199話 善後
邪道を、正しく征け。
ケイからの依頼を了承したヤヨイはダラダラと雑談をしてから、少しの雪でぬかるんだ足元に文句を言いながら帰って行った。空っぽだった灰皿にはたった数時間で堆く吸い殻の山が築かれている。
ヤヨイをわざわざ呼んでいたのは、ヒデに対する懸念を払拭しておくためだった。「知らないほうがいいこともある」という便利な魔法の言葉は、何も必要以上に探りを入れようとするのを牽制するためだけに繰り返されているのではない。何かを知ってしまった人間や、真実に辿り着きそうになっている人間の記憶を再びまっさらな状態にすることができると仄めかしている言葉だ。その裏の意味に気付いているのが何人いるのかはわからないが、ヤヨイの手にかかれば、そんな魔法をかけることだってできる。
だが、人間が作り出した魔法はいつか切れてしまう。
思ったより積もらなかった雪は、朝になると溶けきっていた。もうしばらくすると冬も終わるのだろう。
再び夜の帳が下りたころ、ケイはオイルランプを手にのろのろとミヤたちの宿へと向かっていた。自室に籠もりっきりになるケイを見るに見かねたイチが「荒天以外は雨戸を開けに行くように」と言ったからだった。立場が逆転しているのも気にせずケイは律儀にその約束を守っているが、今日はこんな時間になってしまった。
真っ暗な室内は相変わらず寒々しく、人が住まなくなった建物は簡単に朽ちていくというのは本当らしいなと、雨戸を開けながら考えていた。
縁側に座ってぼんやりと空を眺めてみる。ミヤもシドもほとんど私物を持っていないとはいえ、数着の着物は残されている。何となくシドの着物も処分する気にはなれず、ミヤが帰ってきたら好きなようにするだろうと頭のどこかで任せている。寒さを感じ、投げ出していた両足を自分の胸の方に引き寄せて腕で抱え込むようにする。すっかり冷え切ったズボンが徐々に体温で温まっていくのを感じた。
何もかもに納得してきたわけではない。今、自分がここでこうしていることも、この宿が無人であることも、あまり納得はしていないのかもしれない。それでも、ミヤとシドの選択を否定する気にはならなかったし、今でも間違いではなかったと信じている。ミヤはいつも「仮定の話はしない」と言っていた。今ならその言葉が痛いほどよくわかる。ありもしない未来や過去を想像したところで、それは所詮「ありもしないこと」でしかない。この考え方はミヤなりの処世術なのかもしれないと、自分以上に波瀾万丈らしい彼の人生に思いを馳せてみた。
自分にもヤヨイが魔法をかけてくれて、何もかもを忘れられたほうが楽なのかもしれないとさえ思えて来た。
ミヤたちの宿にいると余計な事ばかり考えてしまうなと、雨戸を開けっ放しにして再び玄関で靴を履いた。しばらく換気しておこうと、気晴らしに散歩をすることにした。
村を歩いてみても、こんな夜中に明かりが灯っている宿はない。しんとした静かな世界に自分の擦るような足音が大きく響いているような気がした。
足を向けたのは滝壺だった。こんな夜にはきっとヤンがいるだろうと確信していたが、思った通り、そこはぼんやりと明るくなっていた。
「また来たのか」
「凍死してないかと思ってな」
「余計なお世話だ」
シドは滝壺にいるとき、必ずと言っていいほど釣り糸を垂らしていた。別に何かを釣ろうとしているわけでもなく、ただ手持ち無沙汰だから手に釣竿を持っているという様子だった。一方、ヤンはただぼんやりと滝壺から足を投げ出して寝転がっているだけだ。空には星が瞬いているが、そんな輝きには無関心なようで、こんな人間に見られては星も輝きがいがないだろうと隣に座った。
「ケイも考え事か?」
「いや、お前の相手をしに来てやった」
「頼んでねぇな」
ケイが横に座ると、ヤンも上体を起こした。こちらを見るその表情はいつもと少し違っている。普段人と会うときは長い前髪を後ろに流してピンで留めて額を出しているが、今は前髪を下ろしているからだろう。幾分か柔らかく、そして幼く見えた。
「けど、『ケイも』ってことはお前も何か考え事してるんだろ。聞いてやるよ」
「いつから人生相談も請け負うようになったんだ」
「趣味の一環だな」
「変な趣味してんな」
小馬鹿にしたようにケイの冗談を短く笑い飛ばしたヤンはしばらく黙った。何を考えあぐねているのかは一目瞭然だった。
沈黙を嫌うようにケイは「もうすぐ春だな」とつぶやいた。ヤンは一体何を言い出すんだと怪訝な目を向ける。当たり障りのない天気や季節の話など、ここで聞くことはほとんどない。ましてや誘とは任務に関係のない話をほとんどしないケイが何の脈絡もなく口にしたので、驚きよりも先に何の意味があるのだろうかと勘繰った。
「いや、まだもうちょっと先だろ」
「そうだな。これからが一番冷え込む。けど、春が近づくころが一番寒い。春が近い証拠だ」
「春だから心機一転、ってか? ケイにしては凡夫だな」
「お前がわかりやすいようにな」
「そりゃどうも」
再び鼻で笑ったヤンは視線を空に向ける。少しだけためらうような間を置いて、ヤンが口を開く。
「ケイなら」
先ほどまでとは違う、弱々しく今にも消えてしまいそうな声がした。
「ケイなら、止められたんじゃないのか」
何を指しているのかは考えるまでもない。以前、シドの死を伝えた時にも似たような言葉を吐かれた。その時、ヤンが更に何か言いたげにしていたのは気付いていた。しかし、それを言わせてはならないと踵を返し、背を向けた。それが今となっては最良だったのかわからない。だからこうして、自然と足が向かったのかもしれない。
「言っただろ。俺が何もしなかったと思うのかって。けど、どうやらお前の答えは俺の想像とは違ったようだな」
ヤンは目を固く閉じた。珍しく眉間にしわが寄っている。言いたくないこと、言わなければならないこと、すべてが葛藤しているのが見て取れる。案外わかりやすいものだなとケイは次の言葉を待った。
しかし、ヤンは言葉ではなく、握られていた拳をケイにぶつけた。軽い音が鳴る。ほとんど距離のない位置からの攻撃だったが、ケイは易々と左手でその拳を受け止めた。
「お前がよくわかってるはずだ。その頭で、その身体で。誘は宿家親には勝てない。何があっても、絶対にな」
「何でだよ」
ケイの手のひらの中にあるヤンの拳は、その言葉とは裏腹に力が込められていく。その原動力は怒りや哀しみ、そして虚無感なのだろう。
「何で、勝てないんだよ。俺たちは泥にまみれて、血にまみれて、戦ってるのに。何で勝てないんだよ」
「さあ、何でだろうな」
「ケイを一発殴れたら、俺だって、前に進めるんだよ。ケイを悪者にして、俺は被害者ぶって、それができたら」
うつむいているヤンの表情はわからない。だが、わずかに震えている声がその感情を表している。
「わかってるんだよ。俺は、ケイが何もしなかったわけがないって。俺だって、あのとき間に合うはずがなかったって、ちゃんとわかってるんだ。こうなるしかなかったって」
冷たい風が吹き付ける。春が近いとは言ったものの、今が最も寒い時期だ。刺すような冷たさにさらされた頬が、何故か殴られたように熱を帯びていく。
「けど、もうわかんねぇんだよ。俺はシドのために死ぬって決めてたんだ。なのに、俺はどうしたらいいんだよ」
大きく息を吸ったヤンは、今までの勢いを失ったようにぽつりとこぼした。
「俺の、死ぬ意味を教えてくれよ」
「死に希望を見出した時、俺は死ぬことを善しとする」
はっとヤンは顔を上げた。この一言で、死の真相に触れた気がした。
ケイにしても、洗いざらいを話してしまったほうが軋轢もなく、責め立てられることもない。しかし、はっきりと明言できないのは立場があってのことだ。それでも、どうにか言葉を選んで伝えようとしてくれたことをヤンは理解した。
いつまでも終わったことに囚われているわけにはいかない。
ヤンの乱れた前髪が目にかかっている。暗さも相まって、顔が見えているというのに、表情がよくわからない。今にも泣き出しそうなのを必死にこらえていることだけは声色で感じられた。別に悲しくて涙がこぼれそうになっているのではないだろう。言葉にならない感情がすべて涙に変わっただけのことだ。
「ヤンはシドの意志を継いで死ねばいいんじゃないか。誘で一番近くにいたのはお前だ。お前が一番、誘としてのシドをわかっている。シドに倣えと言うわけじゃないが、ヤンにしかできないことだと俺は思う」
「まだ、シドのために死ねる余地があるのか」
「お前は、お前が信じたものを貫いて死ねばいい。俺はシドたちが決めたことを否定しなかった。だから、ヤンが決めたことも否定しない」
「何で、そんな風に言えるんだよ。情報統括官なのに、寛容さとか優しさなんか持ってどうするんだよ。俺たちを使役する側のくせに」
「ヤンも今まで散々否定されてきたんだろ。意見も、存在も、命さえも否定された人間が行きつく先が既死軍だ。ズタズタに心が切り裂かれた死体を蹴るような真似は俺にはできない」
ヤンはやっと拳を下ろした。冷たかったはずの手は熱を持っていた。