193話 余波
その真贋を、見極めろ。
久しぶりに探偵事務所に戻って来たルキはドアを開けるなり「疲れた~!」とソファに飛び込むようにして倒れ込んだ。今から戻ると言う報告はあったが、突然の登場にイチは一瞬だけ驚いた。しかしすぐに「お帰りなさい」と、この部屋の主に椅子を明け渡そうと立ち上がった。
イチから見れば、ルキのふわふわと揺れるような金髪と堅苦しい灰色をした軍服は不釣り合いだった。しかし、何度も潜入捜査をしているルキであれば、軍人らしい立ち居振る舞いもお手の物なのだろうと、腑抜けた表情の裏にある顔を想像してみた。
「留守番ありがとね~。何かあった~?」
「いえ、問題は何もありませんでした。ついでにお客さんもですけど」
「そっか~。それはそれでどうなんだろ~?」
ケラケラと笑ったルキはソファに寝ころんだまま天井を仰ぎ、その顔をイチが覗き込むように見下ろす。ルキが帰ってくるのは移動も含めて二日ぶりだ。どこで何をしているかは想像もつかないが、その間、寝る間も惜しんで諜報活動をしていることは想像に難くなかった。疲れたとは口では言っているが、そんな様子は少しも見せていない。
「このまま仮眠でも取りますか?」
「いや~、イチは帰っていいよ~。ケイの生活心配だし~」
「そうですね」
お互い納得したところで、聞き耳を立てていたらしいケイから無線が入った。呆れているような、しかしどこか笑っているような声色だ。
『俺のこと何だと思ってるんだ』
「万年睡眠不足でしょ~?」
『仕方ないだろ。それも仕事の内だ』
「ほら~そんなこと言ってる人をさ~、長期間一人にできないじゃん~」
イチもうんうんと頷きながら「今から帰ります」と部屋を後にした。
ドアが閉まるのを合図に、ルキはソファに座り直す。軍服の詰襟を緩め、だらりと背もたれに身体を預ける。
「そうそう。イチが着くまでに面白い話しといたげるね~」
『軍であんまり嗅ぎまわるなよ』
「けど、ミヤだから聞ける話もあれば、逆にミヤだから聞けない話もあるわけでさ~」
ミヤが戦場に姿を消してからというもの、ルキは代わりに身分を偽り陸軍本部に出入りしている。それは頭主にケイからの書類を届けるためだったが、ルキの目的はもう一つあった。ミヤは大佐という地位や元帥の側近という身分があり、それなりに自由も融通も利く立場だ。しかし、逆に言えば、その高すぎる立場が邪魔をすることもある。ルキは潜入も慣れたもので、人の懐にするりと入り込める性格も相まって、ミヤでは知ることのできないような秘匿された情報を調べるのが得意だった。
今回も書類を渡すついでに、いろいろと探ってきたようだ。
『いちいち勿体ぶらずに教えろ』
「偽札の面白い話聞いちゃった~。白波機関って、やっぱり知ってる~?」
『当然だ。もしそのことについて教えてほしいなら、先に吐くのはルキのほうだ』
「やっぱり口堅いなぁ~」
簡単に情報を開示しないケイにルキは一人で口角を上げる。それは自分が足で稼いだ情報をケイに伝えられることを楽しみに思っている顔だった。知識量では圧倒的な差でいつも負けるが、堅洲村から出られないケイには知ることのできない情報を自分は握っている自信があった。まるで自分が書いた見聞録でも読み上げる気持ちだ。
「白波機関は昔からある軍の極秘機関で~、たまに外国の偽札を造ってるところでしょ~?」
『正解だ。それから?』
「成り立ちとかは長いから割愛するとして、じゃあ、今稼働してるって知ってる?」
にこやかに発したルキの言葉にケイは「は?」と顔をしかめる。しかし、思い当たることはあった。
『今、ってことは、もしかしてダル・ルアンか?』
「ご名答~!」
ぱちぱちと手を叩いたルキはそのままタバコの箱を軍服のポケットから取り出した。
現在、帝国は戦争中であるシャルハラードを同盟国として支援している。その一環として、敵国ダル・ルアンの偽造紙幣を造り、経済を混乱させようと言う案が出されていた。それはケイも耳にしている。確かに、この国には偽造紙幣を造るための白波機関という極秘の組織が存在する。回数こそ多くないものの、何度か他国の経済を混乱に陥れて来た。だからこそ、存在を知る一部からは当然のようにその案が出されたわけだが、今回の戦争はわざわざ偽札を造って流通させるほど戦争は長引かないと、元帥にあっさり却下されている。
久しぶりに緊張から解放されたように、ルキはたっぷりと吸いこんだタバコの煙を吐き出す。
「帝国が介入したところでさ~すぐに戦況に変化が出るわけでもないでしょ~? 軍の完全撤収までには二年ぐらいかかるんじゃないかな~。白波機関を動かすには十分だよね~」
それはケイが独自に算出した年月よりも少し長いものだった。しかし、大きく外れているわけでもない。やはりどう考えてもそれぐらいが妥当なのだろう。ミヤの姿がチラつく。
軍関係者のほんの一部にのみ定期的に公開されている戦争での死傷者リストを確認する気は起きなかった。役職を全うするために確認しなければならないことは重々理解している。しかし、そこに名前を見つけてしまった時のことを考えると、食指は動かなかった。いや、動かそうとしなかった。
真っ白な布に包まれた骨壺が脳裏に浮かんできた。激戦区であれば、死んだところで骨も拾われない。中に入っているのは何の変哲もない石ころだ。自分の父が石に変えられたように、ミヤもその姿になってしまうのではないかという恐怖が手を止めていた。
ケイが導き出したミヤの生存率は決して低くなく、七割程度といったところだ。しかし、三割の不安要素は実際よりも大きく見えていた。
『だが、それには人も金も資源もいる。わざわざ元帥に隠れて造るほどのものか? ダル・ルアンの経済なんて、戦争に負ければ勝手に悪くなるし、俺も造るほどではないと思う』
「どん底まで落ち込めば、大した支援じゃなくても有難く見えるもんだしさ~。ダル・ルアンが沈めば沈むほど、儲かる人が帝国にはいるんだろうね~」
『理屈はわかる。しかし、相手がわからないなら、こちらも下手には動けない。軍が絡んでいる以上、既死軍を動かすのは当然だが』
「それを調べるのがケイの仕事じゃん~」
『こんな中途半端な状態で俺に丸投げするつもりか』
「ケイに任せておけば安心だからね~」
表情が見えないのをいいことに、ルキは声を上げて笑った。その声色からは呆れている様子が目に浮かんでいた。
「あと、白波機関の構内図、持ってる?」
『いいや。昔調べたことはあるが、さすがに極秘機関だからな。その時は見つからなかったが』
ミヤに頼めば、と言いかけたところで、ケイは言葉を変える。つい、いつもの癖で軍内部のことは報告ついでに一任しそうになってしまった。丸投げしていたのは自分も同じだったかと頭を掻く。
『今なら探せば見つかるかもしれんが、時間はかかるな。悪魔の証明をするようなもんだ』
「何かあればルキさんもいつでも潜入するからさ~、頼んだよ~」
ルキはタバコを灰皿で潰すと、やっと立ち上がった。事務所の隣にある自室で軍服からいつものスーツに着替える。堅苦しさは変わらないが、それでも慣れたスーツは着心地が良かった。
窓から入る太陽は少し落ち始めていて、昼の短さを感じさせた。ピリピリとしていた軍の空気感はやはり肌に合わず、こうして自分の居場所でイチやケイと話しているほうが当然ながら解放感があった。
「初めてってぐらいの頻度で軍の本部に出入りしてるけどさ~」
ネクタイを締めながらルキは遠い世界に視線を向ける。息が詰まりそうになる世界は選ばれた人間の更に一握りにしか馴染めないと思った。そこでうまく立ち回り、名を轟かせるには才能や運が味方するだけでは足りないはずだ。
「どいつもこいつも私利私欲っていうかさ~、何て言うかさ~」
はっきり言いたいことが決まっているわけでもないのだろう。ルキは「えーっと」や「うーん」を何度か繰り返している。次の言葉を促すこともなく、ケイは自分の作業を進めながら耳を傾ける。
「帝国のために命を賭して働こうって心から思ってるのってさ~、本当に本当に一部なんだな~って思っちゃったんだよね~」
どこか寂し気な声でルキはネクタイの形を整え、視線を上げた。余所者である自分が外から見ていた帝国軍は、間違いなく世界最強を謳うにふさわしい組織で、そこの誰もが帝国のために命を捧げているようだった。しかし、奥深くまで入り込んでみると、見える世界は違っていた。お互いがお互いを監視し、隙があれば出し抜こうとしているような、そんな人間関係が繰り広げられていた。信用に足る者などこの世にはいないのかもしれないと疑心暗鬼に陥る人間もいるだろう。
「頭主さまが既死軍を創った気持ち、何となくわかった気がするな~」
ルキは今でこそ既死軍での重要な役割を担っているが、創設時にいたわけでもなければ、どういう理由があって創られたかを教えらえることもなかった。既死軍が目指す理想は徹底的に叩き込まれたが、そうなるに至った根本的なものにルキは初めて触れたような気がした。
「ミヤはさ~あんなところで一人で戦ってたんだな~って思たんだよね~。何て言うかさ」
『いない人間の話をしても仕方がない』
不機嫌そうなケイに言葉を遮られ、そのまま無線も切られた。無駄話は不要だとでも言うようだったが、ルキはその意図を理解しているように小さく何度かうなずいた。