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Blackish Dance  作者: ジュンち
185/208

185話 此土(シド)

未来の話を、しよう。

 頭主(トウシュ)の私邸を後にしたミヤが堅洲村(カタスムラ)に着いたのは、夜の只中だった。どこまでも続く夜空には星々を霞めてしまうほど満月が輝いている。堅洲村(カタスムラ)には夜がよく似合う。

 首元のネクタイを緩めながら刺すように冷たい静謐な空気を吸い込む。ミヤは堅洲村(カタスムラ)へ帰ってくるときは軍服ではなくスーツを着ることにしている。帝国軍と既死軍(キシグン)との境目が欲しくて、何となく着始めた。それに軍人であることは既死軍(キシグン)の一部にしか公にしていないため、軍服姿を見られたときの説明が面倒だった。勘付いている人間も多いだろうが、既死軍(キシグン)頭主(トウシュ)と帝国軍の元帥を結び付けられるのも厄介だ。

 軍服も着物も慣れているのに、いつまで経ってもスーツは着心地が悪い。どこにも居場所がないように感じられて、一刻も早く脱いでしまいたかった。

 月明りだけを頼りに宿(イエ)に帰ったが、室内に明かりがついている様子はない。大方、シドは寝てしまったか、いつも通り一人で夜の散歩に出かけたのだろう。再生し始めた過去と変わらない日常に、今から自分が伝えようとしていることに少し罪悪感を覚えた。シドの望みを叶えると言ったのに、自分が考え得る最善の未来は自己中心的で独りよがりなのだろうかと、心が重く感じた。

 宿(イエ)に帰りたいという望みも、いつも通り暮らしたいという望みも、今できる限りのことは叶えてやったつもりだ。このまま全てのしがらみから解放してやりたいと願っている。しかし、堅洲村(カタスムラ)に、既死軍(キシグン)にいる限り、目の前から頭主(トウシュ)の存在が消えることはない。

 ミヤは眉間にしわを寄せ、深く息をつく。二十年という時の流れは人間には長すぎる。

 革靴を脱ぎ、居間にあがった。シドが生まれる以前から暮らしてきたこの宿(イエ)は、間取りも物の配置も当然ながら全て覚えている。部屋への移動ぐらいなら明かりは不要だった。どこまでも暗い廊下を抜け、自室に入ると、すぐに部屋着である着物に袖を通した。部屋と縁側とを隔てる障子からは月明りが漏れている。雨戸が開いているらしい。

 障子には人影が映っていた。音もなく障子を開けると、思った通り縁側にはシドが座っていた。シドの顔は月明りに照らされ、どこまでも遠い未来を見ているように空を眺めている。いつも通りの着物に、少し短くなった髪が風にわずかになびく。ミヤは何も言わずに横に座り、シドが見上げている夜空を自分も眺めてみる。

 ここには何もない。ただ、二人だけの時間がゆっくりと静かに流れている。時折風が吹き、木々や垣根の葉を音もなく揺らしていく。

 この縁側で、シドとどれほどの時間を過ごしてきただろうか。舞い散る雪、新緑の芽吹き、満開の桜、垂れこめた分厚い雲と終わりのない雨、呼吸を止めるような灼熱、色づいていく木の葉。そして、また降りはじめる雪。

 飛び行く鳥の名前を教えたことも、二人して無防備に寝てしまったことも、初めて拳銃を持たせたことも、すべてが既死軍(キシグン)での日々だった。

 シドの目に映っている繰り返す日常は、一体いくつの言葉で、いくつの色で、彩ることができているのだろうか。

 長い沈黙だった。空はその時間を表すかのように白み始めている。気の早い鳥が数羽、朝を待ちわびるかのように、朝日の方へと羽ばたいていった。

 ミヤは見上げていた視線をシドに向ける。

「シド」

 穏やかな声にシドも目を合わせた。ミヤは静かに続ける。

「ここを出て、二人で暮らさないか」

 シドの表情が少しだけ動いた。理解の範疇を超えているのか、驚いているのか、いつもより瞬きの回数が多い。ただじっとミヤを見ている。

「外の世界のことは、また俺が一から教えてやる。もちろん、この選択が最善じゃないことはわかっている」

 ミヤはなにも思い付きで話しているわけではない。一年前、シドを再びこの宿(イエ)に迎え入れた時から考えていたことだ。このまま既死軍(キシグン)にいれば、シドは遠くない将来頭主(トウシュ)のもとへ返り、既死軍(キシグン)の「シド」から頭主(トウシュ)の息子「葉山志渡(ハヤマシド)」になければならない。軍人になって頭主(トウシュ)、もとい元帥の跡を継ぐのも悪い人生ではないだろう。しかし、当の本人がそれを望んでいない以上、強いることはしたくなかった。

 とはいえ、今自分が提案した将来もシドが望んだ「既死軍(キシグン)(イザナ)として生きること」は叶わなくなってしまう。頭主(トウシュ)が言ったように、都合よくすべてを選ぶことなどできはしない。二兎追う者は一兎も得られない。その中で考え抜いた結論だった。

 シドはミヤを見つめたまま黙り、この言葉が意味する重さを感じていた。もう、既死軍(キシグン)には、堅洲村(カタスムラ)にはいられなくなってしまった。ミヤが何の理由もなく、ましてや軽々しく頭主(トウシュ)からの離反を口にするわけがない。ミヤがどれほど忠誠を尽くし、どれほど手を汚してきたかはシドが一番よく知っているつもりだ。そして、自分が望んだ日常がこの堅洲村(カタスムラ)にある限り、ミヤがその居場所を無理矢理奪うことなどありはしない。奪うとしたら、理由はたった一つだ。

 葉山志渡(ハヤマシド)になる日が、遂に来てしまった。

 シドが「それは」とこぼしたのをミヤが制する。自分の言葉で伝えたかった。

「命令じゃない。これは、親として」

 一瞬、シドの顔に影が差した。そのわずかな変化にミヤは一拍置いた。

 いつの頃からか、ミヤ自身も「オヤ」という言葉にもどかしさを感じていた。既死軍(キシグン)における保護者的立場としての「宿家親(オヤ)」なのか、シドの父親としての「親」なのか、自分の本心を知るのが怖くて、同じ発音なのをいいことに逃げ続けていた。頭主(トウシュ)と対峙したときも、一体自分は何者で、何を信じればいいのかと、苦悩しているふりをして結論を出さずに逃げようとしていた。

 しかし、今ならはっきりと伝えることができる。いや、伝えなければならない。

「シドの父親としての提案だ」

 そう言い切った温かく優しい眼差しをシドは何度も見てきた。しかし思い返せば、数えられるようなものではなかった。ミヤの瞳はいつもこうだった。この瞳しか知らなかった。ミヤは言葉にせずとも伝えてくれていた。

「シドは、どうしたい」

 約束を守ろうとするかのように、ミヤはシドに答えを委ねる。何でもしてやる、望みを叶えてやると言ったのは、今なら嘘やまやかしではないとはっきり言える。今まで築き上げてきた地位も、忠誠心も、思い出も、自分の人生すべてを捧げる覚悟だ。

 まっすぐ瞳を見つめたまま、シドは口を開く。ミヤの提案は心に響いた。自分を手放さないという意思表示が純粋に嬉しかった。しかし、どこへ行ったとしても、自分の血の繋がった人間が既死軍(キシグン)頭主(トウシュ)として、帝国軍の元帥として君臨する限り、逃げ場はない。

「俺は葉山志渡(ハヤマシド)にはなりたくない。だけど、他のところへも行きたくない。俺はミヤが作ってくれたこの世界しか要らない」

 シドが変わらず望んでいるのは、堅洲村(カタスムラ)既死軍(キシグン)(イザナ)として暮らすことだった。この願いが決して叶わないことはシドにもよくわかっていた。

 シドは傍らに置いていた自分の拳銃に触れた。

「俺の父親はミヤだけだ」

 短い言葉がミヤの心臓に刺さる。

 互いに一年前のあの日は忘れていなかった。冷え切ったどんよりとした空気が淀む頭主(トウシュ)の私邸での出来事だった。父親はミヤだけだと初めて自分の想いを吐き出したシドを、ミヤは冷たく父親ではないと切り捨てた。そう返さざるを得ない状況だったことはシドも理解している。その場に頭主(トウシュ)がいる限りミヤは軍人であり、ただの任務として自分の宿家親(オヤ)をしていると言うしか選択肢はない。

 しかし、それが本心でないことはわかっていた。幼いころから、シドは元帥であり頭主(トウシュ)でもある葉山の血を分けた子供で、いつかはその跡を継ぐのだと、自分は代わりに育てているだけだと口では言いながらも、元帥という冷徹な人間になるには不要な知識まで与えてくれた。拳銃を渡した手で小さかった自分を抱き上げ、人を殺せと命じた口でおやすみと言ってくれた。

 頭主(トウシュ)に「父親ではない」と言わされた屈辱も、背中から聞こえた冷たい声も、互いに忘れたことはない。

 今なら、その呪縛から自由になれる。

「だから、俺をここで、ミヤの手で、終わらせてほしい」

 シドは拳銃をミヤの方に差し出した。片時も手放したことがなかった銃だ。かつてミヤが使っていた、たった六発しか装填できない古ぼけた回転式銃でシドは今まで数多の任務を生き抜いてきた。

 自分の拳銃をやったのは、特に深い意味はなかったように覚えている。頭主(トウシュ)の息子としてしか見ていなかった時期で、扱い方を教えやすいから程度の理由だった。だがしかし、今思えば、シドの意思を無視して戦いの場に放り出してしまう己の身勝手さを、使い慣れた拳銃を身代わりとして与え、共にいてやることで償おうとしていたのだろう。自覚するより遥か昔に、心のどこかでは親心が芽生えていたらしい。

「俺はミヤの手で育てられて、ミヤのおかげで生きてきた。だから、終わりもミヤがいい」

 まだ幼かったシドにこの拳銃を持たせたときに、結末は既に決定づけられていたのかもしれない。

 ミヤは拳銃に触れた。冷たい感触から遅れて、シドの手の温度が伝わってくる。シドの瞳に迷いはなかった。これが最後の望みだ。

 震えそうになる声を必死で押さえつけ、ミヤは答える。

「俺は父親失格か。また無責任にシドを手放して、独りにさせてしまう」

 静かにシドは首を横に振った。

「ミヤはどんなに離れても来てくれた。ずっと一緒にいたんだ。ミヤのことは、ちゃんとわかってる」

「赦してくれるのか。お前を、シドを、一度でも手放したことを」

「ミヤを恨んだことなんて一度もない。ミヤは、ずっと俺の父親でいてくれた。そして、これからも」

 この選択はミヤの頭の片隅にも存在はしていたが、考え得る限りで最悪の結末だと除外していた。しかし、シドが迷っていないというなら、自分も迷うわけにはいかない。後悔するわけにも、拒むわけにも、葛藤するわけにもいかない。シドが望んでいるなら、これが親として果たせる最後の務めなら、自分の手で終わらせてやらなければならない。

「思い残すことは何もない。最期にミヤがそばにいるなら、他に何も望まない」

 ミヤはうなずいて拳銃を受け取り、引き金に手をかけた。

「ずっとそばにいるよ」

 夜が終わる。

 シドが好んだ暗闇が、白く塗りつぶされていく。

 この声を、この表情を、覚えておこう。耳に、目に、自分のすべてに、決して消えない傷として深く刻み付けておこう。失うことしか知らなかった自分に、何かを得ることを教えてくれた唯一の存在を。


 夜が、明けた


「お前は俺の息子だ。シド」

「ありがとう」

 シドはふわりとその身体をミヤに預けた。温かい体温がミヤに伝わる。

「ミヤ」

 澄み渡った青空がどこまでも広がっている。シドが生まれた日も、こんな空だった。


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