166話 戮力
その想いは、権利か義務か。
ミヤが舌打ちをしながら溜まりに溜まった軍の書類仕事をこなしている最中、急にケイから「面倒臭いことになった」と無線が入った。この忙しいときに自分の手を煩わせるとは何事かと、怒りの矛先を気の利かない軍人どもからケイに向けてみる。キリのいいところまで終わらせてから、と一旦は思ったが、すぐに席を立った。
陸軍本部はどこで誰に話を聞かれているか、わかったものではない。いちばん人の寄りつかない安全なところといえば元帥の執務室だ。今なら誰もいないはずだと入ってみると、案の定がらんとしていた。いつも自分が座るソファに背中を預けると、沈み込むような感覚に思わず目を閉じて眠ってしまいそうになる。
「何だ。俺は忙しいんだ」
『蜉蒼だ。堰堤を爆破するってさ』
「言わせてろ」
犯行予告を送って来るのも、大仰なことを言うのも、今に始まったことではない。蜉蒼の生活圏である黎裔の大火から一年近く経ち、それなりに立ち直りはしたのだろうが、ダムを爆破するほど復活したとは到底思えなかった。実際、今までも予告状を送るだけ送って、何も起きなかったということは枚挙にいとまがない。
すぐさま無線を切ろうとしたが、自分のデスクに戻ったところで待っているのは山のような書類だ。それなら息抜きに話でも聞いてやるかと思い直した。
「で、どこのだ」
『聞いてくれるのか?』
「お前が話しかけて来たんだろ」
それなら、とケイは話し始める。
『予告してきた場所は貫流水力発電所。爆破されたところで首都圏に大した影響はないが、貫流は帝国の中でいちばん市街地が近い堰堤だ。決壊すれば三、四時間で水没する』
「だが、発電所は軍の管理下だ。蜉蒼が入り込めるほど警備が手薄とも思えん。買収されてる人間がいるっていうなら粛清してやるが、俺を呼んだのはそのためか?」
『いや、そうじゃない。予告状が届いたってことはもう手は打たれてるはずだ。ミヤには、軍を動かしてほしい。動ける誘は現時点で八人。貫流はそこまで大きいわけじゃないけど、流石に既死軍だけでどうにかできる規模でもない』
「そんなに少ないのか」
『シドとキョウは外してる。けど、この規模の予告にシドを行かせないの、頭主さまはどう思うだろうな』
「別の任務に出てる、でいいだろ。任務は適当にでっち上げろ」
『見境なくなってきたな』
耳元から呆れながらも悪い顔をしているような笑い声が聞こえた。
嘘を嘘で塗り固めていくのは処世術といえば聞こえはいい。だが、その場しのぎが永遠に通用するような相手ではない。いつか瓦解するのは目に見えている。
ミヤのついた嘘を守り抜くと決めたのは自分だが、不安定な足場に立っているようでケイは気が気ではなかった。
「軍を動かすことはできるが、それで『何もありませんでした』じゃ元帥の信用が地に落ちる。それは俺としては認められない。よって、その案は却下だ」
『そうだと思った』
耳元でケイのため息が小さく聞こえた。長年ともに過ごしていればお互いの思考はそれなりに読み取れる。だとしても、わかりやすい落胆の声にミヤは不愉快そうに前髪を掻き上げた。
「しかし、爆破なんかしなくても帝国民を大量に殺したいなら水源に毒でも撒けばいい話だ。ド派手に景気よく、が信条だったとしても、わざわざ大量の火薬を手に入れて、ご苦労なことだな。何の得があってそんなことをするのか俺には理解できん」
『蜉蒼にとって大切なのは損得じゃない。ただ、自分たちを見棄てた帝国や既死軍が慌てふためくのが見たいだけだろ。俺に言わせればタチの悪い愉快犯だ』
「愉快犯にタチがいいも悪いもない。とにかく、軍は動かさない」
この話は終わりだと言わんばかりにミヤは腰を上げた。しかし、ケイの発した名前に、すぐに座り直すことになった。
『それなら、ロイヤル・カーテスはどうだ』
「夏に交渉は決裂している」
『だが、恐らくこの予告状はロイヤル・カーテスにも届いている。軍が出て来ない以上、自由に動けるのは俺たちしかいない。蜉蒼が目障りなのはどちらも同じだ』
「この前殺された奴がいただろ。こっちからの提案を快諾するわけがない」
『そんなの、やってみないとわからない。夏とは状況が変わってる可能性もある』
もし目の前にケイがいたら、曇りのない瞳で真っ直ぐに自分を見つめていただろう。頑固なのはお互い様かとミヤは一拍置いて諦めたように答える。
「全決定権はお前にある。進言するだけはしてやろう」
『よろしく頼んだ。それと、別件だけど』
まだ何かあるのかとため息の一つでもついてやろうかと思ったミヤだったが、別の理由で息をついた。
『ヤヨイのところ、早く行ったほうがいいよ』
「明日の朝までには行くつもりだ」
『忠告しとくと、過去最高に機嫌悪い』
「機嫌がいい日なんて見たことないだろ」
ケイは納得したように「それもそうか」と無線を切った。
ヤヨイとの約束は忘れていたわけではないが、軍を長期間留守にするわけにもいかない。だが、それを言い訳にしている部分もどこかにはあった。現実から目を背けても、何かが変わることはない。現実は現実のまま、ずっと未来まで続いている。
自分のデスクに戻ったミヤは再び短く舌打ちをした。
ミヤが陸軍本部を後にしたのは日もとっぷりと暮れたころだった。予定していた時間よりも早く出られたのはよかったが、堅洲村に着くころには朝になっている。ヤヨイもいつ寝ているのかわからない側の人間だから何時に行こうが構わないだろうが、朝から顔を見るのは気が重かった。
夕方頭主に会ったとき、ケイに言われた通り、蜉蒼の爆破予告についてロイヤル・カーテスと手を組めないかと伝えはした。頭主は自分がケイに既死軍の全決定権を与えている以上、その意見を無下にはできないようで、はっきりとは断らなかった。しかし賛成していたわけでもない。やはり皇と話したときのことが引っかかっているのだろう。それに、シドの負傷については伏せているが、ヴァルエを倒したことは報告済みだ。夏のヴァンに引き続き、二人も殺されたとあってはロイヤル・カーテスを率いる皇としてもいい顔をしないのは目に見えている。
ケイにも様々な思惑があってロイヤル・カーテスとの共闘を提言したのだろうが、現状では机上の空論で終わるに違いない。
そんなことを考えていると、遠いはずだった堅洲村にはあっという間についてしまった。足取りは重いくせに、そういう時に限って距離というのは縮まるものだ。
珍しく電気の消えているヤヨイの宿に忍び込むように入り、シドが寝ている病室へと向かった。まだ朝焼けというほどでもない日光が室内をわずかに明るくしている。
ベッドの横にある簡素な丸椅子に座り、その顔を眺める。
数日ぶりに見たシドは、眠ったままで規則正しい呼吸をしている。その姿にミヤは柄にもなく安心した。傍にいてやると言ったのに、ここへ来たのはそれ以来だった。シドをこんな病室に閉じ込めた原因である相楽の尋問と始末、溜まっていた軍の仕事、言い訳はいくらでもあるが、しばらく離れていたことに多少の罪悪感を覚えた。
「あとで行くとは聞いたが、こんなに日を跨ぐとは聞いてねぇな」
気が抜けたのか、いつの間にか眠っていたらしい。ヤヨイの声にはっと顔を上げた。室内はすっかり明るくなり、それなりに時間が経っていることを告げている。
「これでも急いできた」
「その割には、人様の宿で挨拶もなしにスヤスヤおねんねしてたみたいだけどな」
「お前も寝てたんだろ」
「待ちくたびれただけだ。さっさと診察室へ来い」
入り口の柱に寄りかかっていたヤヨイはさっさと踵を返した。ミヤもすぐあとに続き、診察室のガラス戸を閉める。
「単刀直入がいいか、遠回しがいいか、選ばしてやる」
ヤヨイは椅子に座ることもなく、振り返った。
「単刀直入に言え」
「誘には二度と戻れない」
何か一言でも言い返してやりたいが、頭が真っ白になり何も出て来なかった。
「絶句、ってやつか。そんなに、あの身体に望みがあるように見えてたか?」
見慣れたヤヨイの嘲笑が今だけは逆鱗に触れた。手が出そうになるのを必死にこらえる。
「それが、シドに対する態度か」
「この前は宿家親を名乗る資格はないって言ったくせに、今は宿家親気取りか? どっちつかずは一番よくない」
「そういうことを俺は言ってるんじゃない。既死軍のために負傷した人間に対する態度がそれか、と言っているんだ」
明らかに激昂しているミヤをヤヨイは再び鼻で笑う。
「既死軍の誰が死んでも顔色一つ変えなかったお前に、そんなことを言う権利は無い」
遂にミヤはヤヨイの胸倉を掴み、棚にその身体を叩きつけた。その衝撃で薬品が入ったガラス瓶や器具がバラバラと落ち、音を立てて割れる。だが、平然とヤヨイは続ける。
「生きてるだけじゃ不満だったか? そもそも、いつも言ってるだろ。俺は治療になんて興味ねぇってな。人間如きが命を弄繰り回して、神にでもなったつもりか?」
「その言葉、トキが死んだ瞬間でも言えたのか」
久しぶりに聞いた名前が一瞬でヤヨイの顔から笑顔を消した。いつになく低い声で答える。
「言えなかった。だから、俺はどうにもならないって悟った。生きるってのは難しいんだよ。死ぬより、何倍もな。神はいないし、人間には限界がある。俺は人間だ」
ミヤが口を開こうとしたところで、ガラス戸が勢いよく音を立てた。そこではケイがヤヨイを制するように睨んでいた。
「そこまでだ。穏便に済ませられないなら、俺から話す。ミヤは俺のところに来てくれ」