160話 光
光のどけき、冬の日に。
ロイヤル・カーテスは去った。だが、任務はまだ終わっていない。むしろやっと厄介者がいなくなって好都合なぐらいだ。
待ってましたと言わんばかりに、ヤンは今は無きフロントガラス越しに情報屋の相楽に銃口を向けている。横で相楽を守っていた用心棒は保護対象ではなかったため、あっさりと頭を撃ち抜いていた。やはり既死軍の前では訓練された用心棒とはいえ役に立たなかったらしい。ノーフにいいように扱われていた男たちの生死は不明だったが、無言で地面に倒れているのをいいことに何発か撃ち込んでおいた。
相楽に対しても始末の許可さえ出ていれば、これほどの優勢ならさっさと任務を終わらせられるのになと、生け捕りにしろという命令の面倒くささに改めて辟易した。そういえばルキの事務所で、ヒデに「殺すなという任務はシドもヤンも苦手だ」と言われたなと小さく思い出し笑いをした。
ジンももうすぐ車で迎えに来るはずだ。あと少しで長く感じられた任務も終わる。
しかし、そんな穏やかな気持ちも束の間、近づいて来たシドを見たヤンはぎょっとする。出会った頃から変わらず長かった黒髪が半分ほどにまで短くなっている。
「シ、シド。それ、何で」
「説明は後だ」
シドも気になっているようで、髪を手で梳くように触った。それ自体は見慣れた行動なのにやはり違和感がある。
ヤンは風になびくシドの長い髪が好きだった。いかなる状況でも、我関せずとゆったり流れる時間を体現しているような黒髪に何度目を奪われてきたことだろうか。対照が際立つ真っ白な制服姿も、調和のとれた落ち着いた色の着物姿も、ずっとその背中を見てきた。
この荒んだ世界で美しい物が一つあるとしたら、それはシドの姿だった。
絶対不可侵であるかのように思っていたが、そんな聖域など存在しないのだと現実を突き付けられた気がして胸の奥がざわついた。悲しいわけでもない。悔しいわけでもない。だが、確実に心どこかが悲痛な声で苦しいと訴えている。
この感情に名前はついているのだろうか。
少し狼狽えた表情を見せたヤンなどお構いなしに、シドは相楽を車から引きずり出そうと手を伸ばした。しかし、ドアに手をかけたところでぴたりと止まった。どうも妙な感じがする。軍の人間ですら黙らせることのできる男がこんなに大人しいはずがない。ふとドアガラスの向こうに視線を落とすと、相楽の太腿には不穏なものが巻き付けられていた。形状から察するに、人ひとりぐらいなら簡単に吹き飛ばせる爆発物で、ガソリンに引火すればもっと大きな被害が出る。この大きさの不審物にヤンが気付かないはずがない。恐らくロイヤル・カーテスの庇護がなくなってから慌てて巻き付けたのだろう。それを物語るかのように、固定用のベルトは立ち上がれば自重でずり落ちてしまいそうなほど緩く見える。
既死軍を道連れに華々しく自爆する気なのだろうが、そんな見え透いた作戦に乗ってやるつもりはない。
周りに聞こえないほど小さく「借りるぞ」と呟いたシドは、ヴァルエの軍刀でまずは相楽の手に狙いを定める。相楽が覚悟を決めたとき、最初にするのは安全装置を解除する動きだ。わかりやすいその動作の直前を狙う。
殺すなとは耳が痛くなるほど言われているが、ケガをさせるなとは言われていない。この後、ジンに引き渡す手筈になっているが、どうせ待ち受けているのは「尋問」という名の手荒い取り調べだろう。そこで何が行われているかはわざわざ考えるまでもない。今、手首の一つを切り落としたところで、遅いか早いかだけの問題でしかない。
こんな人間は何も五体満足の状態で渡さなくてもいい。ケイたちも大目に見てくれるだろう。
相楽は何も正義感や国のためを思って情報屋をしているわけではない。国を動かしている人間たちが下手に出て来るという優越感を味わいながら、手っ取り早く大金を手に入れることができる。ただそれだけのために情報をかき集め、軍人や財閥の人間を強請っていただけだ。私利私欲のためと言っても過言ではない。
だからこそ、今回ルキが提示した十五万円という今までにない大金にはすぐに目が眩んだ。当然、それなりの危険は予想していたが、いくら積んでもいいから情報を買い取りたいという人間は今まで何人も見てきた。国の中枢にいる朝霧中将の情報であればなおさら、どんな手を使ってでも手に入れたいのだろうと相楽はその金額や取引方法に納得していた。
相楽は軍刀を手にした男と銃を構えている男を交互に見る。今回に限らず、捕まれば自分の身がどうなるかは十分わかっている。十中八九死んだ方がマシだと思う時間が永遠に続くに決まっている。
賭博のような人生を歩んできた相楽は遂に神に見放されるのかと最期の賭けに出た。死なば諸共、目の前にいる二人を道連れにできればそれで満足だった。
「俺が一定時間パソコンを触らないと、全てのデータが公開される設定になっているが、それでもいいのか」
『既にイチが押収、解除済みだ』
「脅しのつもりだろうが、俺には命乞いにしか聞こえないな」
ケイの無線を受けて、ヤンが笑う。ノーフももう少し待てばお望み通りの命乞いが聞けたのになと思う余裕さえあった。
シドはそんな会話を気にも留めず、ドアを開けて当初の予定通り狙いを定める。だが、いつの間にか安全装置は外されていた。相楽の横で死んでいる男が今際の際に外していたらしい。すぐさま狙いを変え、足に固定しているベルトを軍刀で切断する。
『シド、上に投げて!』
離れた場所で逃走を警戒していたヒデの声が聞こえた。言われた通り、視線を動かさずに空高く爆発物を放り投げる。
ヒデは射程内まで走った。途中でルワの攻撃を免れた矢を数本拾い、弓を引く。ヒデがシドに対してどんな行動を求めていたのか、全てを説明せずとも理解してくれていた。シドの手を離れた的は空中で止まっているかのようで、射抜くのは容易いことだった。横からの勢いを得た爆発物は飛ぶ方向を変え、そのまま矢と共に遠くの森の方へと消え去った。
爆発物の処理をヒデに任せたシドはやっと相楽を車から引きずり出そうと胸倉を掴んで顔を近づけた。だが、グイと引っ張ろうとしたところで、思いもよらなかった言葉がその手を止めた。
「お前、若いときの元帥に似てるな」
シドは目を見開く。
こんな人間の声に耳を貸す必要はない。さっさと引きずり出してジンに引き渡せば任務は終わり、堅洲村へ帰れる。もうすぐだ。早く帰って、自分が髪を伸ばしている理由やきっかけを知っているかとミヤに聞かなければならない。
堅洲村へ帰ったら、澄み渡った満天の星空とひやりとした空気の中をミヤと歩こう。射撃場に着いたらランプの明かりだけを頼りに戦いの続きでもしよう。太陽が昇る頃には滝壺へ釣りに行って、空っぽの魚籠を手に帰ってミヤに笑われよう。太陽が沈むまで寝て、それからミヤが作るいつもの美味くも不味くもない料理を食べて、また夜空の堅洲村をミヤと歩こう。
いつも通りの変わらない日常を、ずっとミヤと過ごそう。
そのためには、この目の前の不愉快な男を地面に叩きつけて任務を終わらせなければならない。だが、相楽の言葉が鎖となって全身を縛り付け、指の一本も動かせなかった。
「隠し子がいるって噂、本当だったんだな」
『はったりだ。惑わされるな』
ケイは人知れず唇を噛んだ。どこに落ち度があったのだろうか。
確かにシドは元帥の長男として戸籍に載っていた時期がある。一度は元帥の跡継ぎとして普通に育てるつもりだったが、ミヤに預けると決まった時点で「葉山志渡」に関する書類は先代の情報統括官が全て闇に葬った。たった数週間にも及ばないわずかな期間だった。自分が情報統括官を引き継いでからも、元帥に関する機密事項として何度も確認した。
だが、「葉山志渡」という人間が存在していたのは確かだ。今まで何も情報が出回っていなかったことで安心しきっていたが、存在していた以上はどこかから漏洩してもおかしくない。
やはりこの相楽は生かしてはおけないと決意を固くした。
「朝霧の情報、やはり欲しがっているのは元帥だったか」
『しっかりしろ、シド!』
「父親のために人殺しとは。とんだ親孝行だな」
『違うんだろ』
掛け合うようなケイと相楽の声がシドの脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱す。かすかに呼吸が荒くなり、手が緩んだ。こんなことで動揺している自分が滑稽だった。
そんなシドのわずかな異変を感じたヤンは相楽の肩を撃ち抜き、黙らせようと試みる。耳をつんざくような聞き慣れた発砲音と同時にケイの熱を帯びた声がした。それでシドは我に返る。
『お前は元帥の子供じゃないんだろ! なぁ、シド!』
そうだ、ケイの言う通りだ。
本当の父が元帥であることは間違いない。それは事実として認めなければならない。だが、自分が「父親」として選んだのは共に長い時間を過ごしたミヤであって、血の繋がりのある元帥ではなかったはずだ。
今、ここに立っているのは元帥のためではなく、既死軍のためだ。ケイとルキが指示した通りに任務を終わらせればそれでいい。既死軍が情報媒体を欲しがっている理由など関係ない。
「俺は、葦原中ツ帝国既死軍のシドだ」
シドは自分自身に向かってそう言うと拳を握り直した。だが、見下ろした相楽の口元は何故か笑っている。
おかしい。
何かが、おかしい。
「シド!!」
張り裂けんばかりの大声でヤンが名前を呼んでいるのが聞こえる。
見たこともないような光が眼前で炸裂した。