192話 陋巷(ろうこう)
表通りに、潜む。
那由他がふと目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。そこは板で簡易的に補強しただけの大人一人がやっと寝そべることができる程度の広さしかない地下だった。もちろん立ち上がることはできず、出入りは這ってするしかない。そんな穴倉の中で、布団とも呼べない薄い布に那由他はくるまっていた。徐々に目が慣れ始め、そういえば地下で寝ていたんだったなとのそのそと地上に這い出た。そこはまだ掘っ立て小屋の中で、トタンや薄い木の板でできた壁や屋根からは絶えず隙間風が吹き込んでいる。地上はやはり寒いなと白い息を吐いた。
小屋の外はまだ薄暗く、世界はこれから朝を迎えようとしていた。しかし、巨大な貧民街である黎裔は既に活動を始めている人間が多くいるらしい。話し声や、生活音が四方から聞こえてくる。
再び地下に戻った那由他は紐が通された円月輪を腰に結び付け、枕代わりにしていたいつもの赤い羽織に袖を通した。
太陽が高く昇っていたところで大して暖かくなるわけではない。しかし、その恩恵にすらあやかれない時間帯は氷点下にもなる。比較的暖かい地下でもう少し寝ていればよかったと思いながらも、ドアに見立てた板に巻き付けた鍵代わりの針金をねじって解いた。
一か月ほど前、ダムでの戦いで右腕が再び切り落とされた。縫合手術で再び腕を得ることはできたが、脳にはまだ体の一部とは認識されていないようだった。動くことは動くが、すぐに戦えるようにはならない。日常生活で慣らしていくのが一番だと那由他は何度か手を握ったり開いたりしてみた。
今日は大した予定もないが、蜉蒼としてやらなければならないことは多くある。元々この黎裔はもっと無秩序で、目も当てられない生き地獄だったと聞いている。国の手が及ばない貧民街とはいえ、無法地帯のままではいずれ崩壊してしまうと自警団のようなものを作ったのが風真煌暉だった。煌暉はその組織を「蜉蒼」と名付け、今は六代目の風真煌悧が役割を引き継いでいる。やがて蜉蒼は独自の統治体制を作り上げ、黎裔を率い、統治する組織となった。
風真の人間は黎裔に暮らす裔民にとって神のような存在だ。那由他も蜉蒼の一員である前に、一人の裔民で、例外ではなかった。神に仕える身として、その顔に泥を塗るようなことがあってはならないと日々を暮らしている。
那由他はすれ違う人々からの挨拶を軽く返しながら、いつもの見回りを始めた。何か大きな問題があれば裔民の方から声をかけて来ることが多い。その内容は家の修理や子供同士のケンカから殺人の犯人探しまで幅広く、わざわざ自分が出なければならないのかと思うようなこともある。しかし、頼って来る人々を無下にもできず、結局言われるがままその場に顔を出すしかない。
今日も太陽が昇り始めたころ、金物屋と古靴屋が争っていると腕を引っ張られた。現場に到着すると、どうも金物屋の商品を古靴屋が盗んだという内容で、大の大人が殴り合っていた。金物屋と言っても、どこから手に入れたのか見当もつかない廃材や廃品、古ぼけた工具ばかりだ。それでもこの貧民街では家を補強したり、仕事をしたりするのには十分だった。
とりあえず両者を引き離した那由他は問いただす。
「それで、古靴屋は何を盗んだっていうんだ」
「釘だよ、釘。こいつ、十本近く盗みやがった。那由他、どうにかしてくれよ」
「いいや、那由他くん。俺は風で散らばっていたのを見かけて、なおしてやっただけだ。それを盗んだなんて言うもんだから」
興奮冷めやらぬ金物屋の言い分では、夜明けごろ、不審な物音に店先を見てみると、しまい忘れていた箱を古靴屋が物色していたとのことだった。毎日店じまいをするときに商品の数を数えているから、釘が減っていることは間違いないらしい。そう捲し立てる手には盗まれたと主張する釘と同じものがあった。錆びついていて、何本かは少し曲がっている。那由他の脳裏には黎裔の外で見たキラキラと光り輝くような新品の釘が浮かんでいた。真っ直ぐな銀色のそれは、きちんと袋に小分けされていて、サイズも種類も豊富で、溢れんばかりに店の棚に並んでいた。そんなものはここにはない。今、目の前にあるのは比較するのもおこがましいような使い古しだ。一本一本、金物屋がどこかから拾ってきたのか、買い取ったのか、盗難品の横流しの可能性だってある。こんなもののために大人が争っているのかと思うと、黎裔と外の世界を比較できてしまう自分が目の前の男たちよりも不幸に思えた。
「古靴屋の服は調べたのか。証拠さえあれば済む話だ」
「それが、ポケットに入っていたのは元から持っていたものだって主張するんだよ。でも、無くなった本数と同じなんて、偶然にもほどがあるだろ」
「それなら誰か目撃者はいないのか。第三者の目が必要だ」
そう那由他が周囲を見回すと、野次馬たちもきょろきょろと顔を動かす。目撃者は望み薄かと諦めかけた時、青年が一人声を上げた。古靴屋の犯行を見たというのだ。
「お前、それは正しいのか。お前の言葉一つで古靴屋の人生は変わる」
「間違いない。こいつ、この前の大雪で壊れた家を直してるんだ。俺の店からも板が盗まれた」
青年の主張に古靴屋の顔はみるみるうちに青ざめていく。もとから覇気のない顔から更に血の気が引くのが見て取れる。
「み、見張ってたのか?」
「そうだよ。イヌタのじいさんにも頼まれててな」
青年の言い分では、どうやら古靴屋は窃盗の常習犯らしかった。やっと尻尾を掴んだのだろう。勝ち誇ったように青年は笑う。
「やってくれよ、那由他。清々するぜ」
それに合わせるようにして、周囲の野次馬も口々に声を上げる。古靴屋は逃げ出そうにも、取り囲まれて身動きが取れなかった。
「最後に問うが、古靴屋、今の言葉は認めるのか。俺は公平に意見を聞かなければならない」
「し、仕方ないだろ、俺だって家族がいる。雨風をしのいでやらなきゃ」
「しかし、繰り返しの常習犯とあっては見逃すことはできない。古靴屋。自分の罪は、自分に返って来る」
弁解をしようとする古靴屋を遮り、那由他は円月輪を手に取った。言い分がわからないわけではない。誰もが苦しんでいるこの黎裔で生きていくためには闇に紛れるのも賢い生き方だ。しかし、それが明るみに出てしまった以上は統治する者として相応の罰を与えなければならない。
周囲をかき分けて逃げようとする古靴屋を男たちが取り押さえた。
「お前の心は清く、家族思いだ。しかし、その右手はどうも悪に染まっているようだ。お前が善人に戻れるよう、諸悪の根源を断ち切ってやろう」
地面に押さえつけられた古靴屋はこの寒さだと言うのに額に脂汗を滲ませている。那由他を見上げ、小さく怯えた声を漏らした。
太陽が高く昇った昼前、那由他は道端に座り込み、魚のすり身と野菜の切れ端が浮いた熱いスープを器から直接すすっていた。味はほとんどしないが、この季節には温かいだけで十分だった。これが今日一回目の食事だ。黎裔では台所のない家がほとんどで、道端で自炊をするか、飲食店とも呼べないようなところで金を払って食事をするのが一般的だ。外から流れて来た食料品や残飯など、衛生面にさえ目をつぶれば意外と食の種類は豊富にある。
午後からどの道を通って見回りをしようかと考えていると、那由他を見かけた男が走り寄って来た。那由他とあまり年の変わらない青年で、店主にいくつか注文をすると、馴れ馴れしく隣に座った。
「聞いたぞ、那由ちゃん。また泥棒の腕を切り落としたんだって?」
「そうだな。報復刑はわかりやすくて助かる」
「その腕、どこ行った?」
「いつも通り豚屋に売った」
「カタバのところか?」
「そうだ。あそこが一番羽振りがいい」
「那由ちゃんでも金のことは気にするんだな」
「当然だ。俺だって暮らすには金が要る」
「俺ならもっと高値で買ってやれたのに」
「お前は胡散臭いから好かん」
「面と向かって言うなよ」
男はそう笑い、那由他の肩を叩く。その衝撃で少しスープがこぼれ、恨めしそうに那由他は男を睨んだ。
「四厘分こぼれた。弁償しろ」
「ケチなこと言うなよ。富裕層のくせに」
「うるさい。ここで信用できるのは蜉蒼と金だけだ」
再び睨まれた男は諦めたように「はいはい」とポケットから取り出した小銭の中から五厘硬貨を一枚手渡した。しかし、それを一目見た那由他は硬貨を突き返す。
「これ、偽造硬貨だろ」
「バレるの早すぎない?」
「最近よく見かけるもんでな。俺を舐めるな」
「流石だな。ていうかこれ、蜉蒼はかかわってないのか?」
「かかわっていたとしてもチガヤには教えん。お前にかかわると碌なことにならない」
「言うねぇ」
ケラケラと笑う男、チガヤを横目に、那由他は呆れたように「経験則だ」とスープを飲みほした。
「俺はもう行く。チガヤは、一緒に来るか。また肉が手に入るかもしれないぞ」
「いや、遠慮しとく。蜉蒼とかかわると碌なことにならんからな」
返事を鼻で笑った那由他は器を店先に置かれている大ぶりのバケツに放り込んだ。そこには平皿や深皿など、色も形も違う皿がいくつも無造作に入れられている。店の主人はそこから平皿を取って汚れた布切れできれいに拭き上げ、チガヤが注文した料理を盛った。それはとうの昔に変色した油で揚げられた肉だった。チガヤに料理を手渡しながら店主は「いってらっしゃい」と那由他に手を振る。
「親父、チガヤは偽造硬貨持ってるから気をつけろよ。何かあれば蜉蒼まで密告してくれ。報奨金は弾んでやる」
その言葉にチガヤは硬貨を持っていた手をさっと引く。
「おい! 言うなよ!」
「黎裔の秩序を守るのが俺の務めだからな」
挑発的に笑った那由他は「じゃあな」とその場を後にした。今晩にでも家中を調べてやろうと、今日の予定を変更した。背中からは店主に詰め寄られているチガヤの弁明が聞こえて来ていた。