175話 対極
井の中の蛙は、何を思う。
那由他は視線を水面に浮かんでいる人間たちに少しだけ向け、銃口を向けているヒデに戻した。
「せっかく金も人も使ったのに、こんなにすぐ使い物にならなくなるとはな。裔民に山越えは少々無謀だったか」
顔は笑っているのに、その目と声は呆れと軽蔑を含んでいる。まとっている陰鬱な空気感は不気味なほど那由他に合っていた。その雰囲気も含めて、那由他というどうしようもない人間を形成しているのだろう。
「まぁ、相変わらず俺たちは食料も足りないし、口減らしには手間も省けてちょうどいい」
那由他はことあるごとに「蜉蒼の活動は裔民のためだ」と口では言うが、その裔民を使い潰せる物程度にしか考えていない。思わずヒデは「人の命を何だと思ってるんですか」とこぼす。その返事など、考えるまでもなく不快になるものだとわかっている。
「何とも思ってないからやってるんだけど、いちいち言わないとわからないか? 黎裔は命を尊重できるほど高尚な場所ではない。粗末にしてるつもりもないがな」
那由他は手にした円盤状の円月輪をくるくると人差し指で回している。このまま話だけで終わらせるつもりはないらしい。その手から離れた一枚の円月輪は美しい弧を描き、ヒデに迫る。しかし、起動さえ見切ってしまえば怖いものではない。遥か後方で地面に落ちる金属の音がした。
「ただ黎裔で生まれたというだけで、満足に飯も食えず、寒さ暑さも耐え忍ぶしかなく、報われないまま死んでいく。比較対象もないから、生まれた人生を呪うことにすら考えが及ばない。だから、こうして人生に意義を与え続ける限り、俺たち蜉蒼は裔民にとっての信仰対象であり、この行いも人道的なものだ」
その目の光は嘘やその場しのぎの出まかせを語っているようには見えなかった。蜉蒼の行為を「善」であると信じ切っている純真無垢な人間にさえ思えた。那由他も黎裔で生まれ育った裔民の一人であることに変わりはない。その出自を呪うよりかは、信じて肯定することに決めたのだろう。那由他の言い分に同情しないわけではない。
ヒデは那由他の言葉を聞きながら、ミヤの話を思い出していた。それは一年ほど前、任務で黎裔に初めて潜入する直前に聞いた話だった。
帝国唯一の貧民街である黎裔、そこに暮らす裔民は本来であれば国が助けるべき存在だ。しかし、国はその存在を知りながら手を差し伸べることはせず、代わりに作り出されたのが世界を完全に隔ててしまう高い壁だった。ミヤは黎裔を「巨大な監獄」と表現していた。
「黎裔の現状は知っています。けど、だからと言って」
「知った口を利くな。一年前、お前らが来たせいで黎裔は火に呑まれた。過去、現在、未来。人も物も、思い出さえ灰になって消えた。幸せではなくとも、いつもと変わらない平穏な日常をブチ壊したのはお前らだ。その自覚はあるのか? 大火のせいで死んだ裔民が何人いると思う。お前らのほうこそ、人殺しが楽しいって顔だ」
言葉と共に放たれた数枚の円月輪がそれぞれの軌道でヒデを襲う。咄嗟に避けはしたが、思いもよらない方向からの攻撃は防ぎようがなかった。やや遅れて刃物で切られた痛みが腕や頬から伝わってきた。このままでは攻撃を防ぎきれないと踏んだヒデは軍刀に持ち替える。
この軍刀は「慈多」という名を持っている。そこに込められている意味は生きとし生けるものへの慈しみの心だ。それは高い壁に囲まれ、ただ亡霊のように生きている裔民がまさに欲しているものだろう。だがしかし、今、目の前にいる裔民には恵みを与えるつもりも、助けるつもりもない。
「責任転嫁するとは、あなたが誇りにしている蜉蒼の名が泣きますよ。火をつけたのは自分自身でしたよね」
那由他はヒデの言葉を鼻で笑い飛ばした。
「お前らが来なければよかっただけの話だ」
再び那由他が何枚もの円月輪を手にしたところにヒデは切り込む。ある程度の間合いを必要とする那由他は接近戦には不慣れだろうという考えだった。振り下ろされた軍刀を、那由他は交差させるように円月輪を交差させて防いだ。ヒデは上から力をかけて那由他の防御を突破しようと鍔迫り合いの状態になる。今にも刃から火花が散りそうなほどだ。
耳元では無線で様々な声が飛び交っている。ヒデはたった一人の相手をしているが、他は多くの敵に囲まれている。誰もが少しずつ疲弊し始めているらしい。
ジュダイを撃ち落とした爆薬を積んだ小型無人航空機も数を増し、こちら側を翻弄するように飛び回っている。ノア、ディス、ノーフのおかげで、蜉蒼が今回メインターゲットにしているダムへの攻撃は喰い止められているが、それも辛うじてのようで、予備の銃弾すら底を突きそうだという悲痛な声が聞こえた。それに応じるように、こんな不利な状況でも、持ち場である管理室から離れられない護衛兼監視役のユネは不満をぶつけている。
悲喜こもごも、状況は違えど必死にダムを守り抜こうとしている。
ヒデは那由他に目を向ける。
「あの日、あの時、黎裔に何をしに来た。壁の向こう側の人間はいつだってそうだ。俺たちを知ろうともしないくせに講釈だけは垂れ、常識とやらを押し付けては裔民を蔑む」
軍刀をはじき返した那由他は、その衝撃を利用して数歩後退して円月輪を投げつける。ヒデは先ほどの攻撃パターンから動きを推測して、今度はすべてをかわし叩き落していく。
「俺たちが何をしたっていうんだ」
「それなら、外と比べずに大人しく壁の中だけで生きてればよかったんじゃないですか。変わらない日常に溺れていれば、こんな風に戦わなくても済んだはずです」
「お前、自分が何を言ってるか、わかってるのか」
先ほどまで威勢の良かった那由他が動きを止め、ぽつりと力なくつぶやいた。
「確かに俺たちは地べたを這いずって生きるしかない人生だ。それ以上でもそれ以下でもない、同じ毎日の繰り返し。登りきれもしない高い壁、届きもしない青い空、そんな世界しか見られない井の中の蛙のほうが幸せだと言うのか。なら、お前に問う」
那由他が纏っている陰鬱な空気は一層濃くなり、どす黒く渦を巻いている。顔は覇気を失った病的な青白さで、先ほどまでは雄弁に蜉蒼の偉大さを物語っていた瞳からも光が消えた。
そこに立っているのは「蜉蒼の那由他」ではない、ただ一人の青年だった。
「死の淵に立つ人間を救える唯一のものは何だと思う」
那由他の言葉が突き刺さる。
阿清秀が死の淵に立ったとき、救いなどは何もなかった。信じられるものはなく、自分が歩んできた道、これから歩む道はすべてが暗闇に閉ざされていた。思考は停止し、徐々に膨らむ「死」の一文字に支配されていった。綱渡りのように毎日をギリギリのところで踏みとどまっていたが、何かが決壊したとき、遂に「最善」を選ぼうとした。
そんな時、見計らいでもしたかのように現れたのが既死軍のリヤとジュダイだった。
もし那由他の問いに答えるとしたら、それは「死」だ。
すべてを無に帰す魔法で、すべてを無かったことにできる。今こうして既死軍として生きている時間は、死後の人生だ。すべてを無かったことにはできないが、少なくとも阿清秀は死んで救われた。
だが、そんな死生観を吐露するわけにはいかない。口にすれば脆弱な部分に付け込まれ利用されるだけだ。
「答えは出てるって顔してるのに、教えてはくれないんだな」
那由他は再び円月輪を両手に取り双剣のように攻撃を始める。円月輪は円状になっているため刃が直線的でもなければ、刀身が長いわけでもない。軍刀や短刀ならばちょうどいい間合いもわかりきっているが、思ったよりも近い距離から繰り出される攻撃にヒデは感覚がつかみきれなかった。
長い前髪の隙間からから時折見える那由他の切れ長で細い目は相変わらず黒い渦が巻いているようだった。しかし、わずかに光が戻ったように見えた。距離が近い分、刃がぶつかる金属音に紛れながらも那由他の声がはっきりと聞こえた。
「それなら、教えてやる。死に際の人間を救うもの、それは」
その声と共に、慈多が宙を舞った。
「希望だ」
弾かれた手は稲妻が走ったようにしびれている。遠く後方で慈多が地面に落ちる音がした。軍刀を握る手を緩めたつもりはなかった。だが、まっすぐ向けられた「希望」という言葉にわずかに怯んでしまったのは事実だ。
那由他が口にした答えは正反対にも思えるものだった。死の淵に立った人間同士でも、見える景色はこんなにも違うものなのかと衝撃を受けた。どちらの答えが正しいかは問題ではない。どちらも考え抜かれた結論であり、本人にとっては選び取った答えこそが正しいものだ。
しかし、この相容れない結論こそが、那由他とは根本的な部分で一生分かり合えないのだと理解する要因となった。
「俺たち蜉蒼は儚くとも空を飛べる存在。裔民の代弁者であり、神であり、光だ。蜉蒼が戦わなければ、裔民は希望すら持てない」
すぐさまヒデは拳銃に持ち替え、銃口を那由他に向ける。
「それでもお前たちは、蜉蒼を悪だと言うのか」
「言います。たとえ裔民のためとはいえ、あなたたちには他人に危害を加える権利はありません」
「お利口な定型文だな」
内心の動揺を悟られるわけにはいかないと、ヒデは大きく一つ息を吸った。
走り出した那由他は天端の手すりに飛び乗ったかと思うと、それを踏み台に更に高く飛ぶ。自重で落ちる勢いを利用して、今までとは比べ物にならない速度で円月輪をヒデに投げつける。軌道は弧を描かず、真上から直線的にヒデを襲う。広範囲にわたって雨のように降り注ぐ円月輪は避けられたとしても完全に無傷では済まない。運よく冷たい風が吹き付け、わずかに落下地点をずらしたが、それでもまだ射程圏内にいることに変わりはない。
ある程度の負傷を覚悟したところで、突如、勢いを失った円月輪が牡丹雪のように落ち始めた。
「大事にしろって言っただろ」
ヒデに慈多を手渡し、ジュダイは刀を構える。その横顔は、拭われてはいるが血の跡が残っている。無事だったのかというヒデの驚きを察してか、ジュダイは那由他を睨んだまま口を開く。
「蜉蒼っていうか、蜉蒼の後ろにあるものと俺は戦わなくちゃいけないみたいだ。まだ死ねない」