2話 始まり
思い出すこと、それは騙すこと。
陽も傾こうかと言う頃、試合を終えた弓道部一行は電車に乗って帰路についた。駅に着くたび仲間は降りていく。みんな家に帰るのだ。一人、また一人と。
「どうしようかな……」
最後に一人残った秀は扉にもたれかかりながら考えた。カバンの中にはさっき貰ったばかりの地区大会の表彰状やメダルが入っている。しかし大事にする様子でもなくぐちゃぐちゃに詰め込まれていた。秀はこの勝利の証たちをどうするか悩んでいた。
「どうしようかな……」
心中で同じ言葉を繰り返し呟く。しかし答えは出ない。答えが見当たらない。
聞き慣れた車内放送の声が降車する駅名をアナウンスする。秀は電車から溢れ出る人波に押されながら改札を抜けた。人がまばらになったところで、携帯で時間を確認する。
空はまだ薄暗い。足は自然と公園に向かっていた。大通りから少し離れた、散歩道や池のある大きな公園だ。薄暗くなった時間にはすでに人影はなく、閑としていた。
池の前の適当なベンチに腰掛けると、カバンから表彰状やメダルを取り出した。それを手におもむろに立ち上がると池までゆっくりと歩いて行った。
ヒデは深く息を吸い込むと、勢いよく表彰状を破りだした。表情は無い。
修復不可能なぐらいに破られた表彰状は、風に吹かれて散り散りに飛んでいった。それを見届けると、今度は力一杯池の中心目掛けてメダルを投げ付けた。ポチャン、と波紋が広がり、やがて静寂が戻った。秀は柵にもたれかかりじっと波紋を見つめていた。薄暗い電灯に照らされる水の揺らぎを見ていると段々瞼が重たくなる。辺りは暗くなる一方だった。
すると、突然目の前に人影が現れた。人影は二つ、座り込んだ男の子と怒っている女の人だ。男の子は女の人に殴られながらも表情を少しも変えない。
「あぁ、これは誰の記憶だろう? いつの記憶だろう?」
秀はぼんやりと考える。彼女は少年を何度も何度も殴りながら繰り返す。「どうして?」と。少年はただ耐えていた。何故殴られているかわからない。自分が望んだ事じゃない。
「あの男の子は、あの女の人は」
秀はのろのろと状況を理解する。
「この記憶は」
いつの記憶かは分からない。昨日か一昨日か、それとも十年前か。ふっと女の人の姿が消える。今まで殴られていた男の子が立ち上がり、秀の方を向いた。
「そうだ、この記憶は……僕の」
幼い秀の口がゆっくり動く。
「僕は何も悪くない。だから君も悪くないんだよ」
優しい笑顔をしていた。
ふわっと風が頬を撫でる。はっと気が付き辺りを見回すと、いつもと変わらない夜の公園だった。さっきまで目の前にいた少年も母親も、見当たらない。
「夢、見てたんだ……」
視界が滲んでいる。いつの間にか泣いていたようだ。涙を拭いながら制服のズボンを探る。携帯を取り出し時間を見るともう日付が変わっていた。
「帰らなきゃ」
夢の事を考えながら何時間も置きっ放しにしていたカバンの方を振り向く。はたと思考が止まった。
誰かがベンチに座っている。秀よりも少し年下の少年だ。暗い公園には不似合いの白い服を着てにこにこと笑っている。
「阿清秀」
突然少年が秀の名前を口にした。
「だ、誰?僕を、知ってるの?」
「知ってる。よく知ってるよ」
言葉を発しようにも状況が呑み込めず、体がマヒしたように動かなかった。ベンチに座る少年もそれっきり話さず、しばらくの沈黙が訪れた。
「あ、あの」
口火を切ったのは秀だった。
「何してるんですか?こんな時間に」
「君が起きるのを待ってたんだよ」
「え?どうして、なんで僕を?」
「僕らには君が必要だから」
「な、に言って」
涼しいはずなのに、秀の頬を汗が伝った。「治安維持部隊に知らせなきゃ」と、やっと正常な思考が戻ってきた秀は思った。
「すみません、僕、帰るんで」
絶対に関わらない方が良いに決まっていると、恐る恐るベンチに近付き、カバンや弓道の道具を持って走り去ろうと背を向けた。
「帰っちゃうの?」
すると後ろから少年の声がした。憐れむような、哀しそうな声だった。
「帰っちゃうの?」
再び少年が言った。不意にさっきの夢が甦る。
――帰ったら夢は現実に
「帰ります!」
自分に言い聞かすように言い切ると、秀はその場から逃げるように走り去った。少年が追って来る気配はない。
アパートが見えたところで足を止め、肩で荒く息をする。走っている間中、あの声が離れなかった。何かが自分を引き止めている気がした。
――自分は本当に帰って良いのだろうか?
考えれば考える程少年の声が頭から、耳から離れない。
「……帰っちゃうの?」
再び声が聞こえた。驚いて振り向くとさっきの少年がいつの間にか立っていた。
「どうしてついてくるんですか!? やめてください! 僕に何の用ですか!」
理解できない状況に深夜の住宅街だと言う事も忘れ、声を荒げた。しかし、そんな秀に動じる事なく少年は続ける。
「帰っちゃうの? どうしても、帰っちゃうの?」
「僕が帰るかどうかなんて君には関係ないじゃないか!何で」
ふと少年の顔を見ると、今にも泣きそうな顔をしていた。
「何で」
──何でそんなに泣きながらも、僕を
一瞬で辺りが闇に呑まれた。自分は死んでしまったのかと錯覚するほどの静寂だった。
秀は再び自分を見ていた。
「夢、なんだろうか」
三人で食卓を囲んでいる。父親も母親も幸せそうに笑っていた。もちろん自分も。
秀はまだ幼かった。座っている椅子にはまっさらなランドセルが掛けられている。どこにでもある普通の家庭だった。
しかし、ある日突然父親の姿が消えてしまった。今でも何処にいるのか、生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。消えてしまった理由なんて知りたくもなかった。
あの日から母親は徐々に変わってしまった。
「そうだ。あれは僕が」
初めて母親に殴られた記憶。目の前には小学一年生の秀と、若いころの母親。ゆっくりと公園でみた夢が重なる。幼い秀は殴られていた。しかし、泣いてはいない。
「世界中の子供は七歳になるとみんな親に殴られる。これが“フツウ”」
そう思い込んでいた。そう信じていた。母親は涙を流しながら秀を殴り続ける。
「どうしてこうなるの」
「何で私なの」
「あなたさえいなければ」
「どうして生まれてきたの?」
そう繰り返しながら。
映像が乱れ、視界がぼやけ始める。秀は現実に引き戻された。いつの間にか涙が溢れていた。どんなに止めようとしても止まらない。後から後から溢れ出る。
「だけど、わかったんだね」
少年が優しく言う。
「そうだよ。わかったんだ。“フツウ”じゃないって」
その場にへたりと膝をついた。何かが壊れていく。崩れていく。そんな音が聴こえた。
「僕はずっと嘘をついてたんだ」
少年は黙って聞いている。
そうだ、僕は騙してたんだ。みんなを、自分さえも。
「それでも、帰っちゃうの?」
柔らかい声。全てを包み込むような、そんな声。
「僕は」
「もう、いいよね?」
少年が秀の目の前に手を差し出し、指をパチンと鳴らした。
――どうでも良いや
お母さんも、友達も、弓道も、この世界だって、もうどうでも良い。どうなっても良い。僕には関係ない。
そこで意識は途切れた。
男の子が女の人に殴られている。この映像はもう何度目だろう。秀は自分にあの男の子は自分で、あの女の人はお母さんだと言い聞かせる。
急に風景が切り替わった。真っ白で真っ暗な空間を、自分はどこまでもどこまでも墜ちていた。
はたと、上から自分を覗く人がいることに気が付いた。不思議な距離感ながらも母親だとはっきりわかった。
「僕らの距離は近くて遠い。こんな大きな歪の中で僕達は離れて行くばかり。僕らはお互いの首を絞めあってたんだね。お母さんを狂わせたのは」
世界は真っ白に変わり、地面に足がついた。気が付くと秀は一人になっていた。
「僕は何も悪くない。だから君も悪くないんだよ」
何処からか子供が現れた。この子供は幸せな頃の自分だ。幼い秀は無邪気に笑っている。
「違う」
秀は握った拳が僅かに震えているのがわかった。
「違う。僕が、悪いんだ」
「そうやって僕は僕を騙して生きてきたんだね。ずっと」
「違う。僕がいたから、僕のせいで、お母さんは」
「何でそう思うの?」
幼い秀は、真っ直ぐ秀の瞳をみていた。この目に嘘はつけない。
「だって、僕は!」
パキィン、と耳の奥で何かが砕けた音がした。繊細な何かが壊れてしまった。
声が響いた。
「どうしてそんなに僕を否定するの?僕は君なのに」
「確かに君は僕だ。だけど、僕は、君じゃないよ」
真実なんて一つじゃない。君は僕なのに、僕は君じゃない。この矛盾はどうしたら良い?
誰か、教えて――




