167話 激発
言葉を、噛み殺せ。
二人が去った後、物音を聞きつけたセンが恐る恐る診察室を覗いた。ヤヨイは渋々床に散らばったガラス片を拾っていたが、人影に気付きそちらに顔を向けた。
「ガラス落ちてるから気を付けろよ」
「ほうき持って来ますね」
「そうだな」
しばらくして、センがほうきとちりとりを手に戻って来た。片づけを手伝おうとヤヨイに近づくと、頬に一直線の切り傷があった。
「ヤヨイさん、ここ、血が出てます」
指された頬を拭うと、既に乾いた血がぽろぽろと剥がれるようにして落ちた。棚に叩きつけられた拍子に切ってしまったのかもしれない。既に痛みも感じなくなっていた。
「さっきの声、ミヤさんですか」
「そうだな」
「シドさんのことですよね」
「そうだな」
「怒るんですね、ミヤさんって」
「そうだな」
それからしばらくは、ちりとりに集められたガラスが立てるカチャカチャという音だけが静かに鳴っていた。大方集め終わったところでヤヨイはちりとりをセンに預け、自分の椅子に座る。
「聞こえてたか」
「はい、少しだけですけど」
目の前に立つセンはどうしたらいいのかわからず、掃除道具を持ったまま直立不動で姿勢を正して聞いている。
「弱ってるやつが求めるのは、どうやら慈愛ってものらしい。だが、医者っていうのはな、相手に現実を突き付けるのが仕事だ。そんな下らない情に絆されてる暇なんてない。俺たちの思想を納得させるためには、最善の道を間違いなく選び取って、黙らせるしかない。それでも、既死軍は俺もお前も含めて、イカれた連中の集まりだ。時には罵声も浴びせられるし、殴られもする」
センにはヤヨイが既死軍に何年いて、どんな経験をしてきたかは知る由もない。共に暮らし始めて季節は一周したが、ヤヨイは多くを語らない。こんなに話すとは、先ほどの出来事に何かを思ったらしいと、心の内を想像してみた。
渋い表情をしたヤヨイは続ける。
「ミヤはその典型で、全てが暴力で解決できると思ってる一番のイカれ野郎だ。ケイも中立に見えてミヤの肩しか持たない盲目の馬鹿だ。ケイが今回止めに来たのは意外だったが、きっと俺じゃなくてこの部屋の精密機器とかの方を心配してきたんだろうな。あいつらのことを、いや、既死軍の人間を悪く言おうと思えばいくらでも言える。全員どこかしらのネジがぶっ飛んでる」
今の誘に限らず、かつて誘だった宿家親にもヤヨイには苦い思い出がある。誰もができるなら関わりたくないと思っている相手だが、ヤヨイにはヤヨイなりに受け継いできた信念があった。センにも伝えていかなければならない。
ヤヨイは少し視線を上げ、センを見つめる。
「だが、毒は毒を以て制すとも言う。普通の思考回路では太刀打ちできないからこそ、俺たちがいる。覚えておけ。俺たちがイカれ野郎どもと戦える唯一の武器は、正しい知識。それだけだ」
「わかりました。努力します」
そう頷いたセンは掃除道具を手に部屋を出た。ヤヨイは白衣の胸ポケットからぐしゃぐしゃになった箱を取り出し、たばこに火をつけた。
「トキさんなら、ミヤに何て言った。きっと、同じ言葉だったよな」
閉じた瞼の裏にはいたずらっぽく笑っている顔が浮かんだ。肯定も否定もしないときに、よくこの表情をしていたように記憶している。
頬の傷が今更痛んだような気がした。
早足で二、三歩ほど前を歩くケイは、よく見ればこの季節には不釣り合いの薄着で足元も裸足のままだ。一触即発の雰囲気だった会話を聞いて飛び出して来たのが容易に想像できた。口論をしたはしたが、わざわざケイが止めに来るほどのことでもない。
ミヤはその後ろ姿だけで、ケイが自分に対して憤りを感じていることを理解した。ケイは強い言葉での忠告や無自覚な嫌味を言いはするが、どちらかといえば感情は抑え込む性格で、ここまで怒りを露わにしている姿を見ることは滅多にない。最近の数年を思い返してみても、片手でも多いぐらいだ。ましてや、その矛先が自分に向かっているなど夢でも見ているのかと思うほどだった。
「ヤヨイはあの性格だ。いちいち言い方を論って怒る必要なんてない」
少し荒い口調のケイは立ち止まって振り返り、まくしたてるように続ける。
「優しい嘘でも望んでたのか? 慰めとか同情が欲しかったのか? 違うだろ。それに、単刀直入に言えって言ったのはミヤだ。なのに、何で」
「こんなところでする話じゃないだろ」
「いいや。今、ここでする。ミヤは何にもわかってない」
「言いたいなら勝手に言ってろ。お前は何でそんなに怒ってるんだ」
確かに今思えば手を出したのは大人げない行動だったかもしれない。しかし、これはヤヨイとの問題であって、ケイにとやかく言われる筋合いはない。
滅多に怒らない人間が怒ると碌なことにならない。それならさっさと別れて頭を冷やしたほうがお互いのためだ。そう判断したミヤは鬱陶しそうな表情でケイの横を通り過ぎ、自分の宿に足を向ける。
それでも、無視されたからといって、ケイもおいそれと引き下がるわけにはいかなかった。スーツの裾を掴んで無理矢理引き留めようとしたが、それぐらいで止まるはずもなく、ミヤは掴まれたジャケットを脱ぎ捨ててそのまま歩いていく。ケイは慌ててミヤの前に立ち、行く手を阻んだ。少し走っただけで冷たい地面と小石が足裏に痛みを伝える。
最早、ケイ自身にも何がきっかけでここまで心を掻き乱され、ミヤに感情をぶつけているのかは、わからなくなっていた。誰を擁護して、誰を責めたいのかすら曖昧だ。
二人のケンカはすぐにでも止めなければ、診察室の高額な機器や薬品がお釈迦になるかもしれない。飛び出したのはそんな薄っぺらい理由だったようにも思うが、ヤヨイの宿に着くまでのたった数分にも満たない時間に、胸の内は変化していった。まずはヤヨイの影の努力を知らない無神経なミヤに腹が立った。
「ヤヨイはああ言ってたけど。けど、ヤヨイだって」
「ヤヨイも馬鹿じゃない。治療法は当然調べ尽くした。その結果、治療法はあるが、誘として生きていくのは現実的ではないと判断した。ヤヨイの言葉を要約すれば、こうだろ。わざわざケイに言われなくてもわかってる」
「じゃあ、何で」
縋るような目のケイを見たミヤは硬く瞼を閉じて眉間にしわを寄せた。
いつも淡々としているくせに、シドとの話が絡むとケイはいやに感情的になるように思えた。その理由をいくつか考えてみたが、どれも決定打には欠けるもので、納得のできる答えは見つからなかった。そもそも、見えもしない他人の感情を想像してみたところで、何が正解かなどわかるはずもない。
ミヤは諦めたように小さくため息をつく。
「大人気なかったのは認めよう。確かに俺はヤヨイの言うとおり、死んだやつらにも遺されたやつらにも、何とも思わなかった。それを自分だけ、というのは都合が良すぎたな。俺が悪かった」
思いもよらなかった素直な謝罪と、なだめるような口調にケイは目を瞬かせる。沸騰しきっていた怒りが嘘のように冷めていく。
そこで、ケイは怒りの正体に気が付いた。それは怒りではなく、悲しみだった。
ミヤが立たされているのは八方塞がりの断崖絶壁だ。誘としての道を絶たれた今、シドに残されたのは元帥の跡継ぎとして既死軍を去る未来だけだが、それは当然望んでいない。ミヤが親として助けてやれることも多くはない。そんなことはミヤ自身が痛いほどわかっているだろう。
進退窮まったミヤを見ているのが辛く、苦しくなった。だが、そんな感情を見せるわけにはいかない。悲しみを抑え込むためには、もっと強く激しい感情が必要だった。その結果、現れたのが怒りだった。
しかし、急繕いの仮面をかぶってみても、ミヤには容易に見破られてしまったようだ。
「だからそんな顔をするな。ケイはそんな顔を俺に見せるために飛んで来たのか」
ミヤはきまりが悪そうにふいと視線を外しながらスーツを取り返した。
「シドについてはあとからヤヨイにちゃんと聞いておく。それよりも、お前とはフソウの話がしたい」
「わかった」
先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、覇気のないケイの横を再び通り過ぎ、ミヤは前を歩き出す。少し進んだかと思ったら、急に立ち止まって踵を返した。
「なぁ、ケイ」
「何」
ケイはミヤを見上げる。
「お前は優柔不断で、本来なら既死軍の全決定権を握るような性格ではない。いつも清水の舞台から飛び降りる気持ちで誘を任務に行かせて、それの全責任を背負って、さぞ息苦しいだろう。書類一枚で人を殺せる権限なんて、本当は望んでないんだろ」
何も言わず、ケイはただミヤを見つめる。
「だが、その責務を負わせたのは、人を殺せと命じたのは、他でもないこの俺だ。それでも俺についてきた人生は、まだ後悔するに至らないのか」
「するわけないよ」
望んだとおりの返事がすぐに返って来た。さっきまでの表情とは打って変わって、思惑の見え透いた問いかけにケイは少し笑っている。
「ミヤは、そんなに俺の気持ちを確認しないと不安なのか? 俺はミヤと心中する。地獄の果てまで、一緒に行こうよ」
横に並んだケイは宿に向かって歩き始めた。ミヤもジャケットを羽織りながら歩みを揃える。
既死軍以前から共に歩いていた人間たちは既に冷たい土の下に眠っている。残されたのは頭主とこの二人だけだ。それならば、歩みが止まるのも同じ瞬間だ。
「地獄と言っても、火車は一人乗りじゃないのか」
「じゃあ、三途の川で待ってて」
「死んだ後のことは知らん」
いつも通りの表情で二人はケイの宿へと歩いていく。