161話 切なる
花も折らず、実も取らず。
夜空に星々が煌めくころ、薄暗いケイの部屋の襖を息を切らしたスーツ姿のミヤが勢いよく開けた。こんなに慌てた様子を見せるのは初めてだった。軍での仕事を終わらせたのか放り出したのか、全てを後回しにして堅洲村へと帰って来た。
その理由はわかっている。ケイはゆっくりとその表情を見た。
ヤンからケイへ「シドが負傷した」と連絡があったのが昼過ぎで、そこからヤヨイをルキの事務所へ向かわせて簡易的な治療が終わったのが日も暮れたころだった。
任務で誘がケガをすること自体は珍しくもない。しかし、わざわざケイがミヤに連絡を入れたのにはわけがあった。
「シドは、生きてるのか」
「生きてる」
その一言に、ミヤは大きく息を吐き出した。緊張の糸が一気に切れたようで、廊下にそのまま力なくしゃがみ込む。
「それで、ケイ、お前はもう、書いたのか」
「いや、まだ、途中だけど」
もう一度息を吐いて呼吸を整えたミヤは両手で前髪を後ろに流していつも通りの表情を作り、立ち上がった。静かに襖を閉めてケイの隣に座り、ネクタイを緩めながら書きかけの報告書に目を向けた。
まだシドが堅洲村へ帰って来ていないことをミヤは当然知っていた。それでも、ケイの元へ飛んで来たのはこの報告書を確認するためだった。
任務の前後にはケイがミヤを介して頭主に計画書と報告書を送っている。それに関して口出しされることはないに等しいが、今回は訳が違った。頭主の実子であり、跡継ぎであるシドが大ケガをした。ルキの事務所で治療にあたっているヤヨイからはただ「生きている」という連絡しか受けていない今の状況では、まだいつ誘に復帰できるかなどわかるはずもない。最悪の場合もあり得る。
「シドのことは書くな。わかるだろ、その一文でシドがどうなるか」
ミヤがケイに伝えたいのはこの一言だった。
今から一年ほど前、ちょうど年を跨ぐ頃、頭主はシドを正式な跡継ぎとして自分の手元に戻そうとした。それは既死軍での人生の終わりを意味する。シドは頑なに拒んだが、頭主の前にそんな意思など考慮されるはずもなく、淡々と手続きが進められていた。腹心の部下であるミヤも頭主を裏切るわけにはいかなかった。
結局はケイが死ぬ覚悟で頭主に頭を下げ、「延期」することとなったが、延期である以上、何かをきっかけにその話が再燃することは全員がわかっていた。
もしかすると、このケガがそのきっかけになるのかもしれない。
あのときは言われるがまま、自分の感情を押し殺して従順なまでに頭主に従っていたミヤだったが、今回はどうも様子が違う。まさか報告するなと言われるとは、とケイは少し驚きの表情を見せた。
ミヤがシドを可愛がっていることは長年その二人を見ていればだれでもわかることだ。当然、はっきりとは口にも態度にも出さないが、その発言や行動の端々からは感じられる。
だからこそ、去年ミヤが頭主に従ったのはケイにとっては意外だった。信頼関係があるのをいいことに、何かと理由をつけて有耶無耶にするのかと思っていたが、短期間とはいえ、まさか本当に既死軍から離れさせるとは思ってもいなかった。
「散々偽造書類を作ってきたんだ。今更報告書の一枚や二枚、簡単だろ」
「もちろんやろうと思えばできる。けど、樹弥くん。俺には頭主さまに報告する義務がある。それに、今は隠せたとしてもいずれは知られることだ。年単位とはいえ、シドは頭主さまに呼び出されるし、堅洲村に来ることだってある。その時に慌てて言い訳でもするつもりか?」
「それでも、時間は稼げる。たった数日だったとしても、シドは残れる」
「もしずっと騙せたとして、その間ケガが治らなかったら? 任務に出る誘たちを見ながら、シドは何を思って過ごせばいい。きっと宿家親にはなりたがらないし、そもそもシドには務まらない。宿家親になれなかった誘がどうなったか、樹弥くんなら知ってるはずだ。そうなるぐらいなら、頭主さまのもとで」
「断る」
きっぱりとそう言い切ったミヤにケイの瞳からすっと色が消える。
「ミヤが、守りたいものって何」
二人きりの時にわざわざ「ミヤ」と呼ぶときは大概が情報統括官としての顔だった。ミヤは小さく聞こえないほどの音で舌打ちをする。こうなるとケイはいやに頑固になるきらいがある。
「俺たち既死軍は頭主さまに絶対的な忠誠を誓っている。以前、俺はそれに背いてシドを取り返した。けど、その時の俺の言い分はシドが任務に必要だから、だった。けど、今はどうだ」
「シドに誘としての価値が既にないとでも言いたそうな顔だな」
「選ばなきゃ、ミヤ。ミヤが本当に守りたいものは頭主さまなのか、シドなのか」
その真剣な眼差しに、ケイのこともいつまでも子供扱いしてしまうが、すでに自分に決断を迫れるような大人だったんだなと改めて思わせられた。
「そんなの、わざわざ禊に言われるまでもない」
裸電球だけが唯一ポツンと灯った部屋で相楽は一人項垂れていた。覚悟はしていたものの、そんなものは足元にも及ばないような永遠にも似た時間に、人間はこうも惨いことができるのかと変に感心してしまう。
ズタ袋のようなボロボロの袋で頭を覆われ、連れて来られたのがこの部屋だった。窓がないことから地下室かと思われるが、それも推測でしかない。世界から断絶されたこの空間では一体どれぐらいの時間が経ったのかはわからない。たった数分かもしれないし、数日たっているのかもしれない。もう太陽を拝む日がこないことは薄々感づいている。
かすれた目で見える範囲には男が二人いる。まだ若いのに青白い顔をしている男と、高校生ぐらいの切りそろえられた髪が特徴的な青年だった。何かを話しているようだが、耳もどうにかなってしまったようでよく聞こえない。
会話が終わり、年下の男が耳元に口を近づける。
「これから治療しますねー。染みて痛いかもしれませんけど、我慢してくださーい」
相楽にしてみれば今更、消毒液程度の痛みを「我慢してください」とは思わず口角が上がってしまうほどに滑稽な台詞だった。
「何だ、笑う気力はあるんだな」
「笑ってるんですかね? これ」
その様子を見たジンはセンに呆れながら話しかける。
「まぁ何でもいい。俺は報告がてら休ませてもらう。後は頼んだ」
センは笑顔で「しょーちしました!」とジンを送り出した。
ヤヨイのもとで見習い医師として働いているセンの担当は堅洲村の外での治療だ。誘のケガは未だにヤヨイが出向くことが多いが、尋問中にできるケガの治療はほとんどセンが担っていた。いつかは任務にも同行させたいというのがケイの考えだが、今はまだヤヨイの許可が下りない。コツコツと地道に経験を積ませるのが一番だとヤヨイは言うが、その現場がどうも生臭すぎるなとケイは苦笑いをするにとどまっていた。
センと相楽のいる地下室の上階、家具もほとんどない部屋でジンはパソコンのキーボードを打っていた。先ほど録音していた音声を再生しながら、一言一句漏らさないように文字をかき起こしていく。自動で音声データを文字にしてくれるか試してみたが、はっきりとしない相楽の喋り方ではどうも上手くいかなかった。面倒くさい作業だが、これも含めての尋問だ。
しばらく作業を進めたところで、血のついた道具たちがそのままになっていることをふと思い出した。隣の部屋にある浴室ともシャワー室とも言えないような洗い場で簡単にぬめりをシャワーで洗い流していく。道具は丁寧に手入れしておかないとな、などと考えていると、ケイから無線が入った。
『どれぐらい吐いた』
「いくつか情報は手に入れました。けど、それが相楽の脳内にある何割かまでかは流石にわかりません」
『殺すのは惜しいか』
「そうですね。まだまだ聞き出せると思います。けど、手っ取り早く自白剤でいいんじゃないですか」
『最終的にはそうなるんだが、まぁ、まだ廃人になられたら困るもんでな』
「やっぱり廃人傷めつけても、何となく手応えないですもんね」
ケイは思いもよらなかった不穏な返答に思わず笑い出した。
『いや、そういう訳じゃない。そのうちミヤが行くから、それまではってことだ』
どうして笑われたのか納得したようで、ジンも小さく笑みをこぼした。
「ミヤさんがわざわざここへ来るなんて、相当な恨みがありそうですね。じゃあ、それまでにもう少し聞き出しておきます」
『そうだな。ちなみにだが、殺してくれって言ってたか?』
「何回か呟いてましたね」
『それなら、まだしばらくミヤには行かせられないな。希望している内は殺せない』
「ケイさんも十分、尋問する素質ありますよ」
『お断りだ。力仕事には向いてない』
「俺は情報統括官のケイさんしか知りませんけど、誘のときは強かったって聞いてます」
『何年前の話だ。もう情報統括官のほうが二倍近くやってる』
「一度覚えたことは忘れませんよ。心も、身体も」
『そうは言ってもな。とにかく、しばらくはジンが情報を聞き出してくれ』
「わかりました。一回目の報告書ももうすぐ書き終わります」
『よろしく頼んだ』
無線を切ったケイは一番大きな画面に尋問室の映像を映し出す。センが甲斐甲斐しく手当てをしている。またすぐにジンに傷つけられはするが、ミヤが行くまでは生き延びさせなければならない。それに、殺してくれと言われてその望みを叶えてやるのも馬鹿らしい。
先ほどまで隣にいたミヤの言葉を噛み締めながら、別の場所を映し出しているカメラ映像へと切り替えた。