211話 柵(しがらみ)
それは枷か、縁か。
雲一つない晴天に風が吹き抜け、青々とした木々の葉をざっと揺らして通り過ぎて行った。ヒデはその風で目を覚ました。少しだけのつもりで縁側で横になっていたが、もうすっかり昼を過ぎているようだった。これならちゃんと布団で寝ればよかったなと、硬い床のせいで少し痛む身体を伸ばして立ち上がった。どこかから鳥のかわいらしい鳴き声が聞こえて来るぐらいで、いつも通りの静かな世界だった。
夕方には任務に出なければならないが、それまで特段することもない。そういえば今日は軍服を着る任務だったなと思い出し、押し入れから木刀を引っ張り出して素振りを始めた。普段の任務なら弓矢と拳銃を使うが、軍人に扮するときは弓矢が軍刀になる。苦手な訳ではないが、少しでも慣らしておかないと、咄嗟の時に思ったように動けないかもしれないと、生真面目な性格がヒデを動かしていた。
それに、ヒデが任務で使う軍刀は、ミヤから譲り受けた大切なものだ。元々は陸軍に所属しているミヤの上官のものだったらしい。どうして自分に託してくれたのかははっきりしないが、そんな由緒ある軍刀を持つからには相応しい人間にならなくては、とも思っていた。
軍刀自体はルキの事務所に置きっぱなしになっていて、ルキが管理をしてくれている。いつ手にしても美術品のように手入れが行き届いている。ルキも多忙なのに、よくここまでしてくれるなと、口にはしないが感謝していた。
しばらくしてから、ヒデは居間にいたアレンに声をかけ、宿を出た。任務前にあまり練習しすぎてもよくないだろうと、気分転換に滝壺に向かった。手にはただの棒に糸と釣り針がつけられただけの簡易的な釣竿を持っている。堅洲村でできる数少ない娯楽の一つが釣りだ。この時間であれば釣果が見込めないことはわかっていたが、手持無沙汰な時間を潰すのにはちょうどいいと出かけて行った。
小さい村だというのに誰にも出会わず、宿の近くを通り過ぎても誰の声も聞こえなかった。みんな何をしているんだろうかと思っているうちに滝壺に到着した。先客はいなかった。
座り込んで釣り糸を垂らす。餌のついていない釣り針に魚は見向きもせず、悠々と水の中を泳いでいる。しばらく時折揺れる水面の音や風が鳴らす木の葉の音、鳥の鳴き声だけを聞いていた。またうっかり寝てしまいそうになるほどゆったりとした時間が流れていく。時間の経過を知らせてくれるのは、ここでは雲の動きだけだ。
一人で静かな空間にいると、いろいろなことを思案し始める。まとまらない考えや疑問などがぐるぐると頭の中を回り、何度か釣りをしていることを忘れて手を放してしまいそうになった。
そうこうしているうちに、そろそろ任務に行く時間かと立ち上がる。思った通り魚は一匹もかからず、来た時と同じ身軽さで帰路に着いた。
アレンに見送られてルキの事務所に向かい、ヤン、レンジと合流して地下の移動器に乗り込んだ。目的地まではずっと地下のままで、代わり映えしない景色が退屈さを助長する。移動器内では無言のときもあるが、だらだらと雑談をすることもある。今日はどうやらレンジが不満を言う日らしい。
「軍刀は苦手だからって断ったのにさぁ、無理矢理来させられたんだけど。刀なら俺じゃなくてジュダイがいるだろ、ジュダイが」
「へぇ、レンジは自分がジュダイに劣るってか」
あまり興味がなさそうにヤンは答える。確かにジュダイの得物は刀で、軍人に扮する任務は人一倍出ている印象がある。レンジの言い分もわからないではないが、ケイがそういうからには何か理由はあるはずだと、レンジの話を聞き流していた。
「いや、当然だろ。子供のころから真剣使ってたようなやつに勝とうとも思わないって」
「え、ジュダイってそうなの?」
「俺も詳しくは知らないけど、そんな話をちらっと聞いた。剣道と剣術と、他にもいろいろと物心ついた時からやってたって」
「多彩なんだね」
素直にジュダイを褒めるヒデに、レンジは頭の後ろで手を組んだ。仲のいいジュダイがそう言われるのは何となく気分がよかった。
「文武両道ってやつだな」
「それは認めるけど、文って、言うほどか?」
「だって俺より計算とかめっちゃくちゃ速いし」
「お前が遅いだけじゃねぇの」
けらけらと指をさして笑うヤンにレンジは「そういうヤンはどうなんだよ」と少しむっとした表情を作った。
「任務に必要ないことをわざわざ公表する必要はない」
「じゃあヒデは」
「え、僕は得意不得意はないかな。全科目平均点取ってた、かも」
適当にはぐらかしたヤンのせいで急にとばっちりを受けたヒデは当たり障りのない返事をしてレンジの機嫌をうかがった。しかし、当のレンジは平均的だと言ったヒデにすら「マジかよ」という顔を向けた。
それから話題はたいして膨らまず、しばらくすると無言の時間が流れ始めた。特に気まずいこともなく、暗闇が続く車窓を眺めたり、仮眠を取ったりと思い思いに過ごしていた。
何時間経ったのかわからなくなったころ、やっと目的地に到着した。地下から続く長いはしごを上り、久しぶりに地上に出た。そこは雑居ビルの一階で、何もなくがらんとしていた。地下からの出入り口を確保するためだけに既死軍が所有しているビルだ。違うビルに出るたび、一体何棟所有しているのかと不思議に思う。外に出ると、辺りはもう暗くなっていた。しかし、まだ夜の早い時間のようで、人通りは多い。
今日の任務は街の一角で行われているらしい軍人の不正な会合を暴くためだ。人が行き交う街中を歩くため、こうして軍人に扮している。この国では軍人は珍しいものでもなく、すれ違う時に会釈程度はするが、わざわざ気にも留めない。
頭に叩き込んだ地図とケイからの指示を頼りに雑踏と人ごみを抜けると、名の知れた高級ホテルに到着した。そこに入っていく人たちは誰もが気品にあふれているように見えた。
ヒデが今からが本番だと気合を入れているところに、一台の黒塗りの車が吸い込まれるようにして車寄せに入り、正面玄関で停まった。
そこから降りて来たのは、いつもの漆黒の軍服ではなく、ヒデたちと同じく灰色をした陸軍の軍服を来たユネだった。続いてレナ、ディスも現れた。
お互いに存在に気付き、顔を見合わせた。ディスがドアマンに手伝いは不要だと合図を送り、人払いをして近づいてきた。
「奇遇ですね」
「何だ、お前らも来てたのか」
ヤンが不満そうにディスを見上げる。ロイヤル・カーテスとは打倒蜉蒼を掲げ手を組んでいるため、休戦中だ。いつもなら任務が被ったときは共通の敵を倒しつつ、ロイヤル・カーテスの戦力も削ぐ機会をうかがうところだが、今日はそういうわけにもいかない。
それに、今までの共闘作戦のときは事前に計画や役割分担などが綿密に練られていた。だからこそ大きな衝突なく任務を終えられていた。今日はそんな計画もなく、偶然出会ってしまった。
もちろん、既死軍であれ、ロイヤル・カーテスであれ、今までいくつも任務をこなしてきただけあって、戦闘時の動きには無駄がない。お互いがその能力に一目置いていることが確かだ。だが、今まで敵として戦い続けていたため、急に共闘できるほど連携が取れるとは思えなかった。
「足を引っ張らないでいただきたいものですね」
「こっちのセリフだ」
一触即発の雰囲気の中、六人はエントランスへと入って行った。
オレンジ色に包まれた温かみのある明かりは、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが作り出しているようだった。ヒデは初めて足を踏み入れた異次元空間に、ゆっくりと足を止めて見てみたいという気持ちを抑え込み、ヤンたちの後に続いた。こんな場所には似合わない軍人たちがぞろぞろと歩いていても誰も注目する人はいない。しかし、従業員は一体何事かとじろじろとその姿を見ている。
そんな中、最後尾を歩いていたレナがヒデの隣に小走りにやって来た。いつもなら長い髪を揺らして戦う姿が印象的だが、今日は団子にまとめている。
「六人もいれば楽勝だね」
そう小声で話すレナの姿は一見すると軍人らしく凛としている。しかし、表情に出せないからか、纏っている空気感は今から戦うとは思えないほど穏やかで明るいものだった。
「そうですね」
「ユネもディスも、私はあんまり仲良くないから、今日はヒデくんがいてくれてよかった」
ヒデを見上げて少しだけ笑顔を作ると「でも、手柄は私たちがもらうからね」と早足でユネたちのほうへ向かって行った。
エレベーターホールについたところで、慌てた様子の男が一人現れた。支配人か、それに相当する人物だろう。当然、ホテルの上層部の人間であれば今日の会合のことは知っているはずだ。しかし、そこに知らされていない軍人が現れたとあっては、驚くのも無理はない。今行われている密会がどんなものなのか、彼は知りはしないだろうが、この六人に何か不穏なものを感じたらしい。前を歩いていたヤンたちを必死に引き留めようとしている。
だが、男の説得もむなしく、音を立ててエレベーターが到着を知らせ、その口を開ける。
「ここは私に任せてください。あとで合流します」
ディスが手で先に行けと合図をする。他の客たちはエレベーターを軍人に譲り、五人は目的の階へと向かった。
「さて、今日ここで何が行われているか、お話いただけますよね」
ドアが閉まったのを確認したディスは眼鏡の位置を軽く直し、感情のない表情で男を問い質した。