178話 紅蓮
燦然と、煌めく。
レナは軍刀を構えたまま、正面の那由他を睨みつける。今までヒデたちがどんな戦いをしてきたのか詳細は知らないが、那由他は肩から脇腹にかけて大きく斜めに切られている。出血は止まっているものの、少し見た様子だと動きは思ったよりも鈍い。その痛みは相当なものだろうが、涼しい顔を崩さない精神力だけは立派だと思った。
「女に用はない。下がれ」
「そういうの、私に勝ってから言ったら?」
先に攻撃を繰り出したのは那由他だった。全身が軋むように悲鳴を上げている。
本来なら援軍に紛れて逃げ切るつもりだった。だが、その退路を断ったのが女とあれば、おめおめとその場を立ち去るわけにもいかない。奥歯を強く噛んだ。
黎裔では搾取する側とされる側は区別されている。黎裔を支配する蜉蒼の人間であればそれはなおさらで、意見をするものや邪魔をするものなどいない。那由他からすれば、レナはそんな支配される側に属する下等な人間だった。今ここでどちらが上か、はっきりと示す必要がある。
円月輪は投げるときにわずかな隙が生まれる。それを知っているレナは那由他に近づき、弱点を狙う。既死軍からの情報によると、どうやらその右腕は手術で縫い合わされた他人のものらしい。滑らかな動きからは想像もつかないが、狙う理由には十分だ。既にざっくりと切られている傷口を再度開き、脆弱になっている右腕を切り落とすだけで、難しいことはない。
だが、軍刀に手ごたえはなかった。那由他が手にした円月輪を振り上げている。今度は投げるのではなく、そのまま切りつけるつもりなのだろう。動作を見切ったレナは数歩後退する。
攻防を繰り返しているうちに、レナにも疲れが見え始めた。どうにかして決定的な勝利を手にしなければ、女だからと馬鹿にされた恨みは晴らせない。自分だけではなく、那由他の言葉の背後に見えた、名も無いまま葬られたであろう人々にも顔向けできない。
「私がやらなきゃ」
レナはそうつぶやき、自分に言い聞かせた。
ルワに声が届く距離まで近づいたヤンは烏合の衆に鞭を振る。寒々しい音が風を切り、血が爆ぜる。音に驚いてルワが振り返ると、顔についた返り血を拭いながら歩いて来るヤンの姿が見えた。
「ぜんっぜん通り道できてねぇじゃん」
「これでも頑張ったんだからー!」
これ以上何か言われてはと、ルワも負けじと敵を切り伏せながら慌てて言い訳をする。そんな様子にため息をつきながらヤンは鞭をしならせ、周囲を威嚇するように地面を叩く。
ルワのさらに向こう側、天端まではあと少しの距離で、そこにいるレナたちが人ごみの向こうに見えた。本当はそこまでいくつもりだったが、わざわざレナに手を貸す必要はあるのかとルワの隣で足を止めた。
「レナってどれぐらい強いんだ」
「うちの女王様、でわかる?」
「お前が戦ったら勝てるのか」
「わかんない。けど、俺より容赦ないのは確か」
「じゃあ、先に弱っちぃお前のこと助けてやるよ」
適当な理由をつけ、ヤンは残ることにした。いくら協力関係を結んだとはいえ、今この場でレナと那由他が潰し合ってくれるなら、将来的には有利になる。だが、そんな思惑はルワには伝わっていないようだ。純粋な瞳をこちら側に向けている。
「貸しってやつ?」
「いや、別に。返してもらうほどじゃない。朝飯前だからな」
勝気な言葉に笑ったルワは背中を預ける。
「言ってくれるねぇ。ルワって名前の意味、知ってるよな」
「知らねぇな」
いたずらっぽく笑ったヤンは言葉を残して走り出した。
音速をも超える鞭を振れば、その動きに合わせて人が弾かれるように倒れていく。ここまで大勢を相手にするのも久しぶりだ。一つひとつ増えていく屍を超える相手の歩みは異様ではあるが、自分を前にしても逃げ出さないその度胸は買ってやるつもりだ。おそらく、このまま生き残ったところで蜉蒼にいいように使われている裔民に明るい未来など残されていないだろう。苦しむことなく一撃で倒してやるのが、せめてもの死出の旅路への餞になる。
たまに鞭の軌道上に現れるルワを叱りつけながら、二人は進行を食い止め続けた。
そこに突然、しばらく沈黙していたイチの声が聞こえた。
『誰かが来る。レナの後方、警戒しろ』
『ヒデです。僕がやります』
やや遅れて、ヒデの声がした。顔を上げると、天端の手すりには弓矢を手にしたヒデが立っていた。ヤンの場所からはイチの言う人影はよく見えないが、そこからなら全体を把握できるだろう。今の自分にできることは、援護に行くことではなく、ここでルワと共に戦うことだ。任せたと口に出すことなく、視線を外した。
手すりに立ったヒデは弓矢を構える。確かに遠くから誰かがこちら側へ歩いて来る。鈍い色をした蠢く群衆の中に、映えるような那由他とは違い、その人もどちらかと言えば薄暗い色の服を纏っている。だが、目を引くのは風になびく赤っぽい髪だ。
まだ射程距離ではない。
レナのほうに目を向けると、那由他と鍔迫り合いをしていた。怖気づきもしなければ、力負けもしない。さすがロイヤル・カーテスの女王だ。しかし、拮抗しているらしく進展はない。
「レナさん、援護します。そのまま動かないでください」
無線でそう呼びかけるも、反応はなかった。だが、確かに届いているという確信があった。
那由他の背中に狙いを定める。離れてはいるが、ヒデであれば十分すぎるほどの的だ。決して外しはしない。
そこからの景色はすべてが遅く感じられた。
矢は音もなく、吸い寄せられでもするかのように那由他に一直線に飛ぶ。これは間違いなく命中する。
だが、その結末を見ることなく、先ほどのレナと同じく手すりの上を走り出した。
レナは那由他から視線を外さない。ヒデからの無線は当然聞こえていたが、目でも声でも返事をすれば気付かれてしまう。それはヒデの思うところではない。
今が好機だ。
「女も強いってこと、覚えといて」
それまで崩さなかった那由他の涼しい目元がゆがんだ。一瞬だった。
ヒデの放った矢が背中に刺さったのを合図に、レナは右腕めがけて軍刀を振り下ろす。ぼとりと重い音が聞こえたかと思うと、続けて水音が聞こえ始めた。
那由他はそれだけで人を殺せそうな鋭い視線をレナに送る。辛うじて立ってはいたが、やがてずり落ちるようにして膝をついた。
レナが顔を上げると、ヒデが少し離れたところで再び弓を手にしていた。だが、そこに既に矢はなかった。その軌跡をたどり振り返ると、先ほど無線で聞いていた男が一人、こちら側へと歩いてきていた。既死軍でもロイヤル・カーテスでもないとなれば、当然、蜉蒼の人間だ。
那由他を残し、レナは男のほうへ走っていく。後ろからは制止するように名前を呼ぶヒデの声が聞こえる。
周囲を取り囲んでいた野次馬の群れが動き始め、一本の道を作った。はっきりとその姿をとらえたと思ったその瞬間、突然正面から襲った衝撃にレナはバランスを崩し、後ろ向きに倒れこむ。攻撃されたことは確かだが、何をされたのかはわからなかった。
すぐさま起き上がろうにも、痛みで力が入らない。ドクドクと全身が脈打つ感覚がして、徐々に痛みよりも燃え上がるような熱さが広がった。視界に入るのはどこまでも広がる真っ青な大空だけで、自分がどんな状態かはわからない。手を腹に当てて見ると、べっとりと血がついていた。どれほど出血しているかは感じるしかできない。真っ赤な手と真っ青な空のコントラストが妙に美しく、「ああ、わたしはこのまま死ぬんだな」と、納得した。
手すりから降りたヒデは、生死不明のレナのもとへ駆け付けたい気持ちを抑え、軍刀を抜いた。ちょうど那由他とレナの中間ぐらいの位置だ。
男は倒れているレナには目もくれず素通りする。正面にいるはずのヒデのことも眼中にないのか、ちらりとも視線を動かさない。ただその目はまっすぐ那由他に向けられている。
しかし、だからといってそのまま見逃すわけにはいかない。
カランカランと鳴る一本歯の下駄が近づく。
「あなたが蜉蒼なのはわかってます。誰ですか」
ヒデの問いかけに、意外なことに男は足を止めて口を開いた。その答えはヒデの望んでいたものではなかった。
「きっと那由他がいつも世話になってるんだろうね。けど、今日はここまでだ」
「このまま帰れると思いますか」
「吠え面かくとこ見たかったけど、どうやらそんな時間はなさそうだ」
男は懐から武器を取り出す。レナを切りつけたものかと思ったが、そうではない。手にしたのは十手だった。
ヒデが応戦しようと足を踏み込んだが、男はそれよりも早く、すれ違いざまにヒデの手首を叩きつけた。その重みと電撃が走るような痛みに、ヒデは思わず軍刀を落とし、膝をついた。
悠々とヒデをやり過ごした男は那由他の前に立つと、口元だけ笑っている顔を向けた。
「おやおや那由他。また、そんな不具者になってくれるとは」
「煌悧様」
息も絶え絶えになっているのは那由他も同じだった。今にも消え入りそうなつぶやきをヒデは聞き逃さなかった。無線に聞こえるように名前を繰り返し、軍刀を握り直して立ち上がる。
「名前、煌悧って言うんですね」
男の頭上で一つに束ねられた赤っぽい髪が冷たい風にわずかになびいている。茶色と赤色の中間のような暗い色をした羽織は、やはり那由他の鮮やかな赤い色とは対照的だ。
『聞け、既死軍。男の名は恐らく風真煌悧、蜉蒼の棟梁だ。生け捕りにしろ』
耳の奥にケイの声が響く。
『すべては、既死軍が支配する』
年齢は自分よりも上であることは間違いないが、そこまで離れているようにも見えない。そんな青年が黎裔では神と崇められる存在に居座り続けている。どこか温和そうな雰囲気をしているが、その所作や言葉の端々には禍々しいほどの棘を持っている。それが、彼が蜉蒼を率いる男だということを証明しているようだった。
「呼び捨てにされるのは心外だな。みんな煌悧様って呼んでくれるのに」
煌悧は振り返る。
「仲良くしようよ」