198話 淡彩
隠すなら、森の中。
連れ帰った鬼の名前は「トウヤ」と決まったらしい。堅洲村の道端で偶然会ったトウヤはヒデを認めると「久しぶり」と笑顔を見せた。服装もすっかり変わり、鋭かった目つきもどこか穏やかさがある。これがトウヤの本来の顔のようだった。空高くでは鷹が青空を悠々と旋回している。
「僕のこと、覚えてるの?」
「当然じゃろ。あの期間のことはあやふやなところもあるんじゃけど、大体は覚えとる。あんな山ん中まで来る物好きなんていねぇからな」
「地図にも載ってないんでしょ」
「よく知っとるな。まぁ今となっては住人もいなくなったし、マジの消滅って感じじゃな。いや、愉快愉快」
トウヤと村人の間に何があったのかは知る由もないが、記録にもない限界集落だったとはいえ、村を言葉通り消滅させたのは他でもないトウヤ自身だ。それなのに、当の本人はどこか他人事のようにけらけらと笑いながら故郷を語っている。やはり既死軍へ来る人間は一癖も二癖もあるんだなと、ヒデもまた他人事のように思っていた。
「そういえば、あれ、名前何だっけ」
話題を変えようとヒデは大空を指差す。トウヤにとって大切らしい鷹の名前は確かに任務中に聞いたはずだが、はっきりと聞き取れてはいなかった。
「水右衛門じゃ。最初は一緒に暮らすの渋られたんじゃけどな、宿家親っていうんか? ダツマも今はつつかれながらも仲良うしてくれとる」
ダツマはかつてリヤと共に暮らしていた宿家親だ。リヤ亡き後ずっと一人だったが、やっとまた役目ができるんだなとヒデは安心した。何となく、宿家親は一人よりも誘と共にいるほうがいいと感じていた。
「ヒデも仲良くしてくれな。兎ぐらいなら捕れるから、いつでも言ってくれ」
「そ、それはどうだろう。またいつか、機会があれば」
それから二言三言交わし、ヒデは再び歩き始めた。
出歩いていたのは、ケイの宿へ向かっていたからだった。セン、アヤナ、そしてトウヤのことを思い返してみる。三人ともヒデが既死軍へ連れて来た誘だ。いわゆる「生前」のことは詳しく知らないが、それでも三人には共通することがあった。小さくはあるが、膨れ上がりつつある疑問を質しに行くつもりだった。
玄関の引き戸を開けると、しんとした薄暗い廊下が伸びていた。ほのかに温かく感じるのは、ここが数少ない電気の通っている宿だからだろう。来訪者に気付いたのはイチだった。居間の襖が開き、何の用かとヒデの方へと歩いて来る。宿にいる時もフェイスマスクは外さないのか、いつも通り鼻まですっぽりと覆われていて、目しか見えない。
「ケイさんと話したい、というか、聞きたいことがあるんだけど」
「居間で待ってて」
ケイの宿の造りは他とは違っている。玄関からは長い廊下が伸び、奥の方に居間がある。廊下の左右にはそれぞれ部屋があり、恐らく私室なのだろうが、襖が閉じられていて中は覗けなかった。ヒデがこの宿に入るのは二回目だ。
居間はさほど広くもなく、畳敷きの部屋の中心に長方形の座卓が置かれているだけだ。そういえばここには囲炉裏がないんだなと、自分の宿と全く違う構造にきょろきょろと室内を見回してみた。
イチは先にヒデを居間にやると、ケイの部屋に入った。最近のケイは多忙というわけでもないが、今もパソコンで次の任務に向けて準備を一人進めていた。
「ヒデか?」
パソコンから目を離さないままケイは聞く。カタカタというキーボードの打音が心地よい。
「はい。ケイさんに聞きたいことがあるそうです」
「思ったよりも遅かったな」
「わかるんですか? 内容」
「十中八九、な」
手を止めてケイはイチを見上げる。
「イチは既死軍に来る前のことは覚えてるか?」
「はい。だって、覚えておくために、僕は残しているんですよ」
何を、なのか考えるまでもない。無意識にケイの視線がわずかに下がる。
食事を共にするケイにとっては見慣れたものだが、イチは他人に滅多にフェイスマスクの下を見せることはない。それは人肌の色を失った傷とも火傷ともつかない醜く爛れて歪んだ口元で、潰された喉からは人工的な合成音が発せられるだけだ。イチの本当の声はケイも聞いたことがなかった。
ケイは立ち上がり、イチと場所を交代する。
「俺たちの罪と罰、そんな下らん話だ。ヤヨイにそのまま伝えておいてくれ」
「わかりました」
そのまま部屋を後にしたケイは居間に入る。そこではヒデが正座して待っていた。伸びた背筋の凛とした居住まいはさすが弓道を長年していただけはあるなと、思わず心の中で賞賛する。
「ヒデが来るとは珍しいな」
胡坐をかきながらケイは正面に座る。ヒデは何か言いたげにしているが、言葉にならないのか、ためらっているのか、すぐに話始める様子はなかった。それを見かねたケイが口を開く。
「何となくヒデが来た理由は察しがついている。俺たち既死軍のことだろ。というか、それ以前の話か」
少し伏し目になっていたヒデはその言葉にはっと顔を上げた。図星のようだ。意を決したように「僕は」とヒデはおどおどとケイを見つめる。その瞳は澄んでいるようでも、濁っているようでもあった。
「僕は、誰を、殺したんですか」
確信にも似た問いだった。「誰か」ではなく、「誰を」と聞いたのはヒデも無意識の内に何かに気付いているからだろう。やはりなと思いながらも、ケイは表情一つ変えなかった。
「自分の記憶が信じられないのか。そんな記憶、ないんだろ」
「でも、僕は子供の時の記憶がない、というか、ないわけじゃないんですけど。はっきりしないし、もしかしたら、その時」
「ヒデの記憶が曖昧な時期なんてせいぜい十歳ぐらいまでなんだろ。そんなの、誰だって記憶はあってないようなもんだ。気にするほどのことでもない」
納得しかねている不服そうな表情にケイは一旦引き下がる。ヒデはたまに頑固なところがあるんだったなと性格を思い返してみた。
「それなら、そう思った根拠は。俺の所にわざわざ来たんだ。何か理由があるんだろ」
「トウヤも、アヤナもセンも、僕が既死軍に連れて来るに至った三人は人を殺しています。それなら僕もそうかも、って思ったんです」
「確かにその三人は人殺しだが、三十人近くいる既死軍のたった一割でしかない」
「でも」
「それとも、ヒデは今更殺人犯になりたいのか?」
何かを言おうとしたヒデは目で制され、押し黙った。ケイは考える時間を与えないとでもいうかのように、畳み掛ける。
「仮にヒデが既死軍以前に殺人を犯していたとして、今、どうしたい。罪を償うとでも? 記憶もないのにか?」
そう言われると、確かに思い込みだったように感じられてきた。それに、確かに今更自分は過去を知ってどうしようというのだろうかと、確信していた思考にも疑問を持ち始めた。
「誰かを弔うにも、罪を償うにも、確固たる信念がいる。漠然としたままじゃ、不誠実じゃ、ダメなんだ」
ケイは短く息を吸う。
「罪と罰は、もっと崇高であるべきだ」
瞳と同じように真っ直ぐなケイの言葉が突き刺さった。
既死軍のすべてを背負うケイは生半可な覚悟でその立場にいるわけではない。「不確かな死者に捧げる不確かな祈りなどあってはならない」とでも言っているかのような一言ひとことが体の中にすんなりと溶けていく。ケイが既死軍のトップにいるのは、何も聡明さや決断力だけではない。それまで培ってきた自分と他人の人生の重みを言語化できるからのようにヒデには思えた。
何も続けられなくなったヒデはただ「ケイさん」と名を呼ぶだけでやっとだった。
「ヒデは帰って休んだほうがいい。考えすぎだ」
言いたいことも聞きたいこともまだ山ほどあるのだろうが、ヒデがそれを言葉にできる性格ではないことをケイはよくわかっていた。すべてを押し殺してきた性格は、既死軍へ来て数年経つとはいえ、すぐに変わるものではない。このまま負債のように感情を溜めさせるのはよくないとはわかりつつも、これ以上会話を続ける自信はケイにもなかった。
「既死軍は既に死んだ人間の集まりだ。過去に執着しても、過去は変えられない。だからこそ、生前の人生も名前も俺たちは語らない。ヒデは今だけを見ればいい」
少しの沈黙のあと、ヒデは「わかりました」と頭を下げた。
「忙しいのに、僕の話を聞いてくれてありがとうございました」
「これも仕事の内だ」
「それでも、ありがとうございました」
「みんながヒデみたいに素直に礼を言ってくれれば俺も報われるんだけどな」
呆れたように笑うケイに、ヒデもここへ来て初めて笑顔を見せた。再度頭を下げたヒデは部屋を後にした。
「知らないほうがいいこともある、ってか」
玄関の戸が閉まる音がしたかと思うと、今度は居間にヤヨイが現れた。薄汚れた白衣のまま、にやにやと柱にもたれかかって腕組みをしている。
「イチと聞いてたぜ、ペテン師野郎め」
「俺は言葉を選んだだけだ」
「そういうのをペテン師って言うんだよ」
ケイは否定もせず鼻で笑った。どこから持ってきたのか、ヤヨイは銀色をした空の灰皿を机に置く。カランという軽い音が部屋に響いた。
「二回目で気付くかと思ったが、意外と時間がかかったな」
遠慮もせずに、ヤヨイは我が物顔でタバコに火をつける。
「けど、何回目で気付こうが、どうせお前に否定される運命なんだろ」
「否定はしていない。肯定もしてないがな」
「やっぱりペテン師じゃねぇか」
「何とでも言え」
再び嘲笑したケイは「まぁ、聞いてたなら話が早い」と本題に入った。
冬の短い太陽はその間も徐々に傾きを落としていく。ヤヨイが帰路に着くころにはすっかり日も暮れ、うっすらと雪が積もっていた。