181話 醒める
終わるも終わらないも、すべて夢。
少し肌寒く感じる風でシドは目を覚ました。以前よりも冷え込みが深まっている。またしばらく眠っていたようだが、これが眠らされていることぐらいはわかっていた。
顔を横に動かすと、ベッド横の丸椅子でミヤがいつものようにうたた寝をしていた。開け放たれた窓から差し込む日光はまだわずかに夜を纏っていて、ミヤの顔に暗く影を落としている。
今日は珍しく麻酔が切れている。偶然か故意かはわからないが、ヤヨイが間違えるとも思えず、これはきっとわざとなのだと納得している。久しぶりに身体を起こすと、布団の擦れる小さな音でミヤが目を覚ました。何を言うでもなく、ただじっとシドを見つめている。
多忙なミヤが何日も離れずそばにいるはずがない。何度かふいに目を覚ました時、この部屋は伽藍堂で寒々しくしんとしていた。誰もいない部屋も、ミヤの姿が見当たらないのも日常だった。それでも負傷してこの病室に運ばれてからは目を覚ます時には必ずこうして隣に座っていた。
「ずっといたのか」
答えのわかりきっている質問をするとミヤはふっと笑った。口角を少し上げて、何度か小さくうなずく。昔からこんな顔で笑っていたなと、いくらか若いミヤの顔を思い出してみる。
「シドがそう望んだからな」
言葉を交わすのは任務の直前以来だ。数えきれないほど会話をしてきたはずなのに、自分の言葉に返事があるのは何となく不思議な心持になる。
質問をしてみたものの、何と返せばいいかわからず、かといってミヤも口を開く様子はない。口数が少ないのはお互い様で、無言は慣れたものだ。だが、ミヤが何か言いたげなのは見ればすぐにわかった。
シドはまっすぐミヤの瞳をとらえる。
「あれから何日経った。俺が足を失ってから」
その言葉に今度は表情を少しも動かさず、ただ小さく「知ってたのか」とこぼした。
「気絶する直前に見えた。夢かと思ったが、現実らしいな」
夢で何度も繰り返し見てきた光景がはっきりと脳裏に焼き付いている。破裂するような閃光、誰かが呼ぶ声、引きちぎれるような痛み、すべてがただの悪夢であればよかった。諦めたように一度笑ったシドは布団をめくる。覚悟はしていたものの、その身体は到底受け入れられるものではなかった。言いようのない感情と吐き気がシドを襲った。固く目を閉じ、静かに息を吸う。
既に痛みはない。しかし、ないはずの脚が、亡霊のように恨めしそうに痛みを伝える。
わずかに空気が揺らぎ、布団が再びかけられたことを感じる。見えなければ亡霊は消え去るようで、痛みも嘘のように引いた。
「なぁ、シド。お前はどうしたい」
先ほど思い出したミヤよりももっと若い、今の自分とそう変わらない年齢のミヤがふと脳裏に浮かんだ。そういえば、子供の時はよく言われていたなと忘れていた思い出が顔を覗かせた。
二人きりでいるときのミヤは昔から何も変わっていない。
「宿 に帰りたい」
ミヤは無理難題をふっかけられるかと身構えていたが、何とも単純な願いで拍子抜けした。非日常的なこの病室ではなく、日常に帰りたいのだろうと再び笑顔を作る。
「それから、どうしたい」
「いつも通り暮らしたい」
「いつも通り、か」
噛み締めるようにシドの言葉を繰り返す。任務に出られないシドがどのような道をたどるのかは考えるまでもない。頭主 にはまだ負傷のことは隠し通せているが、それが明るみに出たとき、堅洲村 では暮らせなくなってしまう。
シドの言う日常とは、つまり堅洲村 で生活するということで、身体的機能の回復は二の次だ。
しかし、それはシドにとって日常はもはや手の届かないものになってしまった。ミヤの頭に頭主 の顔がチラつく。
「どんな手を使っても誘に戻してやる。任務にも行かせてやる。シドが望むなら、俺は何でもする。それが親である俺の務めだ」
自分に言い聞かせるようにミヤはまっすぐシドに伝える。わずかにうなずいたシドだったが、ミヤの言うオヤは「宿家親 」の意味しか持たないのだと、その言葉に何となく胸がふさがる思いだった。
宿家親 は誘の生活を支え、任務に送り出すことがその役目で、それ以上でもそれ以下でもない。それでも、ミヤのことは単なる宿家親 でも、育ての親でもなく、本当の親だと思って生きてきた。頭主 が父親であることは当然知っていたが、数年に一度会う程度では到底受け入れられる関係ではなかった。
一年前、既死軍 から去ることになったとき、本当の親は頭主 ではなくミヤだと、初めて自分の想いを口にした。頭主 はただの既死軍 を統べる人間で、父親ではない。子は親の言うことを聞くものだと言うなら、頭主 ではなくミヤの指示に従う。それが正しいことだと思った。しかし、ミヤには父親ではないとはっきり拒絶された。今でもその張り裂けそうな空気感が脳裏に刻まれている。ミヤは飽くまでも頭主 に従順な右腕で、頭主 に言われたから自分の宿家親 をしているだけに過ぎず、そこには何の感情もない。
だからこそ、今ミヤが言葉にした「オヤ」も当然「宿家親 」の意味しか持たない。現実がじわじわと蝕むように広がっていく。
「とりあえず、宿 に帰ろう。ヤヨイの許可が出ればの話だが、俺がどうにかしてやる」
ミヤはシドの返事を待たずに立ち上がった。
今まで通りとはいかなくても、取り戻せる日常もあるはずだ。頭主 に知られるまでという、いつまで続くかわからない有限の時間が流れ始めた。
何でもするとは言ったものの、頭主 に逆らえるかどうかはミヤにもわからなかった。シドが負傷するまで頭主 に嘘をついたことも、反論したこともなかった。しかし、思い返してみれば、自分の感情を押し殺した瞬間は何度かあったなといくつかの場面が頭をよぎった。
病室を出て診察室へ向かう。ガラス戸を開けると、診察台でヤヨイが寝ていた。窓の外はやっと明るくなり始めたばかりで、普通ならまだ寝ている時間だ。
ガラス戸を引く音でヤヨイは目を覚ます。
「来てたのか」
身体を起こして自分の椅子に座り直し、気だるげに伸びをする。ミヤはその前に立ち、ヤヨイを見下ろす。
「とりあえず聞いてやるよ。言ってみろ」
わざわざ用もないのに来るはずもなければ、雑談をするような仲でもない。ミヤの言おうとしていることはヤヨイには想像がついた。
「シドを連れて帰る」
「いいだろう。まぁ定期的に様子を見に行かせてはもらうが、許可する」
やはり思った通りだったとタバコに火をつけ、ゆっくりと吸う。
「それから、何だ」
「それから? 俺はこれだけ伝えに来た」
「いいや、そんなはずはない」
タバコを口から離し、鼻で笑う。
「人間は欲望の塊だ。一つ手に入れれば、次が欲しくなる。俺が言うんだ。間違いない」
ミヤは言葉を詰まらせた。確かにヤヨイの言うとおりだ。自分は心のどこかで、いつかすべてが元通りになることを願っている。「何でヤヨイが」と、反論しようとしたミヤをヤヨイは止める。
「思い出せよ。俺はどんな人間だった」
言われて思い出すまでもなく、ミヤには既死軍 全員の経歴が頭に入っている。既死軍 にいるのは基本的に全員ミヤが選んだ人間だ。
ヤヨイは既死軍 へ来る前、戦後最悪の殺人鬼と呼ばれ恐れられていた。はっきりした被害者の数は今もなお不明のままで、ヤヨイも覚えていなかった。逮捕された後は当然死刑判決を受けたが、実際は命を落とすことはなく、こうして堅洲村 で暮らしている。
「俺は欲望に忠実に生きて死刑になった人間だ。頭主 様に従順なお前には欲がないように見えるから教えてやるよ」
再びタバコを咥えたヤヨイは口元だけで笑う。
「初めは生きてるだけでよかったって、目を覚ましただけでよかったと思ったはずだろ。だが、今は心のどこかで歩いてほしいと願っている」
口を真一文字に結んだまま、ミヤはぴくりとも表情を変えない。生きているだけでよかったと思ったのは事実だ。今後、片足を失ったことが理由で既死軍 を去り、頭主 のもとへ行くことになったとしても、死んでしまうよりかは何倍もマシだった。自分の感情はそこで終わったと思っていた。
「走ってほしい、日常会話を送ってほしい、任務に行ってほしい。お前は次第にそう思うようになる。欲望は欲望を呼び、少しずつ膨れ上がっていく」
だが、今はヤヨイの言葉が染み入るようにすんなりと身体に入って来る。ヤヨイに言語化されて初めてミヤは自分の本心を知った。
何も言い返さないミヤに、図星だったかとヤヨイは満足そうに煙を吐き出す。
「希望なんて、お前には似合わない言葉だ」
「そうだな。俺は欲も希望もない世界で生きてきた。そんなものはすぐに灰燼に帰す世界だ。それでも俺は、シドのことだけは、願う。シドの思うとおりに生きさせてやりたい」
「勝手にしてくれ」
会話にすっかり飽きてしまったのか、ヤヨイはタバコを灰皿に潰した。ミヤの決意などには少しも興味がなかった。それよりもさっさと自分の興味のあることに手を付けたかった。
「必要なら義足も作ってやるし、すべてを忘れさせてやりたいならそれも手伝う」
「急に物分かりがよくなったな」
「どうせ窮したお前はケイを持ち出してくるだろ。そうなると、俺は勝てない。縦社会の嫌なところだな」
「さすがに、ケイには頼らん。俺の問題だ」
「どうだかな」
呆れたような表情のヤヨイは椅子を回し、ミヤに背を向けた。
「連れて帰るならさっさとしてくれ。ケガ人をいつまでも匿っておくほど俺も暇じゃねぇんだ」
「世話になったな」
問題は一つも解決していないが、前に進むしかない。有限の時の中ではできることも限られている。だが、自分とシドが納得できる世界は必ずあると今は信じるしかない。
ミヤは足早に病室へと戻った。