155話 誘発
信じるなら、断行しろ。
ヴァルエは小刻み震え始めた手を必死に止めようとする。これが武者震いではないことは自分自身がよくわかっていた。目の前に立っている男に対して畏怖の念を抱いているからに他ならない。だが、その感情を認めるわけにはいかなかった。だからこそ、この震えは止めなければならない。
握った柄が鯉口と僅かに触れ合い、金属音をたてる。
シドが一歩、踏み出した。手には既に見慣れた拳銃を持っている。ヴァルエは軍刀と拳銃を持っているとはいえ、離れたままでは不利だ。とはいえ、近づいたからといって有利になるわけでもない。
このシドという男は、負けを知らない。
今まで骨折させたことも、深手を負わせたこともある。だが、結局逃げ帰ったのは自分のほうだった。
いくらロイヤル・カーテスが「逃げるが勝ち」「死んで花実が咲くものか」という考えに基づいて行動しているとしても、個人的な感情でいえば満足はしていなかった。
今更震えている場合ではない。
また一歩、シドがこちらに近付いてくる。下側にいるヴァルエに向ける視線は、見下しているようにも見えた。
シドは僅かに腕を上げ、銃口を向ける。ヴァルエも負けじと姿勢を低くして軍刀を抜いた。
ルワは軍刀を抜いてぐるりと周囲を見回してみる。さっきノーフが狙ったのは木の上だった。そんな場所にまで潜んでいるのかと一旦は疑ったが、既死軍は任務でさえあれば何でもする集団だ。木登りぐらい朝飯前だろうと思い直す。
しかし、もうかなり寒くなったというのに、年中青々としているらしい木の葉のせいでどこにいるのか全くわからない。弓矢は銃弾と違って発砲音もしないため、どこから撃たれたものなのか判別しにくい。三百六十度すべてからヒデの視線が向けられているようで不気味だった。
自分も木に登ってみたら何かがわかるかもしれないという考えも浮かんだが、流石のルワでもすぐに却下した。とりあえず、ノーフが目測で攻撃した場所に向かってみる。そこに既にいなかったとしても、ビルの数階ほどもある木の上で曲芸師のように枝から枝へ飛び移るようなこともしないだろう。そこにとどまっている可能性は大いにあった。
ルワは木の下に走り寄って見上げてみるも、やはり木の葉が邪魔で何も見えなかった。
一方、ノーフは情報屋が乗った車から離れず、ヤンと睨み合っていた。この場で既死軍が情報屋を殺すことはないだろうと言われているが、それでも安心はできない。任務遂行のためなら手段を選ばないのはどちらも同じだ。
「銃しか持ってないってことは、下っ端か」
挑発するように歯を見せて笑うヤンにノーフは得意の笑顔を返す。
「初対面に言うセリフは、もっと紳士的であるべきじゃない?」
「バカか、お前。お互いに紳士的じゃねぇことしてんだろ」
ヤンは鞭の先端をくるくると回し、時折風を切る音を立てさせる。しなやかな鞭の部分と先端で鋭く光る刃物の部分が対照的だ。
「いいや。僕は悪者からこの罪のない人たちを守る正義の味方だ。飽くまで紳士的だよ」
呆れたようにヤンは再び「バカか」と放ち、鞭を回す手を止めた。
「お前の正義っていうのは、俺たちのとは違う。分かり合えはしない」
地面に落ちた鞭の先端が硬い音を立てた。
その金属音を合図にヤンは距離を詰め、ノーフに鞭を放つ。情報屋のそばにいたノーフはそれを逆手に取り、更に近づいた。ヤンはすぐさま思惑に気付き、鞭の動きを止めて自分の方へと引き戻す。
やはり既死軍には「情報屋を殺すな」という命令が出されていると確信したノーフはボンネットに上がって情報屋の前に立ち、そして笑った。
「情報屋に死なれたら困るもんね」
「そうだな」
素直に賛成したヤンは鞭を丸く束ね、攻撃しないという意思表示をする。
無線からはヒデの声が聞こえていた。ノーフも当然周囲を最大限に警戒しているつもりだろうが、それでも目の前いるヤンに思考のほとんどを持って行かれている。ヒデから見たノーフは背中ががら空きだった。
動かないようにじっとさせてほしいというヒデからの要求は難しいものではない。
「だが、お前らはどうしてその男を守る。この帝国に言論の自由はない。全てが統制され、監視されている。そんな社会で情報を売買してる人間なんて碌なもんじゃねぇだろ。国に対する反逆だ。俺たちの邪魔をしてまで守る価値はあるのか」
「人を殺すしか能のない既死軍らしい言い分だね」
「人も殺せないお前らに、既死軍を語る資格はない」
「野蛮すぎ」
呆れたようなノーフは振り返り、車内に視線を落とした。ちょうど助手席に座っている用心棒と目が合った。
「金で雇われてるなら、その分の働きぐらいするのが当然だと僕は思うけどな」
情報屋を守ってくれるらしい存在の登場に、すっかり出番を失っていた男たちだったが、その一言で奮起した。
ロイヤル・カーテスが守れと言われているのは情報屋だけだ。他の人間がどうなろうと知ったことではないが、既死軍を敵だと見なしてくれているなら駒の一つとして使ってやるのはやぶさかでない。
男たち三人は車を降り、先ほどヒデに攻撃を受けた男が助手席に座り直した。情報屋を隣で守るようだ。その入れ替わりの過程で、大金の入ったアタッシュケースが車内に持ち込まれた。
もしこの辺りに監視カメラがあれば、ケイが小言の一つでも無線で言うのだろう。だが、ここには大自然と廃寺しかなく、こちらから報告しない限りケイはこのことを知りようがない。最終的に取り返せば済む話だと思っていたが、どうやらケイという男はただ者ではないらしい。
『金も、情報屋も、最後に手にするのは既死軍だ』
かすかな物音から判断したのだろう。まるで天から状況を見ているかのような忠告で、ヤンは鞭を握る手に力が入った。
車から降りた男二人はまるで配下ででもあるかのように、ノーフを挟んで少し後方に立つ。背も高く、顔も厳めしい彼らは、どちらかと言えば中性的な顔立ちのノーフにはない威圧感を持っていた。だが、にこにこと笑っているノーフが纏っているのは、その雰囲気を凌駕するようなロイヤル・カーテスとしての存在感だった。
後ろに立っている男たちに何か言おうとノーフは少し身体を後方に捻る。その瞬間、視界に飛び込んできたのは音もなく風を切る矢だった。このままでは胴のどこかに命中してしまう。
咄嗟にしゃがんだノーフは難を逃れたが、すぐに背後からヤンの気配がした。立ち上がろうと足に力を入れたが、鞭に絡めとられてバランスを崩し肩からボンネットに倒れた。
男たちはヤンに発砲するが、かすめはしたものの当たらなかった。
「ルワ! 車から見て七時の方向!」
倒れる一瞬、遠くに見えたルワはどうやらまだヒデを見つけられていないようだった。痛みに耐えながらも、知りうる情報を伝える。
『助かる! こっちは任せてくれ』
普段は頼りない男だが、やはり任務中のルワは人が変わる。任務で既死軍と出会ったあとは「あいつら豹変するから怖い」といつもこぼしているが、ルワも同類だとノーフには思えた。
返事の一つでもしたいが、そんな余裕はなかった。蛇のように巻き付いていた鞭が這うように足から離れていく。先端についた槍のように尖った刃先がその動きに合わせて足に傷をつける。ズボンの生地が何度かひっかかり、すっぱりと切り傷を作ることがなかったのは不幸中の幸いだった。皮膚から感じる冷たい刃の感覚が、舐めるようにじわじわと広がっていく。
ノーフは「最悪」と呟いた。ケガや傷はノーフにとっての起爆剤だった。
泥臭く、傷だらけになりながら任務を終わらせることをノーフはよしとしていなかった。本業ではないとはいえ、一定数のファンがいるモデルとして活躍しているノーフは、ケガなく任務を終わらせることを自分の信条としていた。あまり任務に出ていなかったとはいえ、今までケガをしたのは片手で十分数えられる程度だ。その尊厳を傷つけた罪は重い。
今まで愛想よく振りまいていた笑顔が消え去る。
立ち上がって拳銃を手にしたノーフはボンネットから飛び降りる。右腕を鞭に取られたが、それを好機としたノーフは左手で鞭を掴み、自分の方へ引っ張った。ヤンは当然抵抗して引き戻そうとするが、強く巻き付いた自分の武器が徒となった。
綱引き状態に勝利を収めたノーフは腕から鞭を取り払い、後方に投げ捨てる。それはちょうど狙った通り男の足元に落ちた。何も指示をされなくとも、すぐさま拾い上げて車内に放り込む。
武器を取り上げられたヤンは少しだけ失態を悔やんだが、更にノーフとの距離を詰め、懐に潜り込む。相手が拳銃を持っている以上、最早距離は関係ない。さっさと倒してしまうのが一番の防御になる。
身体を強く押されたノーフは腰から上をボンネットに叩きつけられ、その衝撃で足が一瞬宙に浮いた。その反動で勢いよく上体を起こし、近づいていたヤンの顔に思いきり頭突きを食らわせる。
思いもよらぬ原始的な攻撃に、ヤンは目の前で火花が散ったような感覚がした。当たり所が悪かったのか鼻から血が流れる。ふらっと一歩下がり、手の甲で拭って白い手袋を赤く汚した。
その様子を見ていた男たちがやっと動いた。隙が生まれたヤンは今度は体当たりされる側となり、体格のいい男に押し倒された。何とか後頭部は打たなかったが、どうも分が悪そうだ。
空を仰ぎながら、ヤンはどうしたものかと自分でも驚くほど冷静にこれからの行動を考えていた。