148話 濁る
あの日は、形骸化したか。
爽やかな風が吹き抜ける秋の昼下がり。人気のない山中にシドとヤンはいた。ひび割れから雑草が生えているような悪路ではあるが、舗装された道路を進んでいけば目的地に着ける。目指すは山を切り開いて作られた広大な敷地の保養所だ。
「久々に山道歩いた。着く前に疲れきってるかも」
『いつも樹海通ってる人間が何言ってるんだ』
「あそこはもう目をつぶってでも歩けるからいいんだよ」
無線でケイと言い合いをしながら歩いていると、やっと視界が開けた。先に保養所だと聞いていなければ、何の施設かは一目で判別できなかっただろう。横に広い二階建ての建物は、建築当時であれば輝かんばかりの純白を体現したような外観だったはずだ。頭に入っている間取り図では、一階がレストランや温泉、プールなどの娯楽施設、二階が客室になっている。
一時期は避暑地として夏場はひっきりなしに宿泊客が訪れていたらしいが、今は雨風にさらされて薄汚れ、見る影もない。本来であれば宿泊客を目で楽しませるはずの植え込みも、今は説明されない限り、どこまでが人工的に形作られた緑なのかもわからないほどになっている。建物自体もところどころが朽ちて自然と一体化し始めているが、所有権や費用の問題で壊すに壊せないのだろう。近隣に住宅がなく、苦情が来ないのもそのまま残されている理由の一つだ。
建物の入り口まで続く広々とした駐車場は今は一台も停まっていない。しかし、その代わりだとでも言わんばかりに今までの道と同じく雑草がアスファルトを突き破り、青々と生命力をみなぎらせている。
当然人は寄り付かないが、それを好都合だと捉える人間もいる。何年も放置されている廃墟にしては、ここまで続く道や屋内が妙に歩きやすく整備されているのが人の出入りがある証拠だった。
「ケイの言う通り、今は誰もいないみたいだ。とりあえず中の様子を確認する」
元々施設の入り口はガラスの自動ドアだったようだが、今では渋い銀色の枠組みが面影を残しているだけだ。わずかに地面に散らばっているガラスを踏み鳴らしながらシドとヤンは屋内へと入った。
正面にはフロントがあり、左右に伸びる廊下や上階に続く階段などから、その造りはまさにホテルそのものだった。
シドと目を合わせ、二手に分かれて廊下を進む。一人になったヤンは小声でケイに話しかける。
「保養所とホテルの違いって何」
『企業が福利厚生施設として持っているのが保養所だ。社員やその関係者が使える割安のホテルってところだな。最近は流行らないから手放す企業も増えているが、財閥は今も数多くの保養所を持ってる。まぁ俺たちには関係ない話だがな』
単純な疑問だったが、ケイの返事にヤンは口を尖らせた。ドアノブを回しても開かない建付けの悪いドアを多少乱暴に蹴破る。
「聞かなきゃよかった」
『俺はお前の疑問に答えただけだ』
「ケイが悪いとは言ってない」
ヤンは大きく一つため息を吐いた。
「堅洲村から出たら、どこにいても、何をしてても存在がチラつく。この帝国にいる以上、生きてようが死んでようが、俺は逃げられない」
『けど、お前はちゃんと自分と向き合ってる。だから、この任務を選んだんだろ』
「そうだ。俺は自分で決めたし、自分で決着をつける」
『じゃあ、いいこと一つ教えてやるよ』
無線の向こう側でケイがにやりと笑っている顔が頭に浮かんだ。こんなことを言うときは、大体よくないことだ。だが、拒否しようにもヤン側から無線を切ることはできない。ケイが持つ権限の効力は一方的で否応なしに与えられるものばかりだ。
『もうすぐ、会えるかもしれない』
「聞きたくなかった」
『やる気に繋がるかと思ってな』
「余計なお世話だ」
『それはどうも』
「褒めてねぇよ」
次々と部屋の確認を終わらせ、ヤンは階段で二階へと上がる。どの部屋も物が残されたままで、さっきまでいた人間たちが突如として神隠しあったような雰囲気を醸し出していて不気味だった。
シドに現在地を連絡しようとしたところで耳元と遠くから重なるように声が聞こえた。
『一階は何もなかった。今から二階だが』
「匂いが充満してて、分かりやすいっちゃあ分かりやすいよな」
シドの言葉を拾い上げてヤンが続ける。施設が見えたときから感じてはいたが、違法薬物の元となる「彩色四百二十」と呼ばれる植物が放つ青臭くて甘い臭いが、二階に上がった途端に全身に絡みつくように強烈な印象を与えた。
今回の任務はこの廃墟を使って秘密裏に違法薬物を栽培している組織の人間たちを取り締まることだった。このような組織の元締めは治安維持部隊が捜査し、法律の下で適切に裁いているが、何の情報も持たない末端たちの始末をするのは既死軍が常だった。上層部からは何かしら得られる情報があるだろうが、こんな地味な作業をさせられているような人間は尋問する必要も、わざわざ裁判にかけて税金を使ってまで更生させる必要もないという無慈悲な判断だ。だれからも邪魔者として扱われ、闇に葬り去られるだけの存在にかける情けなどない。だからこそ、法律に縛られない既死軍が暗躍している。既死軍に正常な判断ができる人間など、最早残ってはいない。全ての決定権を握っている情報統括官が人殺しをよしとしている以上、既死軍は表舞台に出ることは決してない。
二階に上がってすぐのドアの前に立ったシドは長い前髪を掻き上げる。横を向くと、一直線に続く廊下の端にヤンの姿が見えた。
『俺のほうは何かハズレな感じがする。電気使ってる感じがしない』
「開ければわかる話だ」
『確かに』
短く笑ったヤンの声と同時に二人はドアを開ける。
一階は元々ドアがない場所が多く、光量や室温を調節する必要がある屋内栽培には向いていない。だからこそ、ドアのある客室が多い二階で栽培していると踏んではいたのだが、全室を使っているようではなさそうだった。
『やっぱりハズレ。シドは?』
返事がある代わりに、シドの咳き込む音声が無線を通る。密閉されていた室内の空気が塊となってシドを襲った。
「まずは施設に入って右側の二階。一番初めの部屋だ」
何事もなかったかのようにシドはケイに報告を入れる。目の前にあるのは観葉植物とは言い難い、見慣れた違法な植物だ。自生しているものもあるとはいえ、栽培は法律で禁じられている。駐車場から二階を見たときはわからなかったが、窓までしっかりと目張りをして栽培に適切な環境が人工的に作られている。
『了解。始末が終わったら堕貔を向かわせる』
ケイの返事に短く返すと、シドは隣の部屋に移動した。
シドもヤンも次々に客室の確認を行い、その度にケイへの報告をしていく。栽培場所として使われている部屋は森のように草が生い茂り、不愉快な臭いでめまいがする。客室にあるはずの家具は空いている部屋に押し込められ、倉庫代わりのそこには人が出入りしている様子はなかった。
やっと当たりを引いたヤンは未開の地に踏み入るように、ゆっくりと室内を見て回る。外は秋らしい肌寒い天気なのに、室内は季節が逆戻りしたような気温で、身体がおかしくなりそうだった。
「しかし、こんな電気とか水とか、いろんな設備をわざわざ使うなら外で育てればいいんじゃねぇの? っていつも思うんだよな」
『お前らがやってる畑と一緒だ。外は天候に左右されるし、害虫だの雑草だの面倒が多い。あと、単純に屋内栽培のほうが質がいいとかいう考え方もある。最近の取引額の傾向を見るに、どうやら今は屋内栽培が人気らしい。お客様の需要に応えようだなんて、涙ぐましい努力じゃないか』
「こんなのに流行り廃りがあるのかよ」
『当然だ。流行ってのは誰かが恣意的に作りだすものだからな。誰、とは言わないが』
「今日のケイ、最悪」
ヤンの子供っぽいケンカ腰の語調にケイはどこか馬鹿にしたような笑い方をした。
『なら、復讐なんてやめるか? そんなことしても何も生み出さない。死んだ人間は喜ばないって月並みな台詞で慰めてやろうか?』
「うるさい。黙ってろ」
そこからはケイも言葉を返さず、ヤンの無線から聞こえてくるのは報告の声と、八つ当たりのようにドアを乱暴に開ける音だけになった。
薬物絡みの任務には必ず行くと決めたのはヤン自身だった。誰かに強制されたわけでもない。その気持ちを汲み取って任務を与えてくれているケイには感謝こそすれ、腹を立てるのは違うとわかっていても、やり場のない怒りが沸々と湧き上がってくる。「復讐」というわかりやすい言葉が持つ力は人によって大きさが違うのだろう。使い古された手垢まみれの感情だと言われたら納得してしまいそうにもなる。しかし、たとえ陳腐であろうともヤンを駆り立てる原動力であることに違いはない。
やっとたどり着いた最後の部屋はがらんとした廃墟らしい部屋だった。窓ガラスは割れ、破れたカーテンの残骸が風になびいている。
正面にはシドの後ろ姿があった。今は枠しか残っていない窓辺に座っているシドの隣にヤンも腰を下ろす。そこは出窓のようになっていて、足を外に放り出して座るにはベンチのようになっていてちょうどよかった。
足を揺らしながらヤンは目下の駐車場に目をやる。自分たちが来たときと変わらず雑草が跋扈するだけで、人間は現れていない。
いつ来るともわからない取り締まり対象を今からはひたすらに待たなければならない。
シドは何も話さず、いつも通り黙って遠くを見つめていた。その横顔を一瞥したヤンも同じ方向に目を向ける。
ただ静かに時間が流れていった。