194話 死角
見えなくても、そこに。
まだ太陽が昇り始めたばかりのころ、ヒデたちは山中を歩いていた。道なき道を歩き続け、やっとケイから指示された通りの場所に出た時には、すっかり朝も過ぎていた。
山の中腹から見下ろすのは、大自然には似合わない工場だった。山間に突如現れた人工的な建物は静かに流れる川に沿って建てられ、その水を引き込んでいる。
「もうちょっと街中に建ててくれたらいいのにな」
「僕もそう思う」
ヤンとヒデは自分を落ち着けるように大きく呼吸をする。しばらくすると、更に呼吸を荒くしたアヤナがやっと追き、その場にへたり込んだ。
ヒデはアヤナと任務に出るのは初めてだった。堅洲村では会うことも少なく、会話もあまりしたことはない。ヒデはアヤナの通う高校に潜入し、友人として一か月ほど監視していた。その時はよく話していたが、既死軍で再会したアヤナは会話内容どころかヒデの顔さえ覚えていなかった。潜入中は別人格を演じているようなもので、覚えられていても何となく気恥ずかしかったので、ヒデも深くは考えないようにしていた。しかし、同じ高校の制服を着ていた人間がこうして既死軍の制服を着ているのは、何となく妙な感覚だった。
アヤナは手ごろな太さの幹に背中を預け、「こんな山道なんて聞いてない」と不満げに肩で息をしている。
「たまにあるよな、こういう訳わかんねぇとこ歩かされる任務」
「あるね。獣道があればまだマシ、みたいな」
「慣れるしかないな。まぁリヅヒにしごいてもらえや」
鼻で笑うようにヤンはアヤナを見やる。
「リヅヒは優しいから、そういうのはあんまり」
「そうそう。ケンカしてるのってヤンのところぐらいだよ」
「うるっせーな。俺は絶対ゴハに勝つんだよ」
宿家親との関係は人それぞれだが、ヤンのところは誰から見ても特殊だった。誘は宿家親には勝てもしないのに、ヤンは果敢に挑んでいく。勝ったところで得られるのは充足感ぐらいなものだが、ヤンはそんなのはお構いなしだった。温厚なアレンやリヅヒと共に暮らしている二人にしてみれば、お世話になっている宿家親に拳や木刀を向けるなど想像もできないことだった。
そんな他愛もない話をしながら三人はお互いから少し離れ、監視の態勢になる。
工場は古い建物で監視カメラも取り付けられておらず、ケイからは中の様子は確認できない。構内図も建設当時のものが見つかりはしたが、劣化がひどく、参考になるようなものではなかった。そもそもそんな工場が存在するのかと訝しむヤンたちをルキが無理矢理送り出したのが、この任務の始まり方だった。
ヒデは隣のヤンをちらりと横目で見る。
シドが死んで一月は経っただろう。ヤンはいつも通りにも見えるが、どことなく影が濃くなったようにも思えた。あれほど慕っていた人物がある日突然死んだと聞かされて冷静でいられたはずがない。たったこれだけの日数では気持ちの整理がつくこともないだろうが、表面上だけでも普通に見えることに安心感を覚えた。
「出歩いてるやつは見当たらねぇな。何だ、休みか?」
双眼鏡から目を離したヤンは無線でケイに話しかける。すぐさま返事があった。
『俺の計算では、毎日稼働させたとしても想定枚数を刷り終わるまでは三か月以上かかる見込みだ。休んでるとは到底思えんな』
「偽札の印刷工場としか聞いてないんですけど、想定枚数ってあるんですね」
『不要かと思って伝えてなかったが、最低でも三千万枚は要るだろうな。重さはおおよそ八千貫。まぁその広さがあれば保管場所には困らないだろう』
「数字が大きすぎて全然わかんないです」
『荷物の輸送とかで使ってる大型の貨物自動車で三台分ってとこだな』
それでやっと三人は何となくだが想像できたらしい。感嘆とも驚きとも取れる声が三者三様に聞こえて来た。
「そんなに必要なのか? 経済ってやつ、俺はわかんないんだけど」
頭に疑問符を浮かべているアヤナがわかりやすく首をかしげる。確かに偽造貨幣が出回れば、経済は混乱する。帝国であれば重い罪として罰せられ、罰金などでは済まない犯罪とされている。だいたいどこの国でも同じような扱いだろう。しかし、一体何枚ほどあれば経済が混乱に陥るに足るのかは想像すらできなかった。
『俺なら最低はそれぐらい刷るって感じだな。仮に現在の帝国で換算すると、国内で流通している紙幣は百八十億枚と推定されている。そうなると六百枚に一枚が偽造紙幣という計算になる。これは全国に満遍なく流通していた場合だ。しかし、経済を混乱させるには別に全国に流通させる必要もない。局所的に短期間で流せば、疑心暗鬼から貨幣への信用度は勝手に全国的に下がるって仕組みだ』
ケイに聞いてはみたものの、アヤナは首をさらにひねるだけだった。それを見かねたヒデは助け舟を出す。
「つまり、工場内は印刷で大忙しってことですよね」
『俺の説明を全部聞かなかったことにするなら、そういうことだ』
せっかく説明したのに、結局そういう陳腐な言葉にされるのかという、呆れたようなケイの声が聞こえた。ケイの説明は確かに簡潔でわかりやすいが、その簡潔さに慣れるには時間がかかるだろう。ヒデは申し訳なく思いつつも、アヤナが何となく納得しているように見えて安心した。
しばらく眺めていたが、労働者や運送用の車は施設内に見られなかった。このまま眺めていても時間を無駄にするだけだと、しゃがんでいたヤンは立ち上がって双眼鏡をしまった。
「そろそろ行くか。ここにいても寒いだけだしな」
「寒いなら燃やすのヤンがする?」
「んな訳ねぇだろ。俺はひと暴れさせてもらう」
水を得た魚のようにヤンは口角を上げて笑う。手は手持ち無沙汰な様子で無意識に武器である鞭を触っている。やはりヤンは戦いの場がよく似合う。そこに立つ姿は、想像しただけでどことなくシドを彷彿とさせる。
「だと思った。それなら僕が引き受けるね」
「じゃあ、俺はヤンと行動すればいいって感じ?」
「そうだな」
「終わったら合流するね」
「まぁ、とりあえず、あそこまでたどり着くのが先だな」
眼下に広がる工場は、見えはしているものの、この山道を下って行くのかと思うと遠く感じられた。敷地内への入り口は川の上流と下流の二か所にある。ヒデは途中で二人と別れ、上流のほうから潜入を試みることになった。何度か斜面を覆う落ち葉で滑りかけはしたが、こんな所でケガでもしたら、わざわざ来た意味がないと用心深く下山する。
ルキから聞かされた任務の概要は、犯罪者が廃工場を利用して外国の偽造紙幣造っているということだった。国名や理由などは知らされていないが、聞いたところでそれが任務に影響するとは思えなかった。海外の紙幣などめったに見るものではないので単純に好奇心はあったが、それを燃やすことに対する抵抗感は一切なかった。
しばらく下って行くと、だんだんと空が遠くなり、工場が近づいてきた。川はゆったりと、あまり広くない川幅をせせらぎの音と共に流れていく。
単純に火をつけると言っても、紙は意外と簡単に燃えてはくれない。合流するのはだいぶ先になるか、先にヤンたちが終わる可能性もあるなと、やっと到着した入り口からキョロキョロと敷地内を見回してみる。
「こっちは入り口着いたけど、ヤンとアヤナは?」
『あと少しだ。下りながら見てた感じだと、多分屋外はあんまり警戒しなくてもよさそうだな。俺たちは工場に直行する』
『くれぐれも印刷機は壊してくれるなよ』
『わかってるって』
耳が痛いとでもいうように、再び現れたケイにヤンはぶっきらぼうに答える。
『お前はムキになると何をしでかすかわからんから言ってるんだ』
それを聞きながら、ヒデはゴハとヤンが壊したという襖や壁の話を思い出していた。任務では冷静で的確に状況を判断し、その場を仕切ることも多いヤンだが、確かに堅洲村にいるときはどことなく子供っぽさがあるなと妙に納得できた。この言い方からするに、被害を受けているのは間違いなくケイなのだろう。声を荒らげはしないものの、淡々と小言を言っている姿が目に浮かんだ。
『アヤナ、ヤンのこと頼んだぞ』
『わかった』
『逆だろ! 何で俺がアヤナなんかに』
耳元でヤンの不平不満を聞きながら、ヒデは施設内に入った。監視カメラがないというのは、それを介してケイが指示を出せないのは不便ではあるが、誰かに見られているかもしれないという心配事が減るのは利点でもあった。監視社会である帝国は、街中であれば死角がないといっても過言ではないほど至るところに設置されているが、これほど山奥の古びた建物であればその監視の目からは逃れられるのだなと思った。
そんなことを考えていると、もともと目的地にしていた建物に着いた。豆腐のように四角い形で、大きさから考えて物資が置いてある倉庫で間違いなかった。大きな扉の取っ手にはわかりやすく鎖が巻かれ、そこに南京錠がつけられている。ダイヤル式のもので、数字を合わせるか破壊するしか解除方法はない。合わせなければならない数字は四桁で、しらみつぶしに探すにしては数が多すぎる。それなら選ぶ手段は一つだけだとヒデはあたりを見まわした。探すまでもなく手ごろな石はいくらでも落ちていた。
南京錠を難なく開錠し、扉を横にスライドさせる。使っているはずなのに、錆びついているような金属が軋む音があたりに響く。
「ありました。何枚かはわかんないですけど、僕が人生で見て来た紙幣の総額よりも多いと思います」
大金を目の前にすると、もっと心躍るものかと思っていた。しかし、目の前にあるのは見たこともない外国の紙幣で、それに理解を超えるほどの量というのは却って現実味がなかった。積み上げられた雑多な荷物でも見上げるかのように、ヒデは何とも言えない感想をケイに伝えた。