210話 采配
偉大さの代償は、責任である。
ヤヨイから「キョウ」という名前が出されたことに、ケイは一瞬だけ口をつぐんだ。もちろん存在を忘れていたわけではない。しかし、誘の役割が果たせない状態では、ケイがわざわざ気を配ってやるべき相手ではなかった。それを任せるために宿家親という役割がいる。
ケイの言葉を待たずにヤヨイは続ける。
「このまま放っておくというなら、俺の好きにさせてもらう」
「それは許可しない。誘としての利用価値がまだある」
「利用価値、とは、ケイらしくない言葉選びだな」
帰ろうとしていたはずなのに、ヤヨイは柱にもたれかかってタバコに火をつけ始めた。再びヤヨイの代名詞のような匂いが辺りを包み始める。
「前は任務に行かせるのを渋ってたくせにな。一年半ぐらい前か? たった一年半で、優しい庇護者から厳しい独裁者に豹変か? それとも、化けの皮が剝がれたとでも言ってやるべきか?」
「俺は既死軍全員を利用する側の人間だ。間違っていない」
ケイを見下ろすようにヤヨイは口元だけで笑い、「そう言うなら」と返す。
「どこまでキョウの現状を知ってる。情報統括官様が既死軍として利用してやるっていうなら、一体、アレをどんな用途で使うつもりだ?」
ケイは頭の中で最新の報告を思い返していた。
キョウはここ数年、日を追うごとに物忘れが激しくなり、今は任務には出ていない。出せないと言ったほうが適切だ。宿家親であるヨミですら毎日顔を合わせているのに、咄嗟に名前が出ないこともある。このまま症状が悪化すると、人として生きることすら困難になる。
しかし、任務に行けないからといって、既死軍から追い出すわけにもいかない。定期的に渡されるヤヨイからの診断結果を見てはいるが、ほとんどをヨミに任せっきりにしていた。
ヤヨイは続ける。
「あれからお前の言う通り、不本意ながら投薬をかなり減らしている。それで延命されたことは認めよう。しかし、そんなに長く生きるのがキョウにとっての幸せなのか?」
「既死軍は個人の幸せどうこうを考慮してやるような場所ではない」
「それなら教えてくれ。記憶もあやふやで、失明も時間の問題で、いつ狂暴化して暴走するかわからない。そんな人間を、まだ、どうやって誘として使うと? 俺のほうがよほど立派に既死軍のために、いや、世界のために役立ててやれる」
「キョウは実験動物じゃない」
「あの状態じゃ、同じようなもんだろ」
ヤヨイの言い分にケイは思わず立ち上がった。
目の前の男が極めて優秀な医師ではあることは認めるが、倫理観が自分とは大きくかけ離れている。こんな時にはミヤが仲裁に入ることが多かったが、今はそのミヤもいない。立ち上がったところで自分には手を挙げることもできない。それを知ってか、ヤヨイは強く握られた拳を見てしたり顔で笑っている。
「そこまでです」
不穏な空気を察したイチが仲裁に入った。その咎めるような視線はケイではなくヤヨイに向けられている。
「議論なら、日を改めて」
「イチはどう思う。お前の宿家親の言い分は正しいと思うか?」
「ここではケイさんが情報統括官です」
タバコを咥えたまま、ヤヨイは鼻で笑うように「そうか」と残してその場を去った。ほかにも言いたいことは山ほどあったはずだが、これ以上は何を言ってもイチに制されるだけだと判断したのだろう。
ヤヨイの背中を見送ったイチは立ったまま視線を落としているケイに目を向ける。
「また黎裔に行かせるつもりだ」
イチの視線に気づいているのか、ケイはそうつぶやいた。これはヤヨイの質問に対する答えだろう。
「まだ構想段階だからヤヨイには言えなかったが、イチには伝えておかないとな。まぁ、蜉蒼を潰すって言ってるんだから、わかってはいただろうが」
視線を落としたまま、疲れ切ったような様子で定位置に座り直した。
「そう、ですね」
「キョウはもう戦うことはできない。あとはただ衰弱して死を待つだけになる。そんなことぐらい、報告書を読んでいれば、明文化されてなくてもわかる。だが、すべてを忘れても、すべてを失っても、手放すことはできない」
暗くなっていた画面をつけ直したケイは、キーボードをゆっくりと打ち始める。
「俺にはキョウを誘として生かしてしまった責任がある。それを、俺の口から布団の上で死ぬのを待つか、ヤヨイの実験材料になるかを選べとは言えない。俺は最期まで誘として扱ってやるべきなんだ」
「黎裔に行くのは、いつですか」
「ロイヤル・カーテスとの休戦もあと半年程度しかないが、焦って黎裔に行く必要はない。秋口ってところだ」
「秋とは、短いようでも、長いようでもありますね」
窓から見える春の穏やかな景色にイチは目を細める。この青々とした草花が勢力を失うまでの時間は、もう何度も経験したというのに、何となく気が遠くなるほど長く感じた。
「そうだな。キョウのことを抜きにすれば、長すぎるぐらいだ。綿密な計画は必要だが、一刻も早く潰したいのが本音だからな」
「キョウは本当にそれまでもちますか」
「今の医療では命を削って症状の悪化を食い止めるか、心身を差し出して命を見逃してもらうかの二択しかない。それなら、ヨミには申し訳ないが、いくら暴走しようが危害が加えられることがないヨミに任せておくのが一番だ。誘は何があろうとも宿家親には勝てない」
「そうですね」
「薬で症状を抑えても死ぬ。放っておいても悪化して死ぬ。生きとし生ける者は全て死に向かっているとはいえ、死神には毎度無力さを突きつけられるな」
「ケイさんは死神よりも残酷です」
「それ、前も言われたな」
イチからはケイの背中しか見えないが、声色はどこか穏やかだった。まるでそう言われるのを受け入れているような、そんな声だった。
背中の向こうでは作りかけだったらしい報告書が文字で埋められていく。静かな打音と、時折書類が風にめくられる音だけが聞こえている。イチは何となくその場から離れられず、その様子を眺めていた。
「蜉蒼がなくなったら、黎裔はどう統治されますか」
しばらく経ってからイチが口を開いた。
「十中八九、ミヤが東奔西走することになるだろうな。軍の人間で土地勘があるのはミヤだけだ」
「それなら、早く帰って来てもらわないと困りますね」
一拍置いて手を止めたケイは「あの時は」と振り返る。
「シドもチャコもいた。死なないと思っていた人間でも、呆気なく死んでしまう。もし、また黎裔に行くとなったとき、万が一キョウもミヤも行けないとなると、黎裔を知っているのはヤンとヒデ。それにイチ、お前だけになる」
「僕は行けませんよ」
フェイスマスクで隠されて見えない口元が、微かに笑うように動いた。決別のような、諦めのような、そんな様子だった。
「僕が知っているのと、ヤンたちが知っているのは、きっと違う黎裔です。景色も、想いも」
「俺はイチの故郷を壊そうとしている。それでもいいのか」
その問いに、驚いたようにイチは目をしばたたかせた。どうしてそんなことを聞くのかとでも言うように、すぐに「懐かしいとも、帰りたいとも思いません」と返事があった。
「僕にとっての黎裔は、腐っても生まれ育った場所で、普通ならそこに郷愁という感情があるのかもしれません。ですが、僕はもう、既死軍の人間です。僕たちが既死軍でしか生きられないように、裔民は黎裔でしか生きられません。」
ケイが口を開きかけたのを知りながら、イチは続ける。
「それに、蜉蒼は無法地帯唯一の不文律であり、黎裔を司る神です。僕らが介入して、軍が統治することになれば、裔民は今までの生活も、神様もすべて失うことになります。地獄の始まりだと感じることでしょう。ですが、こちら側の世界を見た僕から言わせれば、蜉蒼は裔民の無知を利用した、ただの邪神です」
「こっちも地獄みたいなもんだ。さして変わらん」
皮肉っぽいケイの言い方に、イチは納得したように視線を返す。
「地獄では、死神と邪神、どちらが強いんでしょうね」
「死神だよ」
間髪入れずに予想していた通りの答えがあった。
こうしてケイが情報統括官の顔をしているときは、決して弱みを見せないことをイチはよく理解していた。この性格だからこそ務まる役職ではあるが、血の滲むような不断の努力をして獲得したものであることも感じていた。元々はこんな性格ではないのだろうと感じる表情や話し方をしている時もごくまれにある。
もし、ケイに万が一のことがあれば、情報統括官を引き継ぐのは自分だと日々言い聞かせてはいる。任務に関することは今も代理ですることがあるからできるだろうが、決断を迫られたとき、正しい判断を下せるかは疑問だった。
再びパソコン画面に向かっていたケイの背中に少し頷くと、イチは自分の部屋へと戻って行った。
イチが去ったあと、ケイの頭の中にはヤヨイが顔を覗かせていた。この男は相も変わらず、顔を出したかと思えば嫌味なことも言えば、痛いところも刺してくる。きっとイチがいなくてもヤヨイはある程度のところで一歩引いたのだろうが、既に刺されていた傷がズキズキと痛むように思えた。「生かしてしまった責任」とは、自分で言っておきながら変な言葉だなとため息をついた。だが、これこそが既死軍全員に向けられる誠意でもある。
ケイは書類の山から最新のキョウに関する報告書を手にし、まじまじと見つめた。この緩やかに死に向かう姿こそが、自分の責任なのだと固く目を瞑った。