知らないほうがいいこともある、ですよね」
「それだけ知ってれば十分だ」
ヒデの物わかりの良さにジンはうっすらと笑った。




