184話 破綻
人生は、選択の連続である。
「樹弥が既死軍の何かを隠そうとするのは、志渡のためか?」
予想していた通りの文言で問いただされ、平生と変わらない態度を装い否定しようとした。しかし、口を開こうとしたところで「いや、禊か」と納得したように言い切られた。肯定も否定も目の前の男は許さない。
まさかここでケイの名前が出るとは思わず、わずかに心が揺らぐ。だが、隙を見せればそこから傷口をこじ開けられる。絶対にそんなほころびを見せるわけにはいかないが、この男の前ではどこまで耐えられるのかは自分でもわからなかった。蛇に睨まれた蛙になったような心持だ。
「ケイは俺の手駒です。そんなものに心を砕くなど、あり得ないことです」
「樹弥は何があっても、そうやってうまく言い逃れるのだろうな。志渡の名前を出しても反応がなかったところを見ると、策を講じてきたと見える。それでこそ私の右腕だ。しかし」
鋭い眼光がミヤの全てを見透かすように光ったかと思うと、そのまま遠く離れたケイを貫き、ガラスのようにその脆い姿を粉々に打ち崩した。砕け散るガラス片はキラキラと反射し、自分の顔を鏡のように映し出す。
「禊はどうかな。樹弥ほど私に従順なわけでもない。私の邪魔をするというなら、排除することも厭わない」
排除という言葉がミヤに重くのしかかった。それが意味するのは生易しいものでも比喩でもなく、この世からの排除だ。これがただの脅し文句なのか、本気なのか、確率は五分五分だ。そばにいたからこそ、不要だと思えばそれまでの仲など関係なく簡単に切り捨てる性格であることは知っている。
ここで間違った道を選ぶわけにはいかない。
シドが負傷したとき、ケイは頭主に虚偽の報告書を作成することを拒み、己に課された情報統括官という役割を正しく果たそうとしていた。それは常に「頭主さまの望む未来を実現しろ」とミヤが言い続けた結果であり、本来なら褒められるべき行動だった。
ケイが職務を全うしようとしたのはそれだけではなく、義足を手に入れたとはいえ、もう任務に出ることは叶わないであろうシドをこのまま堅洲村に置いておくのは不憫だと考えたからだ。誘としても宿家親としても生きられない以上、頭主のもとで後継ぎとして暮らしていくことがシドに残された、満足ではないが唯一の幸福だと思えた。ミヤもそのまま既死軍から離れ、軍人としてのみ生きれば、シドのそばにいることができる。それなら二人とも納得できる人生を歩めるだろうと考えていた。
そんな信念も想いも無理矢理捻じ曲げ、書類を書き換えさせたのは紛れもなくミヤ自身だった。今、ケイを窮地に立たせているのは自分が招いた結果だ。
主を裏切る行為に、頭主とシドのどちらを選ぶのかとさえ尋ねられた。その時の諭すような「ミヤ」と名を呼ぶ冷たい声が思い返される。
その冷静さは、きっとこんな時が来ることを予想していたのだろう。
それでも、ケイが共犯者になれば全てがうまくいくと思っていた。どんなに自分が独断で物事を進めようとも、的確に正しい道へと導き直してくれる。だからこそ、今、シドは堅洲村にいる。
そんなケイを失ってしまうという言いようのない恐怖がケイを粉々に砕く頃合いを見計らっているかのようにこちらを見ている。
一方のシドは、たとえミヤが選択を間違えたところで、頭主が傷つけることは絶対にありえないと言い切れる。何よりも大切な後継ぎで、たとえシドが任務で五体不満足になろうとも、その「存在」を欲するはずだ。しかし、ケイはそうではない。拾ったのも既死軍に入れたのも全てミヤがしたことだ。今は頭主から既死軍の全権限を委ねられているが、それもミヤや前任者の進言があってこそで、頭主がケイのことを深く知っているわけでも、ましてや庇護してやるほどの温情があるわけでもない。
そして、今、ケイにはイチという後任が存在してしまっている。蓄積された頭脳を喪うのは既死軍にとっては大きな痛手ではあるが、頭主にしてみれば傷んだ歯車を取り替える程度で、それはじきに馴染んで円滑に回る。
だが、ミヤもケイが自分以外の誰かに傷つけられるのを黙ってみているわけにはいかない。シドのことは何に変えても守りたいが、ケイに対しては別の感情が渦巻いていた。
「無理ですよ。葉山さん」
この言葉を吐き出してしまっては、もう逃げも隠れもできない。うつむいていたミヤは顔を上げる。
「ケイを壊せるのは、俺だけです」
初めて見せた反抗的な態度に、頭主は面白そうに顎を撫でながら見ていた。
「それに、俺との約束であれば、ケイは尋問されても、殺されても、生まれ変わっても、その約束は守り抜きます」
シドは元々いつか手放さなければならない存在で、今はそれに意地汚く執着しているだけだ。しかし、ケイは違う。自分が頭主のそばにいるように、ケイはいつまでも自分のそばにいなければならない。だからこそ、ケイの進退も、その命運さえも自分にしか決められない。
だが、ケイと心中するつもりもなければ、ケイだけを死なせるつもりもない。ケイを壊せるのは自分だけだと思っていたが、それと表裏一体、ケイこそが自分を壊す引き金だった。
「俺が、何があっても葉山さんを裏切らなかったように、ケイは俺を裏切りません」
今まで守る対象はシドだけだった。生まれてから守り続け、頭主の後継ぎとして育ててきた。それが一年前、そんなことは望んでいなかったと自覚させられた。
シドの既死軍での人生を終わらせ、自分のところへ連れて来るようにという命令を断ることなどできるわけがなかった。シドがそれを拒み、既死軍として生きたいと願っていることは当然知っていた。だが、忠誠心と親心を天秤にかけたとき、僅差で傾きを見せたのが忠誠心だった。
頭主、ミヤ、シド、それぞれの思考が複雑に絡み合う状況をうまく取り持ってくれたのがケイだった。自分が悪者になることで、それぞれの関係に大きな亀裂が入ることなく、その場を終わらせた。
自分の気持ちを正しく汲み取り、死ぬつもりで頭主に直談判しているケイの覚悟を見たとき、初めて自分の人生に必要な人間なのだと気付いた。
「志渡も渡したくない、禊も守りたい、と言うのか。二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉を知らないほど、樹弥は愚かではないだろう」
頭主と出会ったのも、人となりに惹かれたのも、ただ偶然が重なりあっただけのことだ。しかし、一生ついて行こうと決めてからは昼夜を問わず頭主のために奔走してきた。頭主を元帥に据えるために文字通り手も汚した。頭主の右腕になりたいという子供っぽい願いだけがミヤをここまで走らせてきた。
この言葉を口にすれば、今まで長い年月をかけて作り上げてきたすべてが壊れてしまう。あてもなく軍の門戸を叩いた自分をここまで立派な人間に育ててくれたのは紛れもなく、尊敬する頭主だ。裏切ることなどあり得ない。裏切りたくない。しかし、ことここに至っては、もう、止まることはできない。
「いいえ、俺は愚か者ですよ、葉山さん」
ミヤは諦めたような笑顔を見せた。
「俺は軍人として、皇や元帥閣下を守って死ねれば本望だと、今でも本心から思っています。ですが、葉山さんに出会って二十余年、軍人ではない部分の俺は変わりました。葉山さんが言う通り、俺はシドもケイも守りたい。それから葉山さん、当然、あなたのことも」
時の流れは人を変えていく。それは自然の摂理で、何も驚くことではない。年を重ねれば守りたいものが増えるのは当然の成り行きだ。それは頭主も理解しているようで、ただ黙ってミヤを見つめている。
「俺の今があるのは葉山さんのおかげです。裏切るぐらいなら死んだほうがマシだとずっと思っていました。それなのに、俺は、葉山さんに」
そこでミヤの携帯電話が鳴った。画面には元帥の秘書である橘の名前が表示されている。これから陸軍本部で戦争中の同盟国に援軍を送るか否かの軍議が行われる。そこに頭主を送り届けるため、私邸の前に着いたという連絡だ。
ミヤは電話に出ることなく、ただ茫然とその小さな媒体を見つめている。しばらくすると無機質な電子音はぴたりと息絶えた。
頭主はソファから立ち上がり、ミヤを見下ろす。
「志渡を連れて来い。生きていなくともな」
ミヤは返事ができなかった。ここで「はい」と言ってしまえば、また自分は忠義を尽くす軍人になってしまう。頭主を裏切りたくはない。いつまでも右腕としてそばに仕えたい。しかし、今はそれよりも、何を犠牲にしてでも、シドの望みを叶えてやりたいと思った。
何も言わないミヤから視線を外し、頭主は静かに部屋を後にした。ドアが閉まる音が背中から聞こえる。
後戻りはできない。
「禊、聞いてるんだろ」
ミヤは静かにつぶやいた。
「俺はどうしたらいい。どうすれば」
両手で顔を覆い、息を吸う。ケイは確かに聞いているはずなのに何も答えない。しばらくの沈黙が続く。刺すような静寂がうるさく感じられる。
「禊が正しかった。俺は禊もシドも追い込んで、頭主さまも裏切った。自分で全部ぶち壊して、俺の人生は、一体何のためにあったんだ」
『シドに出会うためだよ』
ケイが沈黙を破った。染み入るように言葉が入って来る。
『樹弥くんはシドを守るって決めて、そのためにすべてを捨てたんでしょ。それなら、シドの望みを叶えるべきだ。樹弥くんは間違ってない。だから、俺も樹弥くんが信じることを信じる』
「こんな俺のことでも、か」
『どんな樹弥くんでもだよ』
深く息を吐きミヤは立ち上がる。堅洲村に帰らなければならない。シドに伝えなければいけないことがある。
「俺は親として、責任を果たす」
どんな結末が待っていようとも、二人が納得しているなら、それが正解だ。遠く離れたケイはその言葉にうなずいた。