207話 天秤
掲げたのは、何物か。
初めて来たはずなのに、見慣れた深夜の倉庫街にヒデはいた。倉庫に最適な造りというものがあるようで、どこも似たり寄ったりな景色だ。屋根によじ登るのも慣れたものだ。
『ヒデ、そっちはどうだ』
「若干肌寒いかな」
耳元でヤンが思わず噴き出し『そんなこと聞いてねぇよ』と笑う声が聞こえた。
もう冬という季節は過ぎ去り、寒さと暖かさを繰り返す冬と春の狭間になっていた。桜が咲くにはまだ日がありそうだが、それでも着実に春は近づいている。
『下はまだちょっと暖かいぞ』
「いいな」
ヤンはどこかの物陰に隠れているらしい。遮るものがない場所にいるヒデは寒さから逃げるように少し移動した。まだ誰も現れる様子はない。
雑談と報告と沈黙を繰り返しているうちに、標的である麻薬密売人たちが現れた。抵抗もむなしく、次々と二人の手によって闇に葬られていく。
ヒデはあっさりと自分から見える範囲を片付けると、屋根から降りてヤンの加勢に向かう。まるで道標のように倒れている数人を辿っていくと、最後の一人を相手にしているところだった。しかし、鞭を手にしたまま、どうも攻撃する様子はない。どうやら何か話しているらしい。
近づくと、徐々に会話の内容が聞こえて来た。
「だから俺みたいな下っ端を殺し続けても、意味なんてない」
「自分を下っ端と卑下して死ぬのも哀れなもんだな」
ヒデに気付いたヤンは手を出すなとでも言いたげに一瞥した。ヒデはその通りに、弓矢を手にしたまま遠くから二人の会話を聞くことにした。
「今は戦争中だ。もっと多くの薬物が出回ることになる。治持隊か帝国軍か知らないが、到底手に負えるものじゃない」
「その流通を担えるほどの元締めなら、粗方予想はつく」
「どこの組だと考えてる」
「下手な誘導尋問だな」
ヤンは一瞬間を置いた。考え込んでいるようには見えなかった。答えはもう決まっているが、口を開くのを、ほんの刹那、ためらっているように見えた。
「曙光財閥だろ」
帝国には、国を支える五大財閥が存在する。もし一つでも欠ければ、人々の生活もちろん、国としても成り立たなくなる。その中心にあるのが五百年以上の歴史を誇る曙光財閥だ。その力は強大なもので、帝国の権力や軍を牛耳っているのは元帥ではなく曙光財閥だと囁く人間までいるほどだ。
そんな財閥が綺麗事だけで生き抜ける世界ではないことは一般人でもわかっているだろう。しかし、悪事はわかりやすい悪人が働くことであって、財閥のような国を支える企業はグレーゾーンの行為はすれども、真っ黒には染まり切っていないと信じたいのが心情だ。
だが、そんなのはやはり「綺麗事」でしかない。
男はまるで何かの縮図のようにくしゃりと顔を歪めて笑う。
「この国は、闇が深すぎる」
かみ合わない答えだったが、男の表情はヤンの答えが当たりだとでも言っているも同然だった。こんな時間にこんな場所で人を殺めている人間が、知らないわけはなかったかと納得しているようにも見えた。
ヤンは鞭をしならせる。これ以上の会話は十分だとその動作で伝えていた。
「命乞いならもっと上手くしてくれ」
鞭の先端が風を切る音がした。悲鳴を上げさせる暇もない。いつ聞いても寒々しく、乾いた音だ。男は仰向けに倒れる。先端の動きに合わせるように、男の胴体からきれいな線を描いて血飛沫が舞った。
「耳障りだ」
ヒデは無線で任務終了の連絡をしながらヤンに近づいた。顔についた飛沫を拭うその表情はどこかいつもと違っている。
「曙光の話、この前ルワもしてたよね」
「爺さんが死んだらしいし、話題性はあるだろ。それに今は戦争してるらしいしな。戦争と財閥は切っても切れない」
「それはそうだけど、戦争なら真浦のほうが暗躍しそうなもんだけどね」
ヒデにしてみれば、曙光財閥が悪事に手を染めていたのは初耳だろう。しかし、驚く様子は一切なく、当然のこととして受け入れている。それどころか、他の財閥まで持ち出して、同列に語り始めた。ヤンは、ヒデは既死軍の中では割と一般人的な思考をしていると思っていたが、既に「こちら側」に染まり切っていたんだなと感じた。
「真浦は真浦で武器の密輸が忙しいんだろ。そっちが十八番だからな。わざわざ曙光がやってる麻薬にまで手は出さないはずだ」
「曙光って金融系なのに麻薬やってるんだね。何となく黍津のほうがやってそうだけど」
「黍津は多分、もっと医療系の何かやってるんだろ。人体実験とか?」
「確かに、言われてみればそっちのほうがしっくりくるかも」
「しっくりくるのもどうかと思うけどな」
帰路に着いた二人の話題は徐々に日常生活のものへと変わっていく。先ほどまでは任務中特有の張り詰めた空気感だったが、それも今は弛緩しきっている。
ルキからの帰還の歓迎を毎度のごとくやり過ごし、ヤンとヒデは堅洲村へと帰っていた。朝の穏やかな空気の中、ヤンはヒデと別れた足でそのままケイの元へと向かう。
無遠慮に玄関を開け、声をかけることもなくケイの部屋の襖を開けた。ケイは振り向きもせず、背中を向けたままだ。いくつもあるモニターには人々が行き交う街中や、一切の動きがない室内など、国中のどこかが無数に映し出されている。ケイの目の前にある画面には文字が羅列されていて、何かの報告書を書いている途中のようだった。
どこからともなく機械のうめくような低い音が小さく聞こえている。
「制服のままとは珍しいな。せめて着替えてから来たらどうだ」
「今、聞きたいんだ」
「頑固なのか、せっかちなのか、まぁどっちにしろ満足するまで帰りそうもないな」
振り返ったケイは小さく笑った。
「ヤンの望むような答えができるかはわからんがな」
イチに代わりを頼み、ケイとヤンは居間で机を挟んで向かい合いに座っていた。取るに足らない会話内容であれば、こうして場所を変えることはない。ケイもそれなりに話すことがあるのだろうとヤンは感じた。
「曙光財閥の話だろ。さっき任務中に話してたしな。爺さんの死因でも聞きに来たか?」
「いや、別に。死因はどうでもいいし、死んだことすらどうでもいい」
「身内なのにか?」
「身内っつっても、会ったことほぼないしな」
「テレビや新聞で見るほうが多いってか」
「そうだな」
「ちなみに病死と公表されてはいるが、本当は毒殺だ。毒殺とは」
ケイのヤンを見る視線が変わる。「どこかで聞いたことのある話だな」と続けるケイのその声はいつもと少し違って聞こえた。それ無視するようにヤンはふいと視線を外す。
「さっさと潰せないのか。あんな財閥、あっても毒にも薬にもならねぇだろ」
「なってるだろ、毒には」
揚げ足を取るように笑うケイにヤンは面倒くさそうに「そういうことじゃねぇよ」と舌打ちをする。
「だが、実際そうだ。毒を以て毒を制すというか、曙光のおかげで麻薬の流通がかなり制限されているのは事実だ。曙光を無視して界隈でひと暴れでもしようものなら、後々厄介なことになる。そんなこと馬鹿でもわかる。だから帝国が、曙光だけじゃない、五大財閥のすべての闇に目を瞑っているのは、それが抑止力として機能しているからだ」
ケイが言うことはもっともだ。帝国が必要悪として見逃しているなら、既死軍もそう易々と手出しはできない。せいぜい伸びすぎた枝を剪定するかのごとく、目に余る行為を糾すだけだ。
「だから財閥は潰れないし、帝国が潰さない。自分でも言ってただろ」
ヤンは少しうつむいて唇を噛む。たしかに自分でそう言った記憶がある。つまり、自分でもはっきりわかっていたことだ。今更、国を牛耳っているとまで言われている財閥に手を出したところで、何かが変わるとは思えない。上手く世界が回っているというなら、そのままにしておくのが賢い選択だろう。
「それでも、俺は」
「お前の復讐心を満たすために既死軍はいるんじゃない」
ヤンは食い下がるでも落胆するでもなく、ただ静かに納得して聞いていた。ケイは情報統括官で、頭主が望む世界のために既死軍を動かす責任がある。私情で既死軍を使うことなどあってはならない。それは当然のことだ。ケイがこう答えるのは考えるまでもなくわかっていたことだ。
もうこれ以上の会話はしても仕方がないだろうと思っていたとき、ケイの「だが」という声がした。おもわず顔を上げる。
「ヤンに言われなくても、出過ぎた杭は俺たちが打つ」
ケイは不敵に笑っている。
「財閥は元帥閣下の傀儡でなければならない」
これが既死軍の全決定権を持つ男の顔だ。その頭は何手先まで読んでいるのか、明快な言葉からは失敗や不安、恐れといった負の感情は一切感じられない。
「けど、こんな戦争中に、大丈夫なのか」
「愛国心と復讐心を天秤にかけたとき、ヤンはどうしたい」
ヤンは言葉に詰まる。今、財閥が崩壊しようものなら、国の体制、つまりは元帥の権力までもが崩壊しかねない。元帥が既死軍を率いる頭主であることは、明言はされていないがヤンは既に知っている。元帥の権力がなくなれば、既死軍も共に闇に葬られるのは明白だ。
既死軍存続のために現状維持を望むのか、それとも自分の意志を貫くのか。その答えは既死軍に来たばかりの時なら即答できるはずだった。この人生は復讐に捧げようと決めていたはずだった。
「俺たちは常に選択を迫られている。その選択を正当化して進むしかない」
「俺は」
張り詰めた空気が全身を刺していく。引き裂かれるような心持ちがして、呼吸が荒くなっていくのが感じられた。
やっとのことでヤンは口にした。
「俺は自分の人生を肯定したい」
「思った通りの答えだな」
ケイの表情はまだ変わっていなかった。