205話 半睡
世界は、狭間で揺れる。
ヤンは手に巻き付けているベルトの革の感触を確かめながら、ちらりと周囲の様子をうかがってみる。一般人がいるところで戦うのはリスクが高すぎると躊躇していたが、近くを歩いていた人々の視線が急に携帯電話の画面に釘付けになった。それに歩く速度まで速くなったようで、思ったよりも早く人がいなくなりそうに思えた。理由はわからないが、この好機を逃すわけにはいかない。
『こちらサンク。我々の正面から来られるのはヤンとお見受けします』
不審な男たちの更に後ろにいるスーツ姿の男は、炯懿が言う「援軍」のサンクとセトだ。あまり会ったことはない二人だが、わざわざ援軍に寄越すぐらいなら能力は認めてもいいのかもしれない。ちらりと後方を確認すると、ルワはまだヒデに引き留められていて、二人ともすぐに参戦するようには見えなかった。
『駅からこちらに続く階段は封鎖しました。周囲の人々もこちらに興味を持つことはないでしょう』
「了解。お前らはどうする」
『我々はこのまま後方から、歩いて近づきます。取り敢えず、ルワたちが来るまではちょうど三対三ですし、担当制にしましょう。あなたから見て一番右をお任せします』
「わかった」
戦いの場までは、まだしばらく距離がある。自分の周囲は静まり返っていると言うのに、遠くからはざわめきが聞こえる。たった壁一枚を隔てた向こう側では、人々が夢から現へと戻り始めている。夢が続くなら、そのままのほうが幸せなのだろう。自分は選べるなら、きっと、死ぬまで夢の中にいたいと願うだろう。
ヤンは自分でも気が付かないうちに歩行速度を速めていた。サンクたちよりも先に男たちと近づく。すれ違いざまに、鞭代わりにしたベルトを男の足に巻き付ける。勢いよく引くまでもなく、足を取られた男は顔面から地面に倒れ込んだ。腹部の爆発物が圧迫したのか、短いうめき声を出す。
さっきレンジと倒した男たちの爆発物と構造が同じであれば、ピンを引き抜かない限り作動することはない。それに抜かれたところで、即座に爆発するわけでもない。対処法はいくらでもある。
「加勢します」
ヤンが男に馬乗りになり、両腕の自由を奪っていると、今まで無線越しだった声が頭上から降ってきた。
「俺が一気にやるから見とけ」
そう言うと、よくサイズが合うスーツがあったものだと思えるほど大柄なセトは勢いよく男二人の頭を鷲掴みにする。そのままお互いの頭を叩きつけようとするも、片方の男がそれを振り抜いて走り出した。
「そちらは任せました、セト。あと、俺のカバンも見ててください」
「おう!」
通勤カバンを地面に置いたサンクは男を追いかけて走り始めた。男はヒデとルワのほうへと近づいて行く。窮地を悟った男が少しでも道連れを増やそうとしているのがよくわかった。本来ならここは帰宅客でごった返しているはずだったが、規制に次ぐ規制で人通りはない。少しいた通行人も、今は大階段の向こう側に消えてしまった。人通りが多くある壁の向こう側へは行く手段もない。
だだっ広い空間では、ヒデとルワぐらいしか標的になる人物は見当たらない。
『え、これやっちゃってもいい感じ?』
サンクの耳元からはルワの声が聞こえた。正面ではルワとヒデが男を待ち構えている。
「いい感じです。けど、恐らくルワたちを巻き添えに自爆するつもりですよ」
『それヤバいやつじゃん。死にたくねぇ~』
『では、幸い周囲に誰もいませんし、一人で自爆してもらいましょう』
『ヒデって結構対応適当だよな』
『そうですかね』
緊迫感があってもよさそうなのに、どこかのんびりとした会話をしている二人だが、その様子は男の手の動きで一変した。間延びしていたルワの声が聞き慣れた任務用の声に変わる。
『あいつ、ピン抜きやがった!』
「そのままルワたちに突っ込む気でしょうね。どうしますか」
『あいつの速さを秒速十四尺として、だいたいここまでの距離が二百尺、爆発まで多分十秒。え、全然抜くの早すぎじゃね? 余裕じゃん』
『あの人、加速してますよ。僕が行ってきます』
『やっぱり訂正、秒速二十尺。サンクは戻ってセトのほうを頼む』
「けど、ルワは」
覚悟を決めた男には、後ろから追いかけている自分の方が早く追いつけるだろう。しかし、ルワはそれを許さなかった。あくまでも対峙するのは標的にされている自分だとでも言わんばかりに語気を強めてサンクを止めた。
『俺とヒデの骨は誰が拾ってくれるんだよ。戻れ』
「わかりました」
サンクが立ち止まり、後ろ髪を引かれるようにしながらも踵を返したのを見ると、ルワは隣を走るヒデに笑いかけた。
「ってかっこつけたけど、どうする」
「僕に言われても」
「あと五秒ぐらいか?」
「選択って、いつでも差し迫った状況でしなきゃいけないですよね」
「その通り。けど、俺たちはやれる」
「同感です」
ヒデは男の懐に潜り込み、巻き付けられている爆発物のテープを引きちぎった。火事場の馬鹿力とはこのことかと思えるほどあっさりと腹部からはがれる。今にも破裂せんばかりに灼熱の温度を手に伝える。
「ルワ、頼みました」
「頼まれなくても!」
ヒデからちょうどの位置へ投げられた爆発物をルワは渾身の力で蹴り上げ、空へと放物線を描いた。立ち上がったヒデの隣では「三、二、一」とルワがカウントダウンをしている。そして、きっかり零を数えた時、空で爆発が起こった。
一瞬、壁の向こう側から悲鳴とも歓声ともつかない声が上がったが、特段騒ぎになることもないようだった。
「サッカーとかしてました?」
ヒデは男に馬乗りになり、首から下げていた職員用通行パスの紐で手首を縛っている。そのまま自爆させてもよかったが、話が聞けるなら生け捕りにした方がいいだろうと二人とも判断した結果だった。
「いや、体育ぐらい」
「お見事でした」
どこか満足げな表情を作ったルワは視線をヒデから空へと移す。
「まさかヒデと花火を見る日が来るとはな」
「あれのこと花火って思ってるの、ルワぐらいですよ」
「いいじゃん、花火ってことにしようぜ。冬の花火なんて乙じゃん」
「乙とか、そういう感性あるんですね」
キラキラとした夢のような世界の締めくくりが花火ならそれでもいいかと、ヒデは思わず笑い出した。
会場内の楽屋ではトロアが携帯電話のカメラに向かって話していた。今は伏見という人間を演じている最中だ。伏見は人気ロックバンド国士無双のベースを担当している。配信自体は仕事の一環としてたまにしているが、ライブ直後にするのは初めてだった。
ルワから突然連絡が来たのはちょうどライブも終盤へと向かっているときのことだった。熱狂に包まれ、すべての集中力が自分の立っているステージ上に注がれる中、耳からは断片的にルワの声が聞こえていた。しかし、曖昧な返事すらできないまま、終演を迎えた。確か「終演後、間髪を入れずに配信しろ」と言われたような気がするが、その意図は全くわからなかった。もしかすると聞き間違いだったのかもしれないとルワに聞き直してみても返事は得られなかった。
意図も何もわからないが、配信ぐらいならしてもいいかと関係者に確認を取ると、楽屋に戻るが早いか携帯電話を手にした。ルワの望んだとおり、終演からさほど時間は経っていなかったように思う。
それから十五分ほど、メンバーが入れ替わり立ち代わり、場を繋いだ。
「それじゃあ、また~!」
笑顔で携帯電話の画面に手を振ったトロアは配信終了のボタンを押した。コメント欄は目で追えないほどの速さでファンからの言葉が流れていく。しばらくはその画面を眺めていた。
「伏見ー、さっさと片付けろよー」
「そうそう。家に帰るまでが公演なんだからさ」
トロアは「遠足かよ」と笑いながら携帯電話を机に伏せた。
そろそろ客もほとんどが会場を後にしている頃合いだろう。公演前に蜉蒼の爆発物が仕掛けられているかもしれないと言われたときは動揺した。だからこそ、無事に終演できたことが何よりも嬉しかった。それは今までの公演終了後に感じた充足感とは違ったものだった。
「何ぼーっとしてんだよ」
「いや、何でもない」
そう立ち上がったトロアは他の三人より遅れている片付けを始めた。
何時間にもわたる打ち上げが終了し、トロアは一人帰路に着いていた。しかし、その足は何となく家には向かわず、ロイヤル・カーテスが集まるバーへと向かっていた。マスターに会釈をし、ちらほらといる客の間を通り抜けてさらに奥へと進む。
「伏見ちゃん、お疲れ様~!」
ドアを開けると、ニコニコとしたルワがソファに寝転がっていた。任務の報告は聞かずとも、公演と同じく無事に終わったことがうかがえた。ロイヤル・カーテスのみ入室を許された特別室には、今日任務に出ると聞いていた数人が座っていた。口々にあいさつをする。
「その名前、ルワに言われると何かムカつくな」
荷物を隅に置き、空いている場所に座った。それと同時にルワもソファに座り直す。
「何でだよ! 俺ちゃんとCDとか買ってるんだぞ」
「いや、別に、言ってくれたら何枚でもやるけど」
「けど何かそれも悪いしさぁ」
妙なところで律儀だなと思いながら、今日の配信の意図を聞いておいたほうが今後の役に立つだろうと「それで」と話題を振ってみた。ルワが言うには、通行人に写真を撮られるリスクをなくすにはそもそも携帯電話のカメラ機能を使えなくすればいいという発想だったらしい。確かにファンの心理としては配信画面をわざわざ切り替えてまで他人の揉め事をカメラに収めようとは思わないだろう。それよりも関わりたくない、近づきたくないと足早に去ってくれるのではないかとルワは考えたらしい。
作戦が成功したことに「さすが俺の考えた秘策だな」と鼻高々のルワに、トロアは呆れたように笑う。
「何て言うか、褒めはしたくないけど、よく考えたじゃん」
「そうだろ」
「俺の人気に感謝しろよ」
自慢げなトロアに「けど」とサンクが横槍を入れる。スーツのジャケットを脱いでネクタイを緩め、だらりとソファにもたれかかっている。相当疲れがたまっているようだった。
「統計では伏見君は一番人気がないようですけどね。インターネットの三流以下の記事ではありますが」
「そういうの、数じゃないからさ」
「俺にはわからない世界ですね」
取り繕うようにルワが「俺もわかんないけどキラキラしててよかった!」とトロアを褒めちぎる。しかし、その一言で持ち場を離れていたことがカトルたちに知られてしまった。
「え、ルワ、お前」
「いや、これは違うくて」
「俺は寝て来るのであとはお好きにどうぞ。静かにしてくださいね」
通勤バッグを手にしたサンクはあくびを一つすると、地下の個室に続く階段へと降りて行った。背中からはルワの助けを求める声が聞こえていた。