153話 燻ぶる
火種は、決して。
季節が変わろうとも、雑多な事務所は変わることがない。ルキが背にしている窓から見えるのは灰色をした時の止まった街並みで、その景色もふわふわと充満するたばこの煙でぼやけている。既に赤く染まり始めた外の世界をヒデは何となく眺めていた。
自分の前に座って資料を読んでいるシドも、その隣に座ってルキとくだらない口論をしているヤンも、全てがいつも通りで、今から任務へ行くというのにどこか落ち着いていた。ルキの話では、今日はロイヤル・カーテスが現れる可能性が高いとのことだった。そう言えばしばらく会ってないなと、遠方の友人に抱くような懐かしささえ感じる余裕があった。
ヤンの顔を手で押しのけたルキはやっと本題に入るらしく、隣の自室から重そうなアタッシュケースを一つ持ってきた。よいしょ、と言いながら三人の真ん中にあるテーブルに置かれたそれは、見た目通りの重そうな音がした。
「今日の任務はこのお金と引き換えに情報媒体を受け取って来るだけだよ~。十五万入ってるから取り扱いには気を付けてね~」
中身は見ずとも、大きさからそれなりの現金が入っているのだろうと思っていたヤンとヒデだったが、その額に思わず「十五万!?」と声を合わせて驚いた。平均的な生涯年収の三分の一から半分程度に相当するその金額を、まさか目の前にする日が来るとは思ってもみなかった。だが、目を丸くしている二人とは対照的に、シドは興味がないのか実感がわかないのか、我関せずと表情一つ変えていない。
「二十円札が七千五百枚だって~。何か多すぎて意味わかんないよね~」
ルキはアタッシュケースをぽんぽんと叩きながらにこやかに笑っている。普段、依頼人から大金を巻き上げているルキにしても、この金額はそうそうお目にかかれるものではない。どこか現実離れした中身にヤンとヒデが声を出せないでいると、ケイが注釈を入れるように会話に加わってきた。
『ちなみにその枚数だと二貫もある。相当重いな』
「これって、どこから出てきた金なんだよ」
「一応、既死軍のお財布だよ~」
「何か、言ったら失礼ですけど、こんなにあったんですね」
「さすがにポンって出せる額ではないけどさ~。必要経費ならしょうがないよね~」
『お前ら、絶対取り返せよ。それを全額くれてやれるほど既死軍の懐は暖かくないんだ』
へらへらと笑っているルキに対して、耳元で聞こえるケイの声からは悲壮感が漂っていた。既死軍の全責任を負っている身としては胃がキリキリと痛むような金額であることに間違いない。不健康な目元のクマに加えて顔全体を青白くしていそうなケイにヒデは同情する。
「ルキさんはやっと手放せて安心感すごいよ~。泥棒来たらどうしようってずっと思ってたからさ~」
ルキがいつにも増して笑顔なのは安堵しているからなのかとヒデはいやに納得させられた。さっさと手放したいのは確かだろう。
「あと、先に来てたヒデには言ったんだけどさ~、今日は多分、というか高確率でロイヤル・カーテスが来るよ~」
ヤンはシドが手にしている資料を横から覗き込み、「マジかよ」と視線を滑らせる。
「大金にロイヤル・カーテスって、その情報媒体に何でそんな価値があるんだよ」
「それはいつも通り言えないんだけどさ~。まぁ言っておくと、任務が成功したら頭主さまは大喜びだよ~ってこと」
その名前を耳にしたシドが一瞬視線を動かしたのをルキは見逃さなかった。既死軍にいる以上は絶対的な存在である頭主のために働くのが当然だ。しかし、シドにとってその存在が持つ意味は他とは違う。
シドが既死軍を去ろうとしてからもうすぐで一年になる。まだあの問題は解決したわけではない。一体何がきっかけで再燃するかわからない燻ぶる火種をシドはただ眺めているしかできない。そこにシドの意思は反映されない。
頭主、もとい元帥の立場が安泰のままであればいいのか、それともいっそこのこと危うくなればいいのか、どうすればシドが望む未来が訪れるのだろうかと思いながらルキはその横顔からふいと視線を外した。
「情報媒体を持って来るのは、いわゆる情報屋って人だよ~」
そう前置きしてルキは任務の詳細を話し始めた。
他人の情報を勝手に仕入れ、公表されたくなければ、と金銭を要求するその手法は悪質ではあるが理にかなったものだ。強請られた側も、秘密を金で守れるならと多くが大金をはたくらしい。そんな非合法な手段で稼いでいる情報屋と呼ばれる人間は帝国に限らず世界中で暗躍している。
今日の相手はミヤの言っていた相楽という新聞記者で、帝国にいる情報屋の中でも名の知れた人物だ。
普段は相楽が脅迫する標的を決めて接触してくるが、今回は任務とあってルキから話を持ち掛けた。
データが入った情報媒体はこの時代にあっても手渡しされている。相楽はその度に、いつでも切り捨てられるような人間をはした金で雇っているが、ルキが相場以上を出す代わりに本人が来るようにと条件を出したら、あっさりと了承した。あと数万は上乗せしてもいいとの許可をもらっていたルキは最初に提示した金額で快諾されたことに拍子抜けした。相楽が危険な目にあいすぎて危機感が麻痺しているのか、それとも危機を回避できるという自負があるのか、いずれにせよ、すぐに約束が取り付けられたことにルキは満足していた。
「帝国には色んな情報が溢れてるんですね」
「そりゃ一般人の電話番号すら裏で売買されてる時代だからね~」
「けど、俺たちが行くってことはどうせ軍とかそういう関係の情報なんだろ? そんなもん、一介の新聞記者が強請りのネタにしてたら治持隊で取り締まれそうなもんだけどな」
「だからややこしいんじゃん~。軍にも治持隊にも弱みを握られてるやつがいるからさ~、安易には動かせないんだよ~。タチ悪いんだか、立ち回り上手いんだか」
今まで「恐喝の被害者」が支払ってきたのは相楽に対する口止め料に過ぎない。もし、相楽が命の危機を顧みないような人物であれば、契約書を交わしたわけでもないその約束はいつでも反故にできる。情報を握られた時点で立場は相楽のほうが上だ。
だからこそ、今回の依頼者も藁にも縋るような思いでルキの探偵事務所に情報の奪取を依頼してきたのだろう。裏稼業には裏稼業の人間をぶつけるのが正解だ。
ルキは続ける。
「まぁ情報屋なんて誰からも疎まれてるのは確かなんだけどさ~、一人だけ割と肯定的な人がいてさ~」
その言い方にヤンとヒデは納得したようにうなずく。どうして一見何の関係もなさそうなロイヤル・カーテスが出て来るのかと疑問だったが、ようやく話が繋がった。
「皇にしてみれば軍にとって都合の悪い情報を集めてくれる、いわば抑止力みたいな存在でしょ~? 必要悪って感じで野放し状態なんだよ~。だからさ~、皇はロイヤル・カーテスを動かしてでも情報屋を守りたいみたいでさ~」
「じゃあ、ロイヤル・カーテスが自主的に情報屋を守りに来るって感じですか? それとも用心棒的な感じで雇われてるんですか?」
「そこらへんの詳しいことはよくわかんないんだけどさ~、ルキさんは皇と情報屋は別に手を組んでるわけじゃないと思うんだよね~」
『それには俺も同意する。恐らく、情報屋はロイヤル・カーテスなんて組織は知らないんじゃないか。まぁヒデの言う通り、ロイヤル・カーテスが自主的に守ってるって感じだな』
「皇的にはさ~、情報屋は潰れてほしくないわけじゃん~? けど、今回の取引も皇は知ってたとしても相楽の行動を止める術を持たないんだよ~。だから、代わりにと言っちゃなんだけど、ロイヤル・カーテスが来るってこと~」
『飽くまで俺の予想だ。けど、俺の予想はたいてい当たる』
無意識の自負心なのか、任務に出る誘たちを鼓舞するためなのか、任務の詳細を語るケイの口調はほとんどの場合自信に満ち溢れている。はっきりと言い切るその口調が応援されているようでヒデは何となく好きだった。
ルキは話を任務の流れに戻す。たかが取引をするためにわざわざこの三人が集められたわけではない。当然、真の目的が存在する。それは情報媒体の授受などではなく、その情報屋を生きたまま捕まえることだった。ルキが受けた依頼は情報の奪取と相楽の始末だが、洗いざらいを吐かせてからでも遅くはない。
「流石に今回はうっかりやっちゃわないでね~」
ルキには苦い思い出があるのだろう。珍しく釘を刺すような言葉をシドとヤンに向けた。
「殺すなって任務、シドあんまり好きじゃないのに駆り出されて大変だな」
自分への苦言を他人事のように受け流し、ヤンは隣に座っているシドに笑いかけた。しかし、ヒデにしてみればヤンも同じようなものだった。
「ヤンも苦手じゃん」
「じゃあ俺たちを止めるのはヒデの仕事だからな」
「それは荷が重いかな」
どこか遠くで聞こえる夕暮れ時の鳥の鳴き声、灰皿に置かれたまま忘れられているたばこの先端が灰になって自重で落ちる。
「なら、ルキさんからの忠告を忘れないうちに行っておいで~」
その言葉で、やっと解放されたと言わんばかりにヤンが勢いよく立ち上がった。
「行こうぜ、シド。情報屋もロイヤル・カーテスもまとめてぶっ潰せるいい機会だ」
「だから情報屋は潰さないでよぉ~」
たった今したばかりの注意を無下にされたルキは眉をハの字にして見せる。それを嘲笑するような顔を残してヤンはシドの背中を押しながら事務所をあとにした。
残されたアタッシュケースを手にしたヒデは「行ってきます」と笑顔で手を振り、ドアを閉める。
「行ってらっしゃい」
再び事務所に静寂が訪れた。