191話 瑞祥
一年の計は、春にあり。
積もる気配も見せなかった雪がその夜に限っては世界を覆いつくした。震えながら雨戸を開けたヒデは一面の銀世界に白い息を吐いた。
骨折してからというもの、任務にも出られず、運動もほとんどが禁じられ、手持ち無沙汰だった。日々深まる寒さに、もうすぐ年が明けるのだろうと年始に向けてこつこつと宿の掃除をしていた。今日は最後に残していた居間でも片付けようかと思っていると、ケイからの無線が聞こえてきた。それは今日が大晦日だという内容だった。
「やっぱり今年も急なんですね」
着替えたヒデは玄関でスニーカーを履きながら、そう振り返った。行先は言わずともアレンはわかっていた。
「午前中に教えてくれるだけまだマシですよ。日も暮れようか、というときに連絡が入った年もありました」
そう笑うアレンに、ヒデは大慌てで年越しの準備をしたであろう既死軍の面々を想像して苦笑する。ケイが多忙であることは全員が承知しているが、それでも恨み言の一つは出たに違いない。
「今年はヒデくんのおかげで計画的に掃除ができていたので助かりました。あとで私も顔を出しますね」
「待ってます。それじゃ、行ってきます」
笑顔で挨拶をしたヒデはケイの宿へと向かう。
ヒデが堅洲村で年を越すのはこれで三回目になる。だが、この一年は今までにないほど大きな変化がいくつもあった。道中、ヒデの頭にはチャコとシドの顔が浮かんでいた。
夏にチャコを、数週間前にはシドを失った。既死軍に来てすぐ、リヤが亡くなったことは当然覚えていた。しかし、それでもたった数日を過ごしただけのリヤの死とは違う。衝突しながらも、数えきれないほどの任務を共に遂行した二人だ。未だに実感が湧かなかった。二人の姿が見えないのは任務に行っているからではないかと思えてしまう。こうして実感のないまま、時間だけが過ぎていくのかもしれないとヒデは足を止めた。
きっと、自分の番が来ても同じなのだろう。
何かが欠けているように感じながらも、同じ日を繰り返す。そして徐々に薄れていく記憶と共にいつしか本当に消えてしまう。
庭に着くと、既に数人が毎年恒例行事である餅つきの準備をしていた。隅の方には誰が作ったのか、雪だるまがその様子を見守っている。自分の背丈ほどもある雪だるまをよく作ったものだと眺めていると、キョウが自慢げにやってきた。
「僕が作ったんだよ」
真っ白な息を吐きながらにこにこと笑っているキョウは手にしていた枝を雪だるまに刺し、そこに手袋をつけてやる。これでやっと完成らしい。キョウは雪だるまの炭でできた満足そうな表情を見上げる。
「キョウより大きいのに、よく作れたね」
「雪玉を作ったのは僕なんだけど、頭を載せたのは、えっと」
「俺だよ。ヨミがやった」
少し離れてキョウの後ろを歩いてきたヨミが言葉を続けた。キョウの顔がぱっと明るくなる。くりくりとした大きな目が嬉しそうに輝いている。しかし、ヒデはヨミが自分のことを名前で呼ぶなど、ルキでもあるまいしと不思議そうな視線を向ける。そんなヒデの視線を感じながらも、ヨミは気付かないふりをしてキョウを見ていた。
「そうそう! ヨミさんがやってくれたんだよ」
「無線が入る前から作っててな。俺たちの宿の近くに置いてたのをわざわざ持って来たんだ」
「こんなに大きいの、初めて見ました」
「持って来てよかったですね。ヨミさん」
「そうだな」
再び得意気な表情を作ったキョウは「もう一つ作ります!」とヨミに視線を移した。ヨミはしゃがんで背の低いキョウに目の高さを合わせ、庭の入り口のほうを指差す。
「わかった。それならあっちにほら、ジライ、髪が長いやついるだろ。ジライたちに手伝ってもらえ」
大きくうなずいたキョウは雪に足を取られながらもジライたちの方に走っていった。その背中を立ち上がったヨミは無言で見ている。
ジライ、レンジ、ジュダイはよくいっしょにいる、仲のいい三人だ。話しながら笑っている輪にキョウが加わった。すぐにキョウの言う通りに手伝ってやるジュダイと、その近くで雪玉を丸めて投げ合い始めたジライとレンジにヨミは頼む人材を間違えたかと呆れていた。
「キョウとしばらく会ってなかったんですけど、元気そうで何よりです」
「あれだけ楽しそうにしてるなら、そうだな、元気だな」
ヒデはヨミの話し方に違和感を覚えた。自分をわざわざ名前で呼んだことや、初対面でもないジライの容姿を説明したこと、自分に言い聞かせるような納得の言葉。
共に任務へ行ったとき、キョウはどことなく不安定だった。普段は喜怒哀楽の「喜」しか見せないようなキョウが、何の前触れもなく怒りだしたり、かと思うと突然哀しんだりしていた。最近任務で会わないのも、その不安定さが理由なのだろうかとヒデは勝手に想像してみる。だが、ヨミに聞いてもはぐらかされるだけなのだろうと口をつぐんだ。
キョウと最後に任務へ行ったのは蜉蒼たちが暮らす貧民街「黎裔」だ。今年の初めのことで、あの時はチャコもシドもいたんだなと、またその顔が脳裏に浮かんできた。
ヒデとヨミがそれぞれ無言のままキョウたちを眺めていると、センがセイロを持って現れた。見るからに熱そうな湯気を立たせているもち米をイチが慣れた手つきで臼に入れる。
キョウの興味はすぐそちらに移ったようで、それなりに大きくなっていた雪玉を放り出し、イチたちの方へと走っていった。残されたジュダイは作りかけの雪だるまをどうしたものかと、困ったようにジライとレンジを振り返った。
今年もこうして年が暮れていく。
ヒデの耳にふと、去年のチャコとの会話が蘇った。「来年も平和だといいね」という楽観的な自分の言葉に「平和は無理やろな」とチャコは笑いながら即答した。
今の既死軍はロイヤル・カーテスと手を組み、一年以内に蜉蒼を殲滅することを目標としている。来年はどんな年になるだろうかと、楽観的にも悲観的にもなれない未来を想像してみた。
翌日、新年を迎えた。たったそれだけのことで世界が輝きに満ちているように思えた。雨戸を開けたヒデは寒さに息を白く吐きながら、空を見上げる。
アレンは隣に立ち、「今年は晴れましたね」と同じく青空に目を細める。去年の元日は珍しく大雨だった。それは穢れを流す雨だったのか、悲しみを表す雨だったのか、受け取り方は人それぞれだ。
「やっぱり、お正月は晴れるのがいいですよね」
「私もそう思います。何事も明るいのが一番です」
優しく微笑んだアレンも相変わらずで、隣にいるだけで空気が澄み渡っているような気さえする。こうして共に新年を迎えられたことがヒデにとっては何よりも嬉しかった。
「そろそろお雑煮でも食べましょうか。今年は白味噌にしてみました」
「いろんな種類があるんですね」
「以前ケイくんが教えてくれたんですが、お雑煮は地図が作れるぐらいはっきりと地域性が出るそうですよ」
一体いつそんな会話をしたのかと、内容よりもそちらの方が気になって、居間に向かいながらヒデは思わず頬を緩める。ヒデがケイと話すことと言えば、任務に関する話題だ。しかし、宿家親同士であれば話題は幅広いらしい。ケイに教えてもらったらしい正月の蘊蓄を聞きながらヒデは朝食の準備を手伝った。
それから数時間後、正午より少し前。堅洲村のはずれにある会議場には徐々に人が集まりだしていた。畳敷きのだだっ広い部屋はルキとミヤを除く既死軍の全員が集まっていた。宿家親はこの日にしか着ない紋付き袴姿で、普段の様子とは見違えるようだ。去年は慌ただしく現れ、足早に去っていったケイも今だけはきちんとした身なりで、数人の宿家親と談笑している。
骨折でしばらく任務から離れていたヒデも久しぶりに制服に袖を通した。もうすぐヤヨイから復帰の許可が出るはずだ。何より嬉しいのは任務に出られることよりも、ヤヨイの診察を受けなくて済むことだった。
三度目にして既に見慣れた光景は、正面の文机に置かれた古いラジオだ。国歌が繰り返し流れ続けている。ケイが宿家親たちから離れると、周囲は察したように座り始める。初めて参加したときは最後尾だったヒデも、今は隣にセンとアヤナが加わっている。今年もまた誰か迎え入れられるのだろうかと、まだ見ぬ誘の人生を想う。
全員が座ったところで、ケイが立ち上がって全員に向き直り、再び正座して座った。
「頭主さまに代わり、わたくしケイがご挨拶致します。第肆拾陸期庚寅之年となりました。宿家親の皆様、誘の皆様、本年もどうぞよろしくお願い致します」
ケイの動作に合わせ、全員が床に手をつき深々と頭を下げる。毎年変わらない定型文の挨拶だが、既死軍が一堂に会して聞くことに意味があるように思えた。
言葉が終わると同時に、ラジオは国歌を歌うのをやめ、正午を告げる時報が鳴らした。皇からの新年の挨拶を代読する元帥の声が聞こえ始める。
畳に額がつくほど頭を下げたままでその言葉を聞く。この挨拶も毎年変化のない、どこか馴染みがあるものだった。やはり変わらないということは人間にとって安心感があるのだろう。
十分ほどすると元帥の声は終わり、顔を上げると再び国歌が流れ始めた。次にヤンが立ち上がり、正面に座る。
「誘を代表致しましてわたくしヤンが宿家親の皆様へ、新春を寿ぎ謹んでご祝詞を申し上げます。本年も相変わりませずご厚誼を賜りますよう、 お願い申し上げます」
予定調和のように一同頭を下げる。去年から誘の代表挨拶はヤンに代わった。ヤンはシドが再びすることを望んでいたが、ついぞ叶わぬ夢となってしまった。わずかに表情を曇らせるヤンだったが、誰もその顔は見られなかった。
これで新年の集まりは終わりだ。顔を上げると、空気が弛緩するのを感じた。
それぞれがそれぞれの想いを胸に、新しい一年が幕を開けた。