180話 及第点
今を生き抜かない者に、未来はない。
息苦しさを感じてユネが目を覚ますと、まずは大空が目に入った。無線からは誰かの声がしている。次に冷たい液体の感覚で貯水池に浮かんでいることがわかった。鳥が一羽、飛び去って行った。
しかし、そんな悠長に状況を理解している場合ではない。このままでは窒息してしまうと慌てて立ち泳ぎの体勢になり、喉に流れ込んでいた血を吐き出した。咳き込みながら周囲を見回してみるも、煌悧との戦いがどうなったのか何も手がかりは得られなかった。よくよく無線を聞いてみると、イチが山に入ってまで蜉蒼は深追いするなと誰かに向かって警告している。どうやら蜉蒼はまんまと逃げおおせたらしい。
もう一度咳き込むと、身体を水面に預け再び天を仰いだ。最強の名をほしいままにしていた自分が、こうも呆気なくやられてしまったことに奥歯を噛んだ。じわりと血の味が広がる。
ロイヤル・カーテスと既死軍が手を組んだのは、あと一年で蜉蒼を潰すためだ。それはつまり、少なくとも一年以内に再戦の日が来ることを意味している。それまでにあとどれほど強くなれるのかと考えを巡らせてみる。
「絶対、僕が倒してやるんだよ」
悔しさなのか、怒りなのか、どうにもならない感情を叫びたい気持ちを抑えてユネは身体を起こし、貯水池から上がれる場所を探しながら泳ぎ始めた。
蜉蒼の撤退を聞いたヤンとルワは一気に脱力したように二人してその場に寝転がった。
「ヤン、何人倒した?」
「いちいち数えてねぇよ、そんなの。それとも何だ? お前は数えられる程度なわけ?」
どこも激戦地であったことに変わりはないが、その中でも二人の場所は要所である管理室に続く道とあって、より多くの敵が集められていた。周りにはヤンたちと同じように転がっている人間が多数いるが、こうして生きているのは二人だけだ。鉄臭いにおいが漂う中、大の字になったまま空を眺めている。
「ヤンとルワ、無事だ。大した怪我もない。撤退命令待ってるぞ」
思い出したように報告を終わらせたヤンに、「ねぇねぇ」とルワはけらけらと笑いながら声をかける。
「この状態で明日も普通に学校とか会社あるの、ヤバくない? 休んでいいかな」
「いや、行けよ。せっかく守り抜いたんだ。いつも通りの日常をお前らが享受しなくてどうすんだよ」
「お前ら、って、そっちは」
「俺たちの日常なんて、今日と大差ない」
「一回、ヒデにも同じようなこと聞いたんだけどさ」
そう前置きをしたルワは一瞬迷ったように口をつぐんだ。
「既死軍って、罪を償うために戦ってて、それで、その日常そのものが、生きてること自体が罰なんだろ」
「まぁ、端的に言えばそうだな」
「罪とか罰とか、俺にはよくわかんないんだけど、生きてるのって、既死軍にとっては悪いことなのか」
「悪いっていうか」
なんと表現すればいいのか、ヤンは言葉を選ぶというよりも探すように頭を働かせる。既死軍に辿り着いた経緯など話すつもりは毛頭ない。話したところで、同情されこそすれ、理解されるとは思えなかった。だが、同情も求めてはいない。
適当な言葉が思い浮かばず、しばらくの沈黙の後、ヤンは「いや、やっぱりいい」と諦めたように笑った。ルワも何かを感じたのか「そっかぁ」とだけ返した。そして、しばらく呼吸を置いてから、ルワはもう一度「そうだよなぁ」と噛み締めるようにつぶやいた。
「俺たちの守るべきものって違うけどさ、ちゃんと意味があって戦ったんだよな」
ヤンはルワを一瞥して「何をいまさら」と目を閉じた。
「そんなの、蜉蒼にだって言い分があるのと同じだ」
木々がざわめく音と貯水池の穏やかな水音が何となく心地よく、ヤンは急激に眠気を誘われた。持久戦も大人数相手も久々で、思った以上に疲労がたまっているらしかった。堅洲村に帰ったら宿家親のゴハにどれほどの人数と戦ったのかを自慢してやろうと、まどろみながら考えていた。
そんなとき、先ほどまで心地よいと思っていた環境音に突如として水を含んだ足音が重なった。ぐちょぐちょと不快な音を鳴らすその主は、全身ずぶ濡れになったユネだった。
「昼寝とは、いいご身分なんだよ。僕はこんななのに」
呑気に寝転がっているルワの首筋に軍刀を当てたユネは、そのまま腹部にどかりと馬乗りになる。ひやりと染み込んできた感触にルワは思わず声を上げて上体を起こし、横のヤンに助けを求める。
「お、俺だって頑張ってたんだからー! なぁ、ヤン、言ってくれよ」
しかし、助けを求めた相手の姿は、いるはずの場所からは既に消えていた。
「撤退命令が出たから既死軍は引き上げる。じゃあな」
いつの間にか天端の方へと移動していたヤンは「あとはごゆっくり」と手を振って背を向けた。「裏切者!」と叫ぼうとしたが、ヤンがこの場に残っていたところでユネがわざわざ相手にするはずもない。元からユネの狙いは自分だ。
「いや、ユネ、このボロボロ具合見てくれたら俺の頑張りわかるじゃん」
「関係ないんだよ。僕がこんなことになった腹いせにルワのこと殴ってもいい?」
「八つ当たりやめてよ!」
「王様がしっかり指揮してないからなんだよ」
「今日の司令は既死軍じゃん!」
「そんなの、ただの言い訳なんだよ」
「その余力もうちょっと使いどころあったんじゃないの」
「僕に口答えするな」
どこからともなく聞こえてくる悲鳴を背に、ヤンは管理室の方へと歩いていた。既死軍はそこに集まるようにという指示だ。ロイヤル・カーテスもしばらくすると引き上げるだろう。後始末は堕貔に任されている。
管理室の近くに着くと、すでに既死軍の全員がいた。無線で声こそ聞いていたものの、やはり顔を見ると何となく安心感があった。ほぼ無傷なのはヤンとレンジぐらいなもので、あとはセンに処置されたあとが痛々しく、そして生々しかった。
少し離れた場所にはセンの治療を受けていたディスとレナもぐったりとしていた。レナはどうやらまだ目を覚ましていないようで、胡坐をかいているディスの隣に横たわっている。
ヤンに気付いたジュダイが「お疲れ」と手を振る。
「すげぇ、みんなボロボロだな」
「一番の重症はヒデかな。骨折してるっぽいよ」
わかりやすく頭に包帯を巻かれたノアがあっけらかんと指をさす。当のヒデも「いや、ヒビぐらいだと思うけど」と平然とした顔をしている。全員がまだ任務が終わったばかりの覚醒状態で、痛みなど感じていないのだろう。堅洲村に帰ってしばらくしたころにじわじわと痛み始めるのは誰しも経験がある。
「ヒビならもうちょっと戦えたんじゃないか」
「そう? それなら、折れてるってことにする」
「相変わらず、ヒデも適当だな」
ヤンは思わず笑い出した。
さっきまでそれぞれが死闘を繰り広げていたとは思えないほど、お互いにくだらない話をして笑い合う。この任務で何を得て、何を失ったのか、考えるのは誘たちの仕事ではない。今はただ、ダムを守り切り、誰も欠けることなく任務が終わったことを喜ぶだけでいい。負の感情をさらけ出すのは今ではない。
ひとしきり任務の遂行を喜んだところで、ケイから指示があった。ケイとしては今回の任務は及第点といったところらしい。煌悧も那由他も捕まえられはしなかったが、一歩前に進んだようには感じられる。
既死軍はいつまでもここにいても仕方がないと、帰路につこうとする。その動きを察したディスが慌てたように歩み寄ってきた。
「私から、ロイヤル・カーテスを代表してお礼を言わせてもらいます。助かりました。手当も、ありがとうございました」
深々と頭を下げたディスにヤンは答える。
「お前らも十分役に立った。けど、俺たちは言われた通りに任務をこなしただけだし、それはお前たちだって同じだろ。手を組んでる間は、礼を言うのも言われるのも、なしにしようぜ」
「そうですね。では、お互い出し抜くのも、なしにしましょう」
ディスはヤンの目をまっすぐ見る。その瞳はすべてを見透かしているかのようだった。その言葉の意味を十分理解しているヤンは鼻で笑う。ケイは飽くまでもロイヤル・カーテスより既死軍が優位に立ち続けることを望んでいる。協力関係といってもたった一年のことで、それが終わればまた敵対関係だ。それならば、この一年は有効利用しなければならない。水面下では見えない争いを続けているようだった。
「わざわざありがとな。じゃあ、またどっかで」
「はい。失礼します。お気を付けて」
再び頭を下げたディスに、既死軍はそれぞれ手を振ったり会釈をしたりして別れの挨拶をした。
時間にすれば任務は半日にも満たず、太陽の位置も少し変わった程度だ。
ヒデは立ち止まって振り返り、少し遠くなったダムに別れを告げた。蜉蒼は取り逃がし、多くが負傷した。ケイが及第点を出したのが意外なほどの結果だ。だが、決壊すれば数時間で町を水没させるダムは守り切った。それだけでも十分な成果だろう。
もちろん、任務は楽しいと言えるものではない。痛みも苦しみも、言いようのない感情も、すべてが心臓を撃ち抜いていく。誘になって初めて人を手にかけた日に強くなろうと決意したことは、ひと時も忘れてはいない。
その時目指した場所へは近づけているのだろうか。
今日の出来事を振り返りながら、早く堅洲村に帰ってアレンにいろいろなことを話そうと考えていた。何よりも、温かい光に包まれた「おかえりなさい」が待っている宿へ一刻も早く帰りたかった。その言葉を聞くために、自分はどんな任務からも無事に帰らなければならない。
二度と見ることはない景色を目に焼き付けたヒデは、先を行く誘たちを少し走って追いかけた。