156話 鼎
いずれ菖蒲か、杜若。
まだ昼時の空は澄み渡り、数えられる程度の雲がこちらの気など知らずゆったりと流れに身を任せている。そんな流されるままの存在になるつもりはヤンにはなかった。
だが、上から押さえつけられてしまっては身動きが取れない。その上、先ほど助けの一矢を放ってくれたヒデからも角度的には見えない場所だ。シドもヴァルエと戦っているようで、まだこちらには気付いていない。
余裕そうな笑みを浮かべたノーフが軍靴を鳴らして近づいてくる。このままだと頭を撃ち抜かれて呆気なく死ぬだけだ。
「何と言うか、無様だね。武器も取られちゃった上に、そんな対格差ある人に押し倒されて」
「どうしたらいいか考えてるところだ。邪魔すんな」
「僕にケガをさせたこと、謝るって言うなら助けてあげないこともないけど」
「すると思うか? そんなこと」
ヤンを覗き込んだノーフはきれいな顔立ちをしていて、近くで見れば見るほど、それに腹が立った。うーんと人差し指を頬に当て、わざとらしく考えるような仕草をして見せるのも癪に障った。単純に気に入らないという感情だけで打ちのめしてやりたいと思った人間も久しぶりだ。
「命乞いってやつ、聞いてみたかっただけなんだけど、相手が悪かったみたいだね」
「お前、ムカつくって言われねぇ?」
「僕の耳には届いてないかな」
「絶対言われてるから、これからは身の振り方考えろよ」
「今から死ぬ人にそんな上から目線で物事言われたくないなぁ」
ノーフは腰を上げ、銃口を向ける。
一人でこの難局をどうにかしなければならないのは今回が初めてではない。誘として幾度も死線をかいくぐってここまで生き延びたという自負はある。黙ってやられるつもりは当然ない。
鼻血は止まったはずだが、辺りにはまだ血の臭いが充満していた。
木の上からノーフに矢を放ったヒデは避けられたことに落胆の声を小さく漏らした。ノーフが振り返りさえしなければ命中していたはずなのに、勘の鋭さなのか、ただの偶然なのか、残念な結果に終わった。しかも眼下のルワが動き出したことからすると、自分の居場所までバレてしまったらしい。
しかし、困った問題がもう一つあった。上ったはいいものの、どうやって下りたものかと数分前から頭を悩ませていた。狙撃するには打って付けの場所だが、ルワと一対一の戦いをするとなると、攻撃も防御も満足にはできない。手っ取り早く地上に降り立ちたいが、そう簡単にもいかない。
飛び降りる度胸は持ち合わせている。初めは無謀な挑戦だと思っていた樹上での移動も、やってみると案外上手くいった。そのことが今は自信になり、高さへの恐怖はそこまでない。だからこそ、このまま枝から足を離すこと自体は簡単だが、ビルの数階もある高さから降りて無傷のまま戦いに移行できるようには思えなかった。
ヒデはちょうど真下に来たルワに声を掛ける。その声ですぐにヒデを見つけたルワは久しぶりに友人と再会した時のような笑顔になり、手を振った。
「ルワ、戦う前にちょっとお願いがあるんですけど」
「何だよ」
「僕、今から飛び降りるから受け止めてくれませんか?」
眉間にしわを寄せたルワが首をかしげる。その表情は言葉を正しく理解しようと努めているように見えた。そのお願いはあまりにも意外なもので、自分たちは敵同士だということを忘れたのだろうかとさえ思えた。
だが、数秒ののち、手にしていた軍刀を鞘に納め両手のひらを開いて頭上に挙げた。武器は何も持っていないという合図だ。
「そんな簡単に俺を信用していいのか?」
「卑怯なことはしないっていうのは信じてます」
「けど、俺がわざとじゃなくても、失敗したらどうするんだよ」
「それも信じてます。ルワはいつでも正しい的確な判断をするって」
「買い被りすぎじゃね?」
「今から試せばわかりますよ」
「バカだな、ヒデは」
「ルワに言われたくないです」
二人は笑い合う。対等な立場で全力を尽くして戦うべき相手だという信頼関係がある。
それぞれ言葉にはしないが、雌雄を決したい気持ちと永遠にライバル関係のままいたい気持ちがせめぎ合っているのは気付いている。だが、いつかは決着をつけなければならない。それが今日なのか、未来なのかは誰にもわからない。
ヒデは再びルワに声を掛け、思い切って勢いよく地上に飛び降りる。思ったよりも長い落下時間ののち、何とかルワに抱き留められた。落下の衝撃で尻餅をついたルワからはお互い無事だったという安心感よりも、安易に引き受けなきゃよかったという後悔の念がひしひしと伝わってくる。
「ごめん、ありがとう。ケガしてませんか?」
「してないけど、さっさとどいてくれ。流石に馬乗りになられてるのは、何と言うか、いい気分はしない」
慌てて何度かごめんと繰り返したヒデは立ち上がり、手を差し伸べる。言った通り自分をきちんと受け止めてくれたことが嬉しかった。敵であることはお互い十分理解している。今ここで裏切ってわざとケガをさせることも、瞬時に武器を手にして攻撃することもできた。しかし、そんな風にして決着をつけようとは少しも思わなかった。
正々堂々と戦ったうえで、納得できる終わり方しか認めるつもりはない。
「それじゃ、始めるか」
ルワはヒデの手を握り、立ち上がった。
ヤンとヒデがそれぞれ戦いを始める少し前、シドとヴァルエは少し離れた位置で睨み合っていた。
本尊を失った廃寺から階段下のヴァルエを見下ろすシドは相変わらず感情のない目をしている。冷たい視線の一つでも送ってくれれば、まだ人間的な冷酷さも感じられるが、今はただ、人間ではない何かのようだった。
軍刀はシドにまっすぐ向けているが、ふとした瞬間にまたガタガタと震え出しそうになる。
今日こそ、絶対に決着をつけるとヴァルエは心に誓っていた。
ロイヤル・カーテスの考え方が気に食わないわけではない。ロイヤル・カーテスが既死軍の暗躍を阻止するために作られた皇の軍である以上、個人的な感情で命令を無視して動くわけにはいかなかった。撤退と言われたらそれに従わざるを得ない。
それに、皇は既死軍の全滅を望んでいるわけでもないらしかった。初めてロイヤル・カーテスとして集められたときに聞かされたのは、既死軍を「鎮める」ために戦えというものだった。その結果として死人が出ることはあっても、深追いして積極的に殺し合う必要はないのだろう。
それでも、戦略的撤退と言えば聞こえはいいが、何度も逃げ帰ることになった屈辱は蓄積している。このままでは自分が納得できなかった。
前回はやっと決着がつけられそうだったのに、死んだと思い込んでいたチャコに邪魔をされた。ユネも援護してくれたが、そのおかげで一対一で戦うという理想からも外れてしまった。三度目の正直を逸してしまった過去の自分が今日こそはと叫んでいる。
ヴァルエはシドに向かって走り出す。当然、すぐさま自分に向かって銃弾が飛んできた。それを薙ぎ払い弾道を変えた。シドの攻撃パターンは頭に入っている。前回は自分も負傷しながらではあるが、シドの腹に軍刀を突き立てることができた。一瞬であったとしても、どこかに隙が生まれることは間違いない。そこを探すだけだ。
シドは頭の中で残っている弾を数える。初めの一発が弾かれたのは予想通りで驚くには値しない。
ヴァルエはどちらかと言うと接近戦を好むようで、軍刀での攻撃が多い。今まで刀身を折ったことも、刀自体を奪い取ったこともあるのに、ヴァルエの攻撃方法や思考回路は変わっていないようだ。一朝一夕で変えられるものではないとはいえ、それはあまりにも戦う者として未熟に思えた。
向かって来るなら返り討ちにするまでだとシドも階段を下り、地面に足をつける。
ヴァルエは真横に切っ先を動かし、首元を狙う。身をかがめてやり過ごしたシドは低い姿勢のまま拳を腹部に打ち込む。だがすぐに体勢を変えていたヴァルエは身を翻してその攻撃をかわし、回転する力を活かして切りかかる。
シドは空振りした手を地面につき、ヴァルエの軸足に蹴りを入れる。バランスを崩したヴァルエは前のめりに倒れたが、受け身を取ってすぐに立ち上がった。
何度かの攻防の後、二人は手を止めて再び睨み合う。
シドは目をそらし、ヒデとヤンの状況を確認する。ヒデは放っておいてもよさそうだが、地面に倒れているヤンはどうも劣勢らしい。ヤンの近くにいる人間たちを撃ち抜くだけの弾数は残っているが、こちらもヴァルエと戦闘中だ。銃弾を一発でも多く残すに越したことはない。ヤンを押し倒している男の位置を確認して視線をヴァルエに戻した。
それは一瞥にも満たない刹那、シドが視線を外したことにも気づかないほどの短い時間だった。シドが銃を構えようとした動きを自分に向けられたものだと思ったヴァルエは、避けるための体勢を取った。しかし、その銃弾はヴァルエから見た遥か左、ちょうどノーフがいる方に放たれた。
ヴァルエはその名前を叫びながら弾道を目で追おうとするも、シドが迫る気配がしてノーフがどうなったかは確認できなかった。
シドの拳が右から飛んできて、咄嗟に軍刀で防ぐ。電気が走るような衝撃が刀身から体に伝わった。まるで視線を外した自分の気を引くかのような攻撃に、歯を食いしばりながらヴァルエは笑みを浮かべる。
「俺のことだけ見てろってか?」
「そうだ。お前の相手はこの俺だ」
自分はノーフたちの戦況を見てたくせになと心の中で悪態を突きながら、ヴァルエは一歩後ずさった。