209話 桃源郷
浮生、夢の如し。
開け放った窓から爽やかな風が舞い込み、ケイの髪を揺らす。相変わらずぼさぼさで整えられていない髪を搔き上げながら、ケイは任務の報告書を作成していた。
頭主への連絡役だったミヤが戦地へ行ってからというもの、人員不足から報告業務は滞りがちだった。連絡役の代理はルキが担っていたが、ルキはルキで探偵事務所の運営もある。そこに頭主のところへ赴いて報告書を手渡しする役目も加わると、事務所の人手が足りなくなる。ルキが不在のときはイチが留守番をしていたが、そうなると今度はケイの手伝いがいなくなる、といったように代理が代理の必要性を生み、悪循環に陥っていた。既死軍は所属する人間を選ぶがゆえに、常に人手不足だ。
そうしてしばらくはドタバタと過ごしていたが、ルキの跡継ぎにトウヤが任命されたことで状況はわずかながら改善した。伝書鳩代わりの鷹、水右衛門の活躍もあり、ミヤがいたときよりかは劣るが、申し分のない早さで頭主へ報告できるようになっていた。帰巣本能を持たない鷹に文書を持たせるのは、初めは奇をてらいすぎたかとも思ったが、案外うまくいくものだなとケイは一人うなずいていた。飛んでいるのは堅洲村からルキの事務所までの短距離とはいえ、そこに割く人員が減っただけでもありがたかった。
作成を終え、パソコン画面の右下にある小さい時計を見ると、もう昼を過ぎていた。立ち上がって窓から外を眺める。五月の上旬、一年で一番気候がいい時期だ。窓といっても、積み上げられた書籍や書類で半分も開かない。しかし、その隙間から見える木々は青々と太陽に向かって伸び、鳥が遊ぶように戯れながら飛び去って行く。白い雲は穏やかに流れ、時折吹く温和な風が心地よかった。
しばらく眺めていたいが、そうもいかないと、室内に目を向ける。そこは広々とした明るい外とはうってかわって、乱雑に物が積まれた薄暗い空間だった。毎度のことながら自分自身にもカビが生えてしまいそうな部屋だなと、定位置の座布団に座り直した。
ケイはパソコンの画面を手早く切り替え、ここ数か月の日課になっている、戦闘詳報の確認を始めた。戦地にいる帝国軍が本国にある総司令本部に送っている日報のようなものだ。一般公開されているわけでもなければ、特別なアクセス権を得ているわけでもない。ケイは自らの手でそのありかを突き止め、侵入に成功していた。
公に報道される内容はこの国ではかなり制限され、統制されている。報道内容と戦闘詳報との齟齬がないかの確認も必要ではあるが、ケイが真っ先に見に行くのは死傷者リストだった。
二度ほど見返し、その名前がどこにもないことに胸を撫で下ろす。それと同時にほんの数秒、黙祷を捧げた。軍人である以上、戦地で散るのは本望だったのかもしれない。それでも自分自身が戦死した父親を持つ以上、遺された家族の行く末を案じずにはいられなかった。黙祷は亡くなった本人と、その家族へ向けたものだった。
軍が派遣されたのは同盟国であるシャルハラードの支援のためだったが、どうやら収束に向かっているらしかった。参戦したのは開戦からしばらく経っていたが、それでもさすが世界最強の帝国軍が介入しただけのことはあるなと思わずにはいられなかった。
詳報の初めから目を通していると、廊下から誰かの足音が聞こえた。出かけていたイチが帰って来たのかと思ったが、歩幅や足音から別人だと判断する。そうなると、来客などほとんど決まっている。迎えてやろうと襖のほうに視線を向けると、やはり、思った通りのタバコの匂いがふわりとした。
「ここ、禁煙にしても来るか?」
「どうだろうな」
ヤヨイが襖を開けるなり、ケイは手元にあったアルミ製の安っぽい灰皿を投げて渡す。器用に受けたヤヨイは、そこに灰を落とした。
「何の用だ」
「そろそろ日報読んでるころかと思ってな」
「お前に伝えるようなことは何もない」
「それは重畳。ミヤも達者なようだな」
「心配してもないくせに」
「というか、逆にケイはミヤが死ぬかもって思ってんのか? 戦争なんかで死ぬタマかよ。心臓ブチ抜かれても死なないだろ」
隣に胡坐をかいて座ったヤヨイは再び煙を吐き出し、笑った。
「それに、きっと死ぬなら弁慶みたいな立ち往生だろうよ」
「あー、それは、何となくわかる」
想像してみたケイも納得したように笑みをこぼした。ミヤも軍人である以上は、きっと、死に場所には戦場を望むのだろう。
「それで、戦況は」
ミヤの安否は本題ではないようで、ヤヨイは早々に話題を変えた。
国自体も情報統制はされているが、既死軍でもかなり情報が制限されている。そもそもケイ以外には外界の情報を得る手段はなく、すべての一次情報が基本的にはケイからのものになる。今、帝国軍が援軍として戦地へ赴いていることも、その中にミヤがいることも、一部しか知らないことだ。
その一人がヤヨイだった。既死軍で医師としての重要な役割を担っている以上、伝えないわけにはいかなかった。その時は大した反応も見せなかったが、何か思惑があるようで、最近は時たま戦況を聞きに来るようになっていた。
「収束に向かっているようだ。さすが元帥閣下率いる帝国軍だ」
「実際は勝敗なんてどうでもいいんだろ」
「そんなわけあるか。シャルハラードが負けようもんなら、帝国軍が各国から叩かれる。元帥閣下、ひいては皇の顔に泥を塗ることになる。それは許されない」
「既死軍にいても、根は帝国の人間か」
「そりゃそうだろ。既死軍は頭主さまの理想を実現するためにあって、それは絶対不可侵の平和な帝国だ。皇をないがしろにしているわけでも、国家転覆を企ててるわけでもない。俺はその既死軍を動かしている。どこまでいっても、飽くまで帝国の人間だよ」
「ここは国で唯一といっていいほど監視されてない場所だ。国家転覆を企てるには格好の場所なのに、勿体ないもんだな」
「売国奴になりたいなら、もうとっくになってる」
一瞬の間も置かずに、ヤヨイは声を上げて笑い出した。至って真剣な表情のケイがどうも面白かったらしい。
「情報統括官ならできるってか。何も知らない誘を騙して動かすなんて、そうだな、しようと思えばできるんだな、お前は」
「できるんだよ。俺には。けど、そんなことしても何の利益にもならない。俺は頭主さまの理想に賛同している支持者だ。わざわざ反旗を翻す意味はない」
ヤヨイは「ふうん」と、どこか不満そうな反応を返した。短くなったタバコを灰皿で潰し、新しく火をつける。
「そういうヤヨイは? お前だって全員のこと洗脳しようと思えばできるくせに、やらないのか? 自分の思い通りに俺たちを動かせるんだぞ。それこそ国家転覆だって夢じゃない」
「そんな趣味はねぇよ。ここは俺にとっては楽園だからな。わざわざ壊す必要はない」
「そう言ってくれるならしばらく安泰だな」
「お前も、楽園はここか?」
試すような口ぶりに、ケイは皮肉っぽく口角を上げた。
「ここを何と表現しようと、俺たちはここでしか生きられない」
「複数形にして逃げてるようじゃな」
「事実を言ったまでだ」
「まぁ、お前の立場ならそう言うしかないよな。表の社会では生きられなくなった人間の墓場が堅洲村だ。それなら、終の棲家を悪く言うもんじゃない。そうだろ」
「中らずといえども遠からず」
窓から入って来た風が二人の服と髪をわずかに揺らし、紫煙を連れ去った。そこへちょうど、開けっ放しになっていた襖から遠慮がちにイチが顔を覗かせた。
「ケイさん、代わります。お話ならゆっくりと居間ででもどうですか」
「いや、もう帰らせる。どうせ暇つぶしだ。わざわざ場所を変えてまでする話じゃない」
「客人に大層無礼な言い分だな」
「客人扱いしてほしいなら客人らしく振る舞え」
定期的に意見のぶつかり合いがある二人だが、最終的にはヤヨイが立場をわきまえて一歩下がることが多い。ケイも温和に見えて意外と頑固なところがあり、負けず嫌いだ。情報統括官としての責任もその性格に一層の拍車をかけているのだろうが、元々その気質が強いのだろう。
二人の様子から、今日は大喧嘩に発展しそうもない。これがケイには息抜きになっているのだろうと、くだらない諍いに、イチは「わかりました」とだけ残し廊下を通り過ぎて行った。
ケイにあしらわれたヤヨイは灰皿に再びタバコを潰し、立ち上がった。
「まぁ暇つぶしっていうのは間違いじゃないがな」
「ほら見ろ」
「だが、用事はある」
帰りがけに言い出すことかと呆れる。ヤヨイがわざわざ足を運んでまで話したい内容など、思い当たることはない。今は誰もケガもしていなければ、病気にもかかっていない。それなら新しい実験だの何だのの許可でももらうつもりかと「それなら、それをさっさと言え」と催促した。
「キョウのこと、どうするつもりだ」
どうせくだらないことだろうと鷹揚に構えていたが、ヤヨイの出した名前に表情が変わった。いつも人を小馬鹿にしたように話すヤヨイがいつになく真剣な顔をしている。
爽やかな風にあおられた書類がぱたぱたと音を立てていた。