146話 約束
現在というものは、過去のすべての生きた集大成である。
腕組みをしたミヤは畳に置かれた軍刀を一瞥した。
「元々の持ち主は以前言ったな。俺の陸軍の上官だ。亡くなったことも確か言ったはずだ」
おもむろにミヤが口を開き、昔話を始めた。いつもの覇気は控えめで、過去を懐かしんで噛み締めるような口ぶりだ。
「俺がその上官から譲り受けたもの、いや、託された形見は二つある。その内の一つがこの軍刀だ」
亡くなったのは話し方からすると最近の出来事ではなさそうだった。長年持っていた思い出の品を手放すのは、身近な人間への譲渡とはいえ、容易なことではない。思い出すことも一つや二つではないのだろう。
なぜ自分なのか、なぜ譲る気になったのか、ミヤの思惑をヒデは言葉の端々から汲み取ろうとする。
「同じ部隊で、長らく寝食を共にした。上下関係は当然あったが、戦友のような仲だった。上官はいつ何時も、気高く、誇り高く、そして誰よりも強く、俺の理想とする軍人そのものだった。今でも死んだことは信じられない。今際の際も、死体も、骨も、墓も、全部見たっていうのにな」
一呼吸置いたミヤは少し長く目を閉じる。その眼前には当時の光景が懐かしさと共に広がっていることだろう。どこか人間離れをしているミヤの人間らしい部分に触れた気がして、ヒデは何となく居心地が悪かった。
「人望や能力、その他全てを兼ね備えていた。今もご存命なら、きっと今の元帥は葉山元帥閣下ではなく、この方になっていただろう。少なくとも軍の中心、この帝国に影響を与える地位にはいたはずだ。亡くなったのは国の損失だと言わざるを得ない。これの持ち主は、そんな方だった」
ヒデは背筋を伸ばしたまま、ミヤの言葉を静かに聞く。自分が知らない人間の話を聞くのは少し退屈でもあったが、ミヤがここまで褒める人物には興味があった。
ミヤが今も現役の軍人だということを知っているのは既死軍でも一握りしかいない。ヒデはその内の一人だ。詳しい話は聞いたことがないが、それなりの年月を軍人として過ごしてきたのだろう。
軍人というのは、軍事国家である以上、国民にとっては身近な存在だ。しかし、一般人だった阿清秀にとってはただ国を守る仕事の人という程度の認識だった。当然、過酷な職業で敬意を持つべき人たちであることは承知しているが、できるだけ関わらないように、どこか一線を引いて遠くから眺めていた。それは既死軍へ来た今も同じで、軍人であるミヤには他の宿家親とは違う空気を感じていた。
そんなミヤの脳裏に死しても尚消えることのない上官とは一体どんな人間だったのか、その人となりや人生に興味があった。
ぼんやりとした後ろ姿がヒデの目の前に浮かぶ。灰色をした陸軍の軍服を着た男の姿だ。今のミヤと同じような年齢で、背丈も同じか少し低いぐらいだ。見たこともない上官をミヤに似せて想像しているのだろうと、その後ろ姿を目を閉じて視界から追いやった。
「だが、これは俺の所感だ。人間は様々な側面を持っている。俺から見た上官と、他から見た上官はもちろん違う人物像だっただろう。ただ、俺は今でも尊敬している。それだけは間違いない」
浅く息をついたミヤに、ヒデは不躾を承知の上で質問する。
「どうして、亡くなったんですか」
ミヤが言う通りの人間なら、そう易々とこの世を去るようには思えなかった。きっと何か特別な事情があったに違いない。ヒデの読みはどうやら当たっていたようで、ミヤは一瞬言葉を詰まらせ、言いにくそうに答えた。
「誰も悪くない、不運な事故だった。俺からはこれ以上は言えない」
珍しいミヤの様子にヒデは慌てて「すみません」と頭を下げる。確かに自分も誰かの死因を聞かれたら答えに窮するだろう。やはり人の死など詳細に聞こうとするものではなかったと自省する。
「いや、いい。死因は俺から先に伝えておくべきだったかもしれない。無様な死に方をしたなんて思われたら上官の沽券にかかわるからな」
そう少し笑うと、ミヤは前髪をかき上げて話の主導権を取り戻す。
「上官が事故に遭ってすぐ、俺はその場に駆け付けた。それで息絶える直前、言われたんだ。こいつを頼む、守ってくれってな。だから、俺には命に代えても守り抜く義務があった」
「それを、どうして僕に」
ヒデは正座する膝の上で拳を固く握った。それほどまでに尊敬する人の形見を、どうしてわざわざ手放そうとしているのか、わからないままだった。シドに譲ると言うなら多少は納得できそうなものだが、特段接点のあるわけでもない自分に、というのが不思議だった。
少し涼しい風が庭から吹き抜けていった。
「ミヤさんはシドの宿家親なのに、どうして。どうして僕にここまでしてくれるんですか。大切なものなんですよね」
意を決して聞いてみるも、ミヤの答えは実に的を射ない短いものだった。
「業火から助けてやった誼だ」
その言葉にヒデは首をかしげる。軍刀を譲ってくれると言う話が出たのはおよそ一年前の秋だ。しかし、レイエイで燃え盛る建物から救い出してもらったのはそれから数か月後の冬のことだった。これでは因果関係が逆になってしまう。「でも」と言いかけたところで口をつぐんだ。ミヤの視線が全てを制止し、これ以上の詮索はまったくの無意味だと警告している。結局、質すことは叶わず、ミヤが思い違いをしているのか、もしくは適当にはぐらかされたのだろうと思い込むことにした。
そんなヒデに追い打ちをかけるように、ミヤは「知らないほうがいいこともある」と目を合わせる。この魔法の言葉を使われてしまっては、どうすることもできない。
「それで」
ミヤは軍刀を手に取り、ゆっくりと抜刀する。今も現役で使われているのかと思えるほど、刀身は美しく周囲の景色を反射していて、まるで美術品のようだ。だが、その刃が放つ光はどこかひやりと冷たく感じられ、まるで多くの血を吸ってきた妖刀のような異様さも持ち合わせていた。
端から端までゆっくりと動かすミヤの視線は、別れを惜しんでいるようだ。 目は軍刀に向けたまま、ミヤは言葉を続ける。
「既死軍では武器に名前を付けるのが慣例となっている」
武器に名前を与えることで「宰那岐」という不思議な力が現れるというのは、ヒデが既死軍へ来てすぐの頃に聞かされた話だった。今でも説明のつかない超能力のようなものだという曖昧な認識ではあるが、確かに普通の力では出せない威力を身につけたように思えた。空想科学的な不確かなものではあるが、それが本当に宰那岐という能力なのか、火事場の馬鹿力的なものなのかは知る由もない。「そういう力がある」と言われてしまえば、既死軍では納得せざるを得ない。
「新しい主であるヒデに名付けさせてやりたいところだが、実はすでに上官が与えた名前がある」
軍刀を鞘に戻し、ヒデのほうへと片手で差し出す。その力強い眼差しは愛着のある物への決別の固い意志が感じられた。
「慈多。この軍刀に込められた想いは無償の愛。すなわち生きとし生けるものへの慈しみの心だ。人殺しの道具につけるには、いささか博愛主義がすぎるがな」
ミヤから渡された軍刀「慈多」をヒデは両手で恭しく受け取る。元の持ち主から丁重に扱われ、その遺志を継いだミヤからも大切に保管されていた。軍刀自体は帝国軍でかつて支給されていた大量生産品ではあるが、ヒデには光輝いて見えた。
「これからはこの祿と共に、幾彌しく歴史を刻め」
ミヤが手を離すと、その重みがずしりと両手に伝わった。これが人間の意志の重みだ。
この軍刀を巡る物語は今しがた聞かされたものだけではないのだろう。ミヤには胸の内に秘めた思いがまだ山のごとくあるはずだ。だが、多くを語ることはない。
元の持ち主のことは、名前も、生い立ちや詳細な死因も明かされる日はこないだろう。それでも、ミヤが受け継いだ遺志を自分も継いでいかなければならない。
「わかりました」
ただ、その一言にミヤはうなずいた。表情はいつも通りではあるが、どこか安堵しているような、満足しているような、穏やかな雰囲気を纏っている。
「俺からは以上だ。慈多が紡いできた歴史を、上官の遺志を、ヒデに伝えないことには渡すわけにはいかなかった。昔話に付き合わせて悪かったな」
話を切り上げたミヤは返事を待たずに立ち上がり、ヒデを残して部屋を後にした。その後ろ姿が先ほど見えた名も姿も知らない上官と重なった。
居間へと続く障子を閉められると、ヒデはひとりぼっちになった。このまま帰るべきではあるが、軍刀の持つ重みに、なぜか身体が動かなかった。
理由は何であれ、ミヤは自分を認めて信じてくれた。それだけでヒデは嬉しかった。その思いに応えるために誘として十分な働きをしようと固く誓った。
秋めいた風が涼し気な葉音とともに外を流れ、新しい季節への移り変わりを強く感じさせる。
夏に失ったものは大きかった。屍を土足で踏み越えている既死軍にあっても、誘の死は簡単に受け入れられるものではなかった。それぞれが前を向くために、何かを想い、何かを心の奥底に封じ込めている。遺った人間はその遺志を継ぎ、歴史を創っていくのが役目だ。
ヒデは立ち上がり、軍刀を鞘から抜いた。間近で見るその輝きは目をとらえて離さない。鏡のように見える刀身に顔が映った。いつかは自分も誰かにこの軍刀を受け継ぐ時が来るのかもしれない。それまでは三人目の主として、上官とミヤに恥じない働きをしなければならない。
刃に映る自分の顔に、知るはずのない上官の顔が重なったように思えた。