190話 沖天
澱みも、上澄みも。
昼前の堅洲村にはいつもの空気が流れている。射撃場では誰かが汗を流し、畑では誰かが手入れをし、宿では誰かが昼食を作っている。
ケイはパソコンに向かい、新しい任務の報告書を書いていた。
今までミヤがしていた頭主への報告業務はルキが引き継ぐことになった。しかし、自由に堅洲村と陸軍本部、頭主の私邸に出入りできていたミヤと、ルキが軍人に扮して陸軍本部へ行くのは難易度が全く違った。ルキは二十四時間年中無休を謳っている探偵事務所を無人にしておくわけにもいかず、毎度イチに代わりの留守番を任せる。そうすると、イチが堅洲村にいない間、ケイは情報統括官の仕事を一人でこなさなければならない。堅洲村とルキの事務所はあまり遠くないとはいえ、これが続くのかと思うとケイは眩暈がした。
ミヤがいなくなってからものの数日でその役割の重要性を突きつけられた。だが、嘆いても最早どうにもならない。自分がふさぎ込んでいたのでは周囲に不要な心配をさせてしまうと、ケイは努めていつも通りにふるまっていた。
無心でキーボードを叩いていると、どこかから着信音がした。携帯電話は潜入捜査のときなどにしか使わない上に、定期的に番号も変わる。そんなごく限られた場面でしか使わない電話が鳴るなど、一体何事だと音を頼りに行方を捜す。引き出しを開けると、くぐもっていた着信音が明瞭に聞こえた。
画面に表示されている相手の番号は非通知だ。不審に思っていると着信が留守番電話の録音機能に切り替わる。スピーカーにしてみると、電話の主はミヤだった。慌てて通話ボタンを押す。
「み、樹弥くん! 今、どこ、何してるの」
矢継ぎ早に質問を投げかけるも、至って冷静に、しかしどこか嘲笑したようにミヤは答える。
「それよりもこの番号覚えてた俺を褒めろ」
「それもそうだけど」
「鵟ヶ原だ」
どこか軽い口調に元気そうだと安堵したのも束の間、ケイは全身から血の気が引いていくのを感じた。ミヤが口にした鵟ヶ原は広大な飛行場のある基地だ。このご時世に軍人が飛行機で向かう場所など、一か所しかない。
「どこ、行くの」
「わざわざ聞かなくてもわかってるんだろ」
ミヤの言う通り、ケイには目的地などわかりきっていた。帝国軍が同盟国であるシャルハラードへの派兵を決めたことは一般人でも知っている。日に日に悪化する戦況に、出発が数日早まったことも帝国の強さを示すものとして大々的に報道されているぐらいだ。
「何で、そんなの、樹弥くんなら断れるんじゃないの」
「俺が望んだことだ」
「死にに行くつもりか」
「さあ、どうだろうな」
ケイが思わずこぼした言葉への返答は、相変わらずどこか軽いものだった。ケイにはそれが諦めているように聞こえた。
話しながら、素早く基地の監視カメラを順番に映していく。出発直前のようで、バタバタと忙しそうに大勢の軍人たちが行き交っている。ずらりと並べられた荷物は、それが人道支援だけではなく戦いの最前線にも向かうことを示している。
誰もいない空き地で一人ミヤが立っていた。小さく映っているその姿はカメラに意図的に背中を向けているようで、表情は見えなかった。
「もう少しで出発だ。どうせここの様子もカメラで見てるんだろ。けど、さすがに戦地まではお前の目も届かないだろうな。それなら、ここでお別れだ、禊」
「そんな言葉、聞きたくない。俺は樹弥くんと地獄まで一緒に行くって決めたんだ」
「だから勝手に逝くなって言いたいのか? まるで俺が向こうで死ぬみたいな言い方だな」
「違う。樹弥くんはまだ死なない。樹弥くんには、いいや、ミヤには既死軍でやらなきゃいけないことがまだ残ってる」
振り向いたミヤとカメラ越しに目が合った。この姿が本当に最後になるかもしれない。
戦場は当人の意志など関係なく、無慈悲にすべてを砕いていく。そのあとに残るのは、何物でもない、どこまでも続く空虚だ。
ケイも子供のころに戦争を経験した。しかし、それはどこか遠くの大人がしていることで、日々報じられる帝国軍の快進撃に、まるで映画でも見ているかのように心躍らせるだけだった。父親が軍人だったこともあり、心のどこかでは誇らしくもあった。
その状況が一変したのが父の戦死だった。世界最強を誇る帝国軍はどこか神話めいていて、死人が出ていることなど、子供のケイには少しも信じられないことだった。それが、急に父の死という現実をもって知ることとなった。半狂乱になった母親と、その狂気に沈んだ幼かった妹弟、血の海と深い刺し傷。それがケイにとっての戦争の思い出だった。
今、自分がこうして既死軍にいるのは、その後、頭主やミヤに出会ったからだ。壊れそうになっていた自分を受け入れ、居場所を与えてくれたミヤを失うなど、考えたくもなかった。いや、考えてはいけないことだと思った。
「もっと、禊は俺に言いたいことがあったんじゃないのか」
すべてを見透かしたようなミヤの言葉に、心が揺らぐ。死なないでほしい、行かないでほしい、帰って来てほしい。そんな陳腐な言葉たちが脳内を隙間なく埋め尽くしていく。ミヤは何も惜別の言葉が欲しくてそう言ったわけではないことぐらい、よくわかっていた。今、この瞬間だけではなく、今まで飲み込んできたすべての言葉を曝け出せとでも言いたげなミヤに、ケイは再び一瞬口をつぐんだ。
感情など見せるべきではない。刎頸の友であるミヤにはまだ伝えなくていい。今は、それよりも継承しなければならない遺志がある。
「これは既死軍の情報統括官としての命令だ、ミヤ。まだ、終わらせない」
「ケイがそう言うなら、善処しよう」
ふいと視線をカメラから外したミヤは電話を切り、そのまま立ち去った。去り際のその表情は、少し笑っているように見えた。
ケイは通話が終わったと言うのに、耳に電話を当てたまま動けなかった。カメラを切り替えてその姿を追う気にもならない。
大佐という地位にあるミヤは普通に考えれば後方で指揮をする立場で、銃弾が飛び交うようなところへは行かないはずだ。しかし、戦況によってはそうも言っていられなくなる。こればかりは神に祈るしかない。
固く目を閉じたケイは拳を握った。
「長く愛用しているものは、どんなに大切に扱おうとも、必ず傷がつく」
そうつぶやいたミヤは携帯電話をポケットに入れ、持ち場へと引き換えしていた。あと三十分もすれば、この地を離れて異国へと飛び立つ。死ぬつもりはないが、未来など誰にも予想できない。
ミヤは歩きながらケイの顔を思い浮かべていた。見慣れている顔と言えば、気絶したように寝ているか、悩んでいるかのどちらかだ。笑っているところなど、いつ見たのか思い出せないほど記憶の遥か彼方だ。どうせ今も苦悶したような表情をしていたのだろう。
ケイのことは傷つけてばかりだった。始まりは家族の崩壊だった。ケイが天涯孤独になったのは、直接的ではないにしろ、帝国軍のせいだ。当時既に軍人だった自分には他人の人生を壊したという初めての記憶で、それが未だに心に棘として刺さっている。その罪の意識があるからか、ケイを手元に置いてやろうと既死軍に引き入れた。しかし、それすらも今となってはケイを傷つける要因なのではないかと思えてならない。
「お前がいくら傷つこうとも、最後まで使ってやる」
言葉にすることなく、ミヤは前を向いた。だんだんと人が増え、喧騒で取り囲まれる。
戦地へ行くのは、ケイに言った通り、自ら望んだことだった。
軍事監獄に入れられたミヤは、尋問があるわけでもなく、かといって自由が与えられるわけでもなく、ただ無意味な時間が過ぎるのを待つだけだった。罪人しか入らない監獄は居心地の良さなど無縁の場所で、さすがのミヤもしばらくすると自分の精神状態が正常なのか疑い始めたほどだった。
開放されてすぐ、迎えに来た橘が連れて行ったのは元帥の執務室だった。再び対面するとは思っていなかったが、そこで言葉少なにシャルハラード行きを告げられた。当然断ることもできたのだろうが、ミヤは快諾した。それは頭主に対する罪滅ぼしではなく、ただ、自分は軍人であるという意識だけで返事をした。断る理由などどこにもなかった。
頭主、もとい元帥が用意していたのは、作戦の指揮や命令など大佐にふさわしい任務だった。当然、戦死するリスクは前線といえども低い。だが、ミヤはそれを断り、最前線に立つことを望んだ。橘は卒倒せんばかりに驚き、その様子にミヤが思わず目を向けたほどだった。
元帥もその申し出には悩んだようだったが、兵士の士気を高めるためという理由で最終的には承諾した。
橘はというと、監獄送りからの最前線では妙な噂が立つと、噂の根絶に奔走することになった。尾鰭のついた噂ほど厄介なものはない。
基地は戦地に向けられた熱気でいつもよりにぎやかだ。報道用の出陣式も大々的に執り行われていたようで、それも一因となっているのだろう。誰も彼も悲観的には見えず、帝国軍が手を貸すことで世界に明るい未来をもたらすとさえ言いたげな表情をしている。
ミヤは何人かに声をかけられ、指示を出したり、雑談をしたりしていた。面倒だと思いつつも、そうして最後の時間を過ごしていると、空気が一変した。出陣式に出席するため基地まで来ていた元帥が、激励という名目で飛行場に現れた。
簡易的な演説台へ向かう元帥はミヤの横を通り過ぎながら「天命に任せる」とつぶやいた。それが何を意味するのかはミヤにはすぐに理解できた。元帥の歩みは止まらない。ミヤは振り返り、その背中に「わかりました」と小さく返した。