142話 前哨戦
壁は、越える以外にも。
季節は暦の上では秋と言いたいところだが、まだ時折夏の顔をのぞかせる。
つい先日まで潜入していた学校ものどかな場所で、街中よりかは幾分涼しかったように思うが、やはり堅洲村のほうが爽やかな雰囲気を纏っている。それでもまだ秋だとは言い切れない。
早朝、縁側でのんびりと弓の手入れをしていたヒデの元に見慣れた浴衣姿のミヤが現れた。相変わらず玄関を経由せず、庭に突然やって来る。
「おはようございます」
「ヒデのお陰で新しい誘がもうすぐ増える。礼を言う」
隣に座りながら、あいさつもそこそこに簡潔に用件を伝えた。
「いつごろ来るんですか? その、えっと」
一か月近く呼んでいたはずの名前を思い出そうとしても、ぼんやりとした輪郭の字面が出て来るだけで、はっきりしない。眉間にしわを寄せてなんとか絞り出そうとするも、ミヤの「思い出す必要はない」という否定にはっと意識を引き戻され、うなずいた。
既死軍へ来たときは新しく名前を付ける。それがヒデのように本名からとったものなのか、全く関係のないものなのかは人による。本名など覚えていたところで、ここでは何の役にも立たない。
「詳しいことはケイに一任しているから俺は知らん。ただ、そう遠くはない」
「そうですか」
もうすぐ加わる新しい誘はもうチャコのことは知らないんだなと思うと、胸の奥が痛んだ。しかし、その無知による無責任さは自分も知らず知らずのうちに経験している。堅洲村にひっそりとある墓地には墓とも呼べないような目印がいくつもあり、その下には既死軍として死んでいった人間たちが永遠に眠っている。それぞれに歩んだ道があって、それぞれに終わりがあった。当然、顔も名前も知らない人たちだ。いつかは自分もあのもの寂しげな場所で、いつかは忘れ去られることになるのかと思うと、言葉にならない感覚で心が潰されそうになる。
「チャコの代わりがすぐに見つかってよかったですね」
「だれにでも代わりとなる上位互換、もしくは下位互換がいる。もし俺が死んだとしても、誰かが代わりになって世界を回していく。それは既死軍に限ったことではない。世の理だ」
手にしたままだった弓を握り締め、ヒデはうつむく。自分でも心無い言葉だったとわかっていた。足りなくなれば人員を補充しなければならないのは組織として当たり前のことだ。しかし、自分たちがただ黙って消耗されていく品のように思えて仕方がなかった。
そんな考えを見透かしたようにミヤは続ける。
「役割にはいくらでも代わりがいる。アレンが死ねば誰かが新しくヒデの宿家親をするし、ヒデが死ねば新しい誘が来る。だが、ヒデという人間はヒデしかいない。役割と人間は違う。きれいごとだと言われればそうだがな。どうだ、これで傷は癒えたか」
「けど、僕はミヤさんやシドみたいに割り切れる性格じゃないんですよ」
「性格も十人十色だ。ヒデのことを俺は否定しない。だが、終わったことや仮定は考えても仕方がないとは思わないか」
「それは、そうですけど」
ミヤが言っていることの意味はもちろん理解できる。しかし、すんなり受け入れられるほどの余裕はまだなかった。
少しだけ秋めいた風が生ぬるく二人の髪を揺らす。これ以上話を続けても、悩みの種が増えるだけかもしれないと、ヒデを一瞥した。
「話は変わるが、去年の今頃に俺とした話を覚えているか」
「もちろん、覚えてます」
「それは重畳。おれにとってはこっちが本題だ」
「その話をしに来たんですか?」
ミヤはうなずき、「捗ってるか?」と興味深げに尋ねた。
去年の秋、偶然ミヤがシドの戦う相手をしているところを見たのがきっかけで、ヒデは霽月流という流派の剣術を習うことになった。ミヤの提案でシドと戦ったのだが、結果は思った通りの敗北だった。しかし、ミヤはどこか満足げで、自分がヒデの強さを認めることができたら軍刀をやるという約束をしていた。その軍刀の元々の持ち主は陸軍の上官で、その人はとうに亡くなってしまったとのことだった。
偶然だったとはいえ、またとない機会だ。もちろんミヤに認めてもらいたいという気持ちもあったが、何よりも上官の形見である軍刀とあっては、生半可な努力をしたぐらいでは自分には譲渡してもらえる価値もない。一朝一夕で身につくものではないことは重々承知しているが、それでもミヤの求める程度には到達したいと思っていた。
「たまにアレンさんが練習相手をしてくれてます。それから、何回かジュダイにも教えてもらいました」
「結構なことだ。それなら、いい頃合いかもしれないな」
「もしかして、またシドと戦わなきゃいけないんですか」
ヒデは手に汗握る白熱した戦いを思い出していた。誘最強を誇るシドと戦う機会が訪れるとは、そのときは夢にも思っていなかった。共に任務に出ているときは心強いが、正面から敵として見合ったシドは、その眼光だけで萎縮してしまうほど空気を纏っていた。
その日からできる限りのことはしたつもりだが、それでもまたあの緊張感を経験することになるのかと思うと、今から既に冷や汗が流れるようだった。しかし、ミヤの返答にまだシドと対峙する方がマシだったと思い直すことになる。
「いや、次は俺とだ」
確かにその声は耳に届き、意味も理解できた。にもかかわらず、ヒデは「え?」と短く聞き返す。
「言い出したのが俺とはいえ、上官にもらったものをおいそれと渡すわけにはいかない。今の主である俺が次の持ち主を見定めるのは間違っていないだろう」
「わかりますけど」
不安げな視線からヒデの言わんとすることを汲み取る。組んでいた腕をほどき、前髪をかき上げた。
「安心しろ。誰にせよ、俺に勝てるはずがない」
「僕もそれは同意します」
「それなら話が早い」
ミヤは押し黙り、何かを考えている。指を折っているところを見ると、日数を数えているように見えた。十秒と経たないうちに、ミヤは顔を上げる。
「三日後、いや、明後日だ」
「随分と急ですね」
「俺の気が変わらないうちにな」
そうは言うものの、ミヤの都合が大いに関係しているのだろう。堅洲村の外に行くことの多いミヤは当然、それに比例してここで過ごす時間は短くなる。その中でヒデに使える時間となれば、更に制限される。わざわざ自分のためにそんな時間を捻出してくれると言うなら、期待に応えないわけにはいかない。
ミヤは立ち上がり、腕組みをする。
「何度も言うが、勝敗をつけるわけではないし、俺が怪我をするようなこともない。全力でかかって来てくれ」
「わかりました」
再び手中にある弓を強く握り、ヒデはミヤを見上げる。晴天を背負ったミヤはいつも通りの硬い表情だが、どこかに温かみを感じさせた。
じゃあなと別れを告げると、ミヤはさっさと庭を後にした。本当にこの話だけをしに来たのだろう。いよいよ大変なことになってしまったと、明後日に決まってしまったミヤとの戦いに思いを馳せる。雨が降ろうが槍が降ろうが決行されるに違いない。ミヤの言う通り、ヒデ自身もミヤに勝てるとは少しも思っていなかった。それでも、勝利を求める気概は忘れてはいけない。そのためには何が必要かと、弓を傍らに置いて思案し始めた。
それからしばらくして、同日の昼頃、ヒデはミヤとシドの宿へ来ていた。声を掛けてみるも返事を返す人間はおらず、代わりにしんという音が聞こえる。庭のほうから縁側越しに覗いてみるも、それぞれの自室の障子は閉じられていて、いるかどうかはわからなかった。
無人だとすれば、とヒデはその足で村のはずれへと向かう。徐々に涼し気な音が聞こえ始め、少し開けた場所に出た。案の定、そこには捜していた人物が座っていた。
「何の用だ」
振り返りもせず、釣り糸を垂らしたままのシドが問いただす。隣に置かれた魚籠は何も入っていないのか、長い黒髪が揺れるたびに同じようにわずかに揺れ動く。
ヒデは進むのをやめて立ち止まった。
「僕ともう一回戦ってほしい」
「断る」
せっかくの一人の時間を邪魔されたのが癪に障ったのだろう。シドは釣り糸を引き上げると竿にくるくると巻き付け、帰る支度を始めた。
「ミヤからお前の話は聞いている。だが、ミヤは俺のオヤだ。わざわざお前のために時間を割く理由はない」
それに加えて、ミヤがヒデに対して世話を焼いていることも気に喰わないらしかった。釣竿と魚籠を手に腰を上げ、ヒデを睨みつける。
「俺も膳立てしてやる義理はない」
「シドがそう言うのもわかる。でも、僕はミヤさんのことは関係なく、もう一回シドと戦ってみたい」
「断る」
ヒデの脇を通り過ぎ、村へと続く一本道をシドは引き返していく。このままでは勇気を出してシドに決闘を申し込んだ意味がなくなる。誘最強のシドは、ヒデにとってはミヤと同じく勝てる見込みのない相手だ。それでも、ミヤと対峙する前にどうしても去年の雪辱を果たしておきたかった。
もし仮にミヤが自分を認めてくれたとしても、シドに対する燻ぶった気持ちが消えるわけではない。恐らく、この機会を逃せばシドと刃を向け合える日は二度と来ないだろう。
これは、最初で最後の申し入れだ。
「シドは去年、僕に『殺意が足りない』って言った。今なら僕もそう思う」
ヒデの声を聞きながらもシドはその後ろ姿をどんどん小さくしていく。何を言われても受け入れるつもりはないのだろう。だが、ヒデの次の言葉を聞いたシドは足を止めることになる。
「シドだって、あの時ミヤさんに止められて、満足してないんじゃないの。僕を殺すつもりで戦ってたんだよね」
視線をあわせたまま、ヒデはシドに近づく。
「もう一回、やり直そうよ。僕もそう簡単に殺されるつもりはないから」
シドにはそう言い切る瞳が一年前のものとは違うように