186話 瞻仰(せんぎょう)
嘘偽りのない、愛。
真っ暗闇の中、ケイは一人玄関で正座をしていた。その視線は膝に置いた握りこぶし一点に注がれている。
既死軍の全決定権を持つ情報統括官のケイは、全員が肌身離さずつけている無線を介し、いつでも自由に居場所を把握し、会話を聞くことができる。だが、今この瞬間行われているかもしれないミヤとシドの会話を聞く気にはなれなかった。ミヤが堅洲村に帰ってきたときから、ただこうして必ず訪れる「その時」をじっと待っていた。今の自分にできることはこれしかない。
自分が既死軍へ来てからの思い出がまるで走馬灯のように流れ始める。死ぬのは自分じゃないのになと思いつつも、その色とりどりの映像に思いを馳せてみる。
シドと出会ったのは、自分がまだ小学校を卒業したばかりのころだった。軍人になりたいと懇願する自分を「子供は学校へ行け」と鼻で笑って突き放したミヤと数年ぶりに再会したときだ。
見ず知らずの人間に半ば無理矢理堅洲村へ連れて来られ、初めは訳がわからず怯えていた。そんなときに懐かしい顔に会えた安堵感は忘れられない。しかし、再会を喜ぶ間もなく、すぐに感情は驚きへと変わった。見慣れない着物姿のミヤの腕で眠っているのは生まれてから数か月も経っていないシドだった。
ミヤとの思い出といえば、ただ殴られ、蹴られ、散々な目に遭わされたことばかりだった。そんな横暴な人間と無垢な赤子の組み合わせは不釣り合いで、シドを預かるに至った経緯を聞いてもただ頭に疑問符が浮かぶだけだった。
それから二十年経った。思い返せばあっという間で、親子でも兄弟でもない不思議な関係だった。
空が白み、朝日が昇り始めたらしい。いつも通りの、何の変哲もない静かな朝だ。閉め切られた玄関の擦りガラス越しにもその静けさが伝わって来る。
ミヤは必ず、真っ先に自分のところへやって来る。だからこそ、シドも自分に最期の想いを託したのだろう。ケイは視線を落としたまま、傍らに置いたシドの覚悟にそっと触れてみる。
それはミヤが頭主の私邸へ着くより少し前のことだった。蜉蒼に関する任務の報告と同盟国への派兵について話すと聞いていた。幸か不幸か、シドの負傷にはまだ気づかれていない。ミヤが望むなら、頭主であっても完璧に欺いて見せるつもりだった。
もうそろそろ着くころかと思っていた時、誰かが訪ねて来たようで、ケイは足音に耳を澄ませてみる。慣れてしまえば歩き方の雰囲気だけで言い当てることができる。この足音はいやに不自然だ。
ケイは立ち上がり、襖を開けてやった。そこにはちょうど同じく襖を開けようとしていたシドが立っていた。
イチは出かけていて情報統括官の代わりはいない。しかし、シドが不自由な体を引きずってでも来たからには、今、話さなければならないことなのだと理解した。このままミヤと頭主の間に何も起こらないことを願いつつ、自室を無人にして居間へ向かう。後ろをついて来る義足と松葉杖のシドはかつての姿からは想像もできないほど歩みが遅い。
机を挟み正面に座ると、シドはすぐさま着物の懐から紙束を取り出した。机に置き、すっとケイのほうに差し出す。それは真っ白な蛇腹に折られた便箋のようで、宛名も書かれていないが、何を意味するのかはすぐにわかった。
ミヤ宛ての遺書だ。
その高潔な白さに目が釘付けになったケイは、しばらく顔を上げることも口を開くこともできなかった。久しぶりに会ったというのに、回復を喜ぶことさえ許されなかった。
だが、こんな時が訪れる予感はあった。任務に出られるようになるよりも先に、頭主からシドの返還命令が下るのは目に見えている。そのとき、シドが選ぶ道はただ一つだけだ。漠然とした不安が今、確信に変わった。
「俺のほうが先にメグルたちに会えそうだな」
久しぶりに聞く懐かしい名前に心臓が跳ね上がった。
メグルは先代の情報統括官で、ケイの宿家親だった。十年以上前に他界しているが、シドにとってはミヤやケイと同じく、生まれた時からそばにいた人物でもある。
急に死が形をもって隣に座り込んだように思えた。心臓の鼓動が直接声を震わせている感覚に陥る。
「会えないよ。冥土なんてない。死んだら終わりだ。そんなの、少しも信じてないくせに」
「そうだな」
落ち着いているのはいつものことだが、それでもどこか他人事のようで、まるで生きることには既に執着していないかのようだった。
「ミヤにも、死んだらもう二度と、ミヤにも会えないんだぞ」
ケイは言葉を詰まらせる。正座をした膝の上で握った拳がわずかに震え、手のひらに爪が食い込む。いつもの癖だ。
「生きててほしいに、決まってるだろ。既死軍としては生きていけなくても、シドには別の道がある。頭主さまの言うとおりにすれば」
「それは、俺にとっては死んでいるのと同じだ」
言葉を遮られ、ケイははっと顔を上げた。
「俺はずっと既死軍の誘でいたい。ミヤたちが作ってくれたこの世界しか要らない。だから、俺はミヤに全てを、委ねる」
二人の結末は、シドが堅洲村で生まれた時から決まっていたのかもしれない。シドが覚悟をもって臨んでいるならば、自分が取る行動は一つだけだ。
ケイはぽつりと「一年前」とこぼした。
「シドが頭主さまのもとへ行ったとき、俺は任務に必要だから帰してほしいと頼んだ。ミヤには『頭主さまの決定に逆らうな』って軍靴で蹴られたよ。けど、ちゃんと連れてってくれた。文句を言いながらも連れてってくれたのは、自分のしていることを俺に止めてほしかったからなんだろうな。ミヤはああ見えても不器用だから」
その不器用さはシド自身も昔から感じていた。そして、それを引き継いだかのように、自分も同じく不器用であることも自覚している。そんな二人の背中を、ケイはいつも心地いい強さで押してくれていたように思う。
シドはこのとき、自分はケイにも敬愛の念を抱いていたのだとはっきりと感じた。だから迷うことなく遺書を託す相手にケイを選んでいた。
ケイは当時を思い出すように笑顔を滲ませる。
「けど、任務に必要だからというのは建前で、本当はミヤもシドも納得しているようには見えなかったんだ。いつか離れ離れになるとしても、納得できるまで二人は一緒にいるべきだ。絶対に今じゃない。そう考えたら、いても立ってもいられなくなってな」
そこまで言うと、ケイの柔らかかった表情が変わった。何かを決断した時の、見慣れた顔だ。
ケイにも、もう迷いはない。
「俺はその時、決めたんだ。二人が決めたことなら、たとえどんな結末でも受け入れるって。そこに至るまでの道のりはミヤとシドにしかわからないことだから、それを否定するなんて俺にはできない」
泣き出したい気持ちも、今すぐ抱き締めてやりたい気持ちも、生きろと言いたい気持ちも、堰を切ったように溢れて来る。だが、自分の覚悟を自分で裏切るわけにはいかない。全てを誰にも見えない心の奥底に封印する。
ケイは机に置かれたままになっていた遺書に初めて手を伸ばした。
「今が、その時なんだな」
しっかりと掴み、シドをまっすぐ見る。
「ケイ」
そう自分の名前を呼ぶシドの目は鋭くありながらも、その中に優しさを宿していた。この瞳はどことなくミヤに似ている。ああ、シドは間違いなくミヤに育てられた子なんだなと、当然のことが、ふと愛おしく感じられた。
「ここまで俺を世話してくれたこと、そして、既死軍に連れ戻してくれたこと、心の底から感謝する。言葉には尽くせないほど、感謝している」
「シドの気持ちは十分伝わってるよ。任務でも、それ以外でも、たくさん助けてもらった。シドがいたから今の既死軍がある。俺のほうこそ、ありがとう」
シドは何も言い返さず、静かに息をついた。この時間も終わりが近づいている。ケイが最後にできるのは、シドを潔く送り出し、二人の選んだ結末を祝福してやることだけだ。
「それで、ミヤにも、もう感謝は伝えたのか」
シドは短く「まだ」と小さく首を振った。ケイは「そうか」と小さく笑う。
「前にも言ったはずだ。言わなくても伝わるなんてありえない。伝えろ。ぶつけろ。それが嘘偽りのない愛だから」
聞き覚えのある言葉に、ケイがいつも通り背中を押してくれたのだとシドはうなずいて返した。
「そうだな。本当に、ケイにはたくさんのことを教えてもらった」
「いいや、ミヤには敵わないよ」
シドは再び首を横に振った。
「比べられるものではない」
「泣いちゃうだろ」
思わず顔をゆがませたケイに少し呆れたような笑顔を見せたシドは立ち上がった。凛とした佇まいは、いつもと変わらない。
これが、今際の際だ。
「ケイ。ミヤのこと、よろしく頼んだ」
ケイはあふれそうになる涙を必死にこらえる。決別の時を、最後の姿を、涙で滲ませるわけにはいかない。悲しんではいけない。
これはシドが選んだ、正しい道だ。
「シド」
ケイは受け取った遺書を胸にまっすぐシドを見つめ、口を開いた。
その別れの言葉は、元を辿れば「左様ならば」だ。左様ならば、そういうことであるのならば、二人が決めたことであるのならば。
これで別れよう。
「さようなら」
ケイは閉じていた目を開け、顔を上げた。太陽はもう高く昇っている。
玄関の引き戸がカラカラと音を立て、開かれた。