173話 嚆矢(こうし)
軋んでも、歯車は回る。
再び山中に静寂が戻った。誰の弾丸が命中したのかはわからないが、全ての航空機は撃ち落とされた。全員が持ち場に戻り、次なる攻撃に備える。
先ほどまでは緩やかな空気を纏っていたルワですら無駄な無線を飛ばすこともなく、拳銃を手に静かに息をしていた。
予告されていた時間は刻一刻と迫ってくる。偵察なのか威嚇なのか、攻撃とは呼べない先ほどの出来事があったからには、蜉蒼は必ず現れる。ダムを取り囲む山を下って来るだろうと言うのがケイの考えだ。背の高い常緑樹が生い茂り、身を隠すには打ってつけの環境だ。
一陣の風が吹き抜け、木の葉が音を立ててざわついた。風に誘われるようにヒデは視線をそちら側へ向ける。
『さあ、始めようか』
誰とも判別のつかない声が耳元で笑った。
それと同時に木々の間を縫って現れたのは、蜉蒼に使われている人間たちだった。警戒範囲は当然森にも至っていたが、それよりも遥か遠くから進軍にも似た気持ちで歩みを進めてきたのだろう。相手は蜉蒼にかき集められた戦闘の素人とはいえ、数が集まればそれなりの戦力にはなる。
ダム全体が見渡しやすい場所のヒデは司令であるケイとイチに状況を伝える。自分がいる天端を境にまるで世界が違うかのような光景が広がっている。これから血飛沫舞う戦場と、悠々とした穏やかな景色だ。
「蜉蒼です。貯水池周りの歩道全体的にいますが、若干ヤンたちがいる方が多いです。川の方にはいません」
『カメラで見ている。各自、持ち場を離れるな。那由他は』
『俺は見当たらない』
ヤンを中心にした円のように人が吹き飛ばされていくのが遠くに見えた。砂糖に群がる蟻のような敵を鞭で軽やかになぎ倒していく。
イチからの問いかけにそれぞれから返事があるも、那由他はまだ誰の目にも映っていない。いつも通りであれば、那由他は赤い羽織を翻している。燻ぶった色を纏った配下の中に混ざっていれば嫌でも目を引く。今ではなく、きっと疲弊しきったところに現れるつもりなのだろう。
『見つけんの無理! 多すぎる』
慌てたようなルワの声に、ヤンが小さく「役に立たねぇな」と呟くのが聞こえた。だが、実際ルワの元には他よりも多くの黒山が築かれている。ルワの担当場所は貯水池周りの歩道の中でもダムを制御している管理室に最も近い。狙われて当然だ。
ヒデは手すりに立ち、弓矢を引き絞る。
「ルワ、もっと左に寄ってください。助けます」
『左ってどっち!?』
「池側です」
『了解!』
そう言うとルワはじりじりと移動を始める。次々に襲いかかる敵を切り捨てては行くが、数に押されて思うように動けないらしかった。
急繕いの協定で意思疎通がすんなりいくとは思っていなかったが、ロイヤル・カーテスも伊達に場数を踏んでいるわけではなさそうだった。ルワはちらりとヒデの位置を確認しただけで、細かい指示を出されなくても希望通りの場所に移動した。
『ちゃんと助けてくれよ!』
ヒデの返事よりも早く、山側に群がっていた数人が一本の矢で串のように貫かれた。援護は二本、三本と続き、光線かのごとき軌道を描く。思いもよらない方向からの隙のない攻撃に一瞬敵の動きは驚きで鈍くなる。そこをルワは見逃しはしなかった。
軍刀を構えているのは、さっきまで泣き言を言っていたルワではなく、王としてのルワだった。
ヒデから見たルワの印象は、強いことは認めるが、あまり非情にもなれない詰めが甘い人物というものだった。その性格のお陰で今まで命拾いしたこともあるが、共に戦うとなればその甘さは不利に思えた。しかし、水面に浮遊している人間から広がっていく赤いさざめきがその印象を変えた。
「助けました。あとはお願いします」
『任せろ! 数で俺に勝とうなんて百年早いんだよ!』
灰色の軍服は血を吸って徐々に黒く変色していく。歩道から水面に何本も垂れた赤い道はじわりと水と交わり、やがて色をなくした。
程なくして軍刀を鞘に納めたルワは地面に落ちた赤く染まった矢を拾い、後で返してやろうとベルトに差し込んだ。矢の本数が多くないことは今までの経験で知っていた。そのわずかな攻撃手段を自分のために割いてくれた感謝のつもりだった。
毅然とした口調でルワは無線に呼びかける。
『こちらルワ。手が空いたからどこにでも助けに行く』
『お前らばっかり戦っててズルいんだよ! 何でこの僕が見張りなんだよ!』
先に反応したのは、やはりロイヤル・カーテスの面々だった。既死軍も同じ無線を使っていることは当然知っているはずだが、いつも通りの様子で話を続けている。
『ノーフとディスです。こちら下流はのどかなもんです』
『レナ、ケガしてない?』
『大丈夫だよ! ありがとう。私、ルワの対岸にいるんだけど、ほとんど来なかったから応援してただけだし。ルワ、聞こえてた?』
『全然。もっと腹から声出してくれよ』
『女王のくせに援護にも行かないで、何で応援してるんだよ』
『ルワならあれぐらい一人で大丈夫だもんね』
『いや、ヒデが助けてくれた。見えてただろ』
『既死軍に援護されるなんて、恥ずかしいんだよ』
『それはユネに同意ですね』
人一倍働いたというのに集中砲火を受けそうになっているルワは慌てて話題を既死軍に振った。さっきの威風堂々とした空気は既にどこかへ風に吹かれて行ってしまったようだ。
『ところで、既死軍のほうは大丈夫か?』
『現時点では片付いている。以上』
長々と会話をしていたロイヤル・カーテスに対し、ヤンからの返答は実に簡潔なものだった。
報告通り、さっきまでそこかしこにいた敵も今は姿が見えない。山に引き返した者も少しはいるだろうが、ほとんどは地面か水面に突っ伏している。
「那由他が現れた様子はありません。任務は続行しますか」
周囲を見回したヒデは再び指示を仰いだ。少しぐらいは希望を持ってもいいだろうと、返事がわかりきった質問をしてみたが、すぐさま予想通りの「続行する」と伝える電子音声が聞こえた。
やはり那由他は必ず現れるというのが全員の意見だった。その場合は再び全域に敵を差し向け、自分に向けられる敵意を分散するだろう。より苛烈な戦いが繰り広げられるのは想像に難くない。
各自次の戦いに備えておくようにという言いつけを守り、ヒデは監視体制に戻った。山並みや青空は変わらないが、視線を落とすと粗末なぼろきれを纏った男たちが折り重なっている。自分を鼓舞するような声を上げていたのに、今は無言でじっとしているのは何度見ても不気味だった。
黎裔で戦ったときも、満足な武器すら与えられていないのに果敢に挑んでくる裔民たちを何人も見た。蜉蒼の洗脳と言ってしまえばそれまでだが、命を賭してでも守りたいものがあるのかもしれない。国から存在を消された裔民でも人間であることに変わりはないのだと、生まれを不憫に思った。
再戦に向けて死体の山を池に蹴り落としているヤンを眺めていると、見慣れた笑顔でルワが走ってやってきた。こうして直接話せる距離まで近づくのは今日の顔合わせ代わりの作戦会議以来だった。
「さっきはありがとな!」
「どういたしましてだけど、それを言いに?」
「いや、これ返しに来た」
ルワの手を追うと、軍刀のように自分の矢がベルトに挟まれているのが目に入った。一本ずつ丁寧に引き抜き、手渡していく。
「一応拭いたから、脂で滑るようなことはないと思う」
「ありがとう。でも、どうしてわざわざ」
「あんまり持ってないんだろ。銃弾なくて焦る気持ちは俺もわかるからさ」
「知ってくれてたのは有難いです。今は」
今は、という時間を限定した言葉にルワは噛み殺したように笑う。
「俺はこのままヒデが仲間になってくれたら嬉しいけどな。欠番もいるし、どうだ、来ないか」
「断られるのわかってて、何で誘うんですか」
「押せばどうにかなるかなって」
「なりません」
「じゃあ、引いたら?」
「押しても引いてもダメです。既死軍を裏切るつもりはありません」
「だよな~」
今度は口を尖らせたルワだったが、すぐに気を取り直していつもの表情になる。
「けど、やっぱり仲間だと心強いな。次も頼んだ」
「自分でどうにかできるくせに」
「王様は支えられてこそ意味がある。支えてくれる人間たちがいるから王を名乗れてるってもんだ」
少し呆れはしたが、支えられているという自覚があるのは強い信頼関係の証であるように思えた。
ロイヤル・カーテスと手を組んだのは共通の敵である蜉蒼を倒すためで、ケイやイチが言っていた通り、単純な利害の一致でしかない。そうは言っても、こうして話していると、その理由だけで歩み寄りを拒んでしまうのも勿体ないように感じる。昨日の敵は今日の友とはよく言ったもので、人間関係とは日々移ろいゆくものだ。だが、移ろうならば逆もまた然りだ。
ヒデは一歩下がり、矢を筒にしまった。
「じゃ、俺、戻るから。今、俺たちだけの無線でめちゃくちゃ怒られててさ、持ち場離れてることについて。ユネとレナがキレてて怖いんだよ」
視線の動きにつられてヒデが振り向くと、離れたところからレナがこちらを見ていた。口元までははっきりわからないが、概ねルワの言っている通りに動いているのだろう。
「大変ですね」
「まぁ持ち場離れてる俺が悪いし」
あっけらかんと笑ったルワは来たときよりも速く走って持ち場へと戻っていった。
一人になったヒデは手すりに座って空を見上げ、大自然の中にぽつんとあるダムに喧噪は似合わないなと息をついた。