189話 自戒
止まるな、歩き続けろ。
ケイは寒々しい風が窓を揺らす音で目を覚ました。また布団にも行かずにパソコンの前で寝ていたらしい。何度か瞬きを繰り返し、伸びをする。どのくらい寝ていたのか、さっきまでは明るかったはずなのに、もう日が暮れ始めている。しかし、これがケイのいつもの、何度も繰り返してきた日常だ。
机の引き出しを開け、中をじっと見つめる。そこにはシドの遺書と拳銃、そしてミヤのピアスが入っていた。それらは形見のつもりで置いて行ったのか、さも「お前が管理しておけ」と言わんばかりにミヤの文机にきれいに並べられていた。自分が最初にミヤとシドの宿を訪れるのを知っていたかのようだった。
既死軍の人間は全員ピアス状の無線をつけている。小さなものだが、情報統括官であるケイには必要不可欠な物で、位置情報も会話もすべて把握することができる。当然ミヤも例外ではなかったが、それが今手元にあるということは、居場所も、生死すら不明ということだ。
頭主の私邸をあとにしたミヤが陸軍本部に顔を出したことは監視カメラの追跡からわかったが、その後、橘と連れ立ってどこへ行ってしまったのかはわからなかった。帝国全土にある監視カメラから位置情報もなしに行先を特定するのは至難の業で、人工知能を総動員してみても、まだ精度の高くない技術では追いきれなかった。
頭主にすぐ手を下されなかったことを考えると、一時的な拘束場所として更生施設か軍事監獄が有力にも思えたが、不思議なことにどこにも現れなかった。もしかしなくても監視カメラのない隠された通路があるのだろう。しかし、こんな私情にも似た感情でルキや他の誘を使って探させるわけにもいかず、堅洲村から出られない己の限界を感じた。
ケイは静かに引き出しを閉じ、当てもなく監視カメラの映像を切り替えていく。
待っているのは辛かった。いっそ二度と会えないということがはっきりわかっているほうが楽なようにも思えた。しかし、ミヤを黙って見送ったからにはそんな未練がましい感情も捨てるべきだ。
ケイは立ち上がり、うずたかく積まれた本や書類で押しつぶされそうな窓から空を眺める。
イチはあれから何も変わらない。ミヤとシドが選んだ結末はイチにどう映ったのだろうか。自分ほど二人との関係が深くなかったイチにしてみれば、理解しがたい選択だったのかもしれない。肯定も否定もせずただ事実を受け入れたイチの瞳は、情報統括官に感情など必要ないとでも言いたげで、それが今のケイには羨ましかった。
更に夜が更けたころ、無線から聞こえた物音にケイは腰を上げる。ミヤもシドも失ってしまったが、そこで何かが終わるわけではない。自分たちはまだ、信じるもののために戦い続けなければならない。
ケイはイチに代わりを任せ、ランプを手に外へ出た。日に日に寒さは深まり、もう少しで雪でも降りそうなほど冷え込んでいる。
くたびれた薄着と草履で目指すのはただ一か所だった。夏は涼しげなのに、今は寒々しく響くだけの水音が徐々に大きくなる。
ぼんやりとランプと月明かりに照らされているのは、滝壺に足を投げ出して座っているヤンだった。人影に気付いたヤンはぱっと顔を明るくしたが、それがケイだとわかると怪訝そうに表情を曇らせた。こんな時間にケイが来るなど、有り得ないとは言いきれないが、おかしいとでも言いたげだ。既死軍の面々はいやに察しがいい。
ヤンは出迎えるつもりか、追い払うつもりか、立ち上がった。ケイは少し距離のある場所で立ち止まり、単刀直入に切り出す。
「シドは来ない」
わずかに唇を噛んだように見えた。ケイの言葉が何を意味するのか、ヤンはすぐにわかったようだった。しかし、認めたくないという葛藤も透けて見えた。
「来ないって、何だよ」
「もうここにはいない」
「どういう意味だ」
ヤンは答えを待たず、つぶやくように言葉をこぼした。聞くまでもないことは本人がよくわかっていた。
「死んだのか」
認めたくないという気持ちはケイも同じだった。ヤンの問いに答えてしまうと、自分で自分に刃を突き立てるようで、言わなければならないとは理解しつつも、身体がそれを拒んでいた。
「はっきり言えよ! いつも聞きたくないことは勝手に教えるくせに、聞きたいことは、何で、どうして」
ヤンの瞳が揺れる。
「俺が悪いのか。俺があのとき、守れなかったから」
自責するのも無理はない。ヤンがシドのために生きているのは知っていた。既死軍へ来るまでの経緯を思えば、そうなるのも当然だと納得していた。しかし、今夏、チャコはシドを守って死ねたのに、ヤンは目の前でシドの取り返しのつかない負傷を許してしまった。一度は立ち直ろうとしたようには見えたが、それはただの脆い張りぼての姿にすぎなかった。ガラガラと音を立ててヤンの何かが崩れ落ちていくように思えた。この傷はもう癒してやれない。
「ヤンは関係ない」
「じゃあ、何で。何で死んだんだよ。答えろよ、ケイ」
「知らないほうがいいこともある」
「そんなんで納得できるかよ!」
感情を何とか抑えようとしていたヤンは遂にケイの胸倉をつかんだ。もともとよれているシャツに更にしわが寄る。だがケイは動じず、淡々と答える。ここで動揺してしまってはヤンにも、何よりもシドとミヤ、そして自分に示しがつかない。わざと冷たく突き放すしか、今、ヤンを守ってやる方法はない。
「今までこの言葉で思考を止めてきたくせにか? お前こそ、虫が良すぎるんじゃないか」
自分より背の低いヤンなど、ケイにしてみればいくらでもその手を振り払える。しかし、ケイは何もしなかった。ただヤンの感情をぶつけられることに納得しているようにさえ見えた。
「でも、きっかけはあの時の」
「既死軍での出来事は、全て俺の責任だ。ヤンの」
「何だよ責任って! そんなの、言葉だけなら誰にでも言えるんだよ! ケイ、お前、情報統括官のくせに、何で」
「俺が」
そこでケイは初めてヤンの手を振りほどいた。その眼光は鋭く、ケイのこんな目を見たのは初めてだった。
「俺がシドのために何もしなかったと思うのか」
喉まで出かけた言葉をヤンは飲み込む。
シドが負傷してから、ケイがどう過ごしてきたのかヤンは知らなかった。ミヤやヤヨイがシドのために尽力したのは当然だろう。それは考えるまでもない。しかし、ケイがどんな気持ちでその様子を見ていたのかまでは想像が至らなかった。
情報統括官の言動すべては既死軍を存続させるため、頭主の理想を追求するためにあり、人の心などとうに失っていると思っていた。任務で誰が負傷しようが、死亡しようが、それは既死軍にとっての損失であって、ケイ自身が心を痛めているようには見られなかった。実際、チャコのときも、それより以前も、ヤンにはケイがそう見えていた。既死軍は前に進まなければならない。そのためなら犠牲は厭わないし、当然のことだ。それが情報統括官の信念だとさえ思っていた。
「ヤン、俺が直々に来たのは、お前のためだ。お前にだけは、直接伝えたかった」
ケイの真意はわからない。しかし、目の前の男が何の考えもなく行動するとも思えない。ヤンは黙って拳を握った。
「来ない人間を待つのは辞めろ。俺からはそれだけだ」
そう言い残すと、ケイは踵を返した。
聞きたいことは色々あった。このままケイを帰してしまったら、二度とこの話題には触れられない。しかし、身体が動かなかった。引き留めるのを躊躇したまま、ケイの背中を見送る。
一陣の風が吹く。全身を刺すような冷たさが思い出を蘇らせる。シドの風になびく長い黒髪が、その背中が、風に連れ去られてしまったように思えた。
数日後、澄み渡った空の下、ヒデは久しぶりに墓地へと来ていた。一番新しい場所で黙祷を捧げる。
シドの死亡はアレンから伝えられた。理由も、いつ亡くなったかも知らされなかったが、ヒデには何となく、きっかけの察しはついていた。だが、真偽不明である以上、詮索する気にはならなかった。それに、知ろうとしたところで、「知らないほうがいいこともある」という魔法の言葉が登場するだけだ。
最近は任務を終えるたびに心に澱が溜まっていく感覚がする。立て続けにシドとレナが負傷する場面を目の当たりにしてしまった。何もできなかった無力な自分はこのまま無力であり続けるのだろうか。
既死軍も、ロイヤル・カーテスも、蜉蒼も、信じるものがあり、そのために戦っている。そしてその信じるものは完全には一致せず、分かり合えることなど一生ない。
だが、強くなろうと決めた心に迷いはない。
ヒデは墓地を後にし、滝壺へと向かった。シドと初めて会った場所だ。初対面であるにもかかわらず、顔を見るなり嫌いだと言われた記憶が蘇る。あの時はリヤも一緒だった。今はもう、彼もいない。
ヒデは滝壺に座り、足を投げ出す。冷たい風がふわりと上昇する。
初めての任務にはシドとヤンがいた。その強さに圧倒されると同時に、容赦のなさに恐怖も感じた。それまで生きてきた世界と全く違うのだと思い知らされた。人生観や死生観、いろいろな価値観があっという間に塗り替えられた。
しかし、初めてシドと二人きりで任務に出た時、シドがただ指令に忠実なだけの冷徹な人間ではないことを知った。自分が強くなろうと思えたのはシドがいたからだった。
ヒデは青空を見上げる。シドはもうこの世にはいない。それでも、確かにこの堅洲村で、既死軍で、シドは生きていた。そして、その意思は間違いなく受け継がれていく。
真っ白な制服と対照的な真っ黒で長い髪が美しかった。落ち着いた声も、鋭い瞳も、すべての記憶はもう更新されることはない。
「シド」
久しぶりに名前を口にすると、堰き止められていた思い出がとめどなく溢れてきた。
「ありがとう」
戦い続けることが人生だったかのように、ヒデの頭に浮かぶシドは既死軍の真っ白な制服を着ていた。