141話 薄氷
何も、残らない。
半年に一度あるらしい「奉仕活動」は、クラスの友人から聞いた通り、学校の敷地全ての清掃活動だった。毎朝行われる掃除よりも広範囲で、当然時間も長く午前を丸々それに充てる。教師は普段以上に目を光らせ、少しでも手を止めようものなら時代錯誤甚だしい大声で怒鳴り散らす。
ヒデは何とか監視対象である白河と二人組を作ることができた。今は校外と敷地を隔てる常緑樹の辺りで雑草を抜いている。いつも堅洲村で畑当番をしているヒデにしてみれば、面倒ではあるが、苦ではない。しかし、隣の白河は中腰の体勢がつらいのか、何度も立ち上がっては姿勢を変えている。何度目かの伸びをして再びしゃがみ込んだ白河はヒデに話しかける。
「学校どう? 慣れたか?」
「まだ、かな。ずっと不登校だったから学校自体も慣れてないし、寮生活も微妙」
ケイによって作り上げられた秋岡という虚構の高校生を演じ、台本に書かれた台詞のように話す。どれほど親交を深めようとも、任務さえ終われば全ては無に帰す。嘘を並べ立てることに罪悪感はないが、多少は申し訳なさを感じる。もし仮に白河やその他の友人が秋岡のことを気に入っていたとしても、それはケイが創作した人物でしかなく、ヒデの意思が反映された言動ではない。そう考えると、今の自分に存在価値というものはないように思えた。
「まぁここは同じようなやついっぱいいるし、大丈夫じゃね? 今井も不登校だったって言ってたし」
「そうなんだ。じゃあ、白河くんは何でここに?」
「えーっと、何て言うか」
少し言いにくそうに、言葉を選んでいるかのような一瞬の間をおいて、「機能不全家族ってやつ?」と疑問符をつけて答えた。
白河の家族構成については、ルキから事前に「実の両親は他界しており、今は親戚が保護者代わりをしている」と聞かされていた。実際は両親との血の繋がりも怪しく、母親に至っては実在したかも不明確だが、そこまでの情報は与えられていなかった。多すぎる情報は、ふとした瞬間に不自然な会話をしてしまう原因になり得る。些細なことであれ、不審に思われるような言動は避けるに越したことはない。
今、白河が言った「家族」というのは父親のことだろう。裏稼業を手伝わせるような父親と平和で幸せな団欒の時間があったとは到底思えない。今でこそ自立しているように見えるが、父親と共に暮らしているころはまだ幼く、生活能力もないため逃げ出す選択肢も考えつかなかったに違いない。生まれ育った境遇を恨んでいるかどうかはわからないが、人生に暗い影を落とした父親に思うところはあるはずだ。
「俺のことが邪魔なんだよ。だから全寮制は都合がいいんだ」
今まで同じような会話を同じような言い方でかわしてきたのだろう。白河は父親が獄中死したことを隠したいのか、両親が生きているかのような話しぶりだった。父親が犯罪者だったと知られれば不都合が生じることは想像に難くない。いつの間にか身に着けたであろう処世術を、ヒデは哀れむことはなかった。自分の半生を思い返してみると、白河の置かれた状況は痛いほど理解できた。親からの愛情なんてものはどこか遠い世界にある他人事で、自分には決して注がれることはない。自分ではわかっていても、一縷の望みを捨て去る勇気は当時のヒデにはなかった。どこかでまだ奇跡が起きることを期待していた。今思えば、馬鹿な望みだったなと感じる。「両親は自分のことが邪魔だった」という白河の言葉に思わず「そうだね」と言いかけた言葉を飲み込む。
「そんなことないよ」
当たり障りのないそれらしい慰めをしてみるも、顔が引きつっているような気がして、汗を拭うふりをして手の甲で頬を確かめる。どうやら上手く演じられているようで内心安堵した。
「そう言えば進路希望調査ってもう書いた?」
今までの話をなかったことにするつもりらしく、白河はわざとらしく話題を変えた。
九月の日光はいまだじりじりと皮膚を焼くような熱を放っている。帽子や飲み物が配布され、熱中症対策が取られてはいるものの、屋外担当の何人かは倒れているかもしれないと思うには十分だ。
ヒデは涼しい教室で始業式の日に配られた紙の存在を思い出した。
「吉永は野球選手って書いたらしい。絶対ふざけるなって怒られるのにな」
「まぁ、何事も可能性はないことはないから」
「優しいじゃん。野球なんかやったことないって知ってるだろ」
「幽霊書道部員だもんね」
「そうそう」
けらけらと笑う白河につられて、ヒデも笑う。
隣で数年後を語る青年だが、その思い描く世界は訪れないと言い切ってもいいだろう。十中八九、自分と同じような道を歩むことになる。だが、他の生徒は違う。それぞれの展望の明るさに程度差はあれ、選択肢は既死軍にいる自分よりもはるかに多い。五年、十年先が見えないのはお互いに同じだが、それでも視界に死がちらつく自分よりかは自由がある。
「白河くんは何て書いたの?」
「就職。職種はなんでもいいけど、とりあえず働きたい」
「進学しないんだ」
「勉強したいことも金もないしな。国の奨学金とかあるけど、そこまではいいって感じ。で、秋岡は?」
「何にも考えてないや」
たった一か月しか存在しない秋岡に将来はない。だからこそこの返答は正しく、ケイが考えた通りの台詞だ。だが、ふと「阿清秀」だったときのことを頭がよぎった。
桜が散り、新緑が木々を染め上げるころだった。同じように教室で配布された小さい紙切れには「進路希望調査」と書かれていた。顔と名前がやっと一致するようなクラスメイトに「阿清は?」とぎこちなく聞かれた。あの時は何と答えたのだろうか。将来のない秋岡と同じく「何も考えていない」と答えたのか、それとも何か明るさを感じさせる返答をしたのか、今となっては濃い霧の向こう側だ。
「適当に書けばいいじゃん。どうせ面談で先生が一緒に考えようね! って言ってくれるって。良くも悪くも学生指導手厚いしな、この学校」
白河はそうちらりと背後に視線を向ける。つられてヒデもそちらの方を見ると、遥か後方から厳しいことで有名な教師が一名こちらの方へと歩いて来るのが見えた。教師にはヒデたちがだらだらと作業をしているように映ったようで、遠くからでも自分たちを叱責しようと意気込んでいる様子が伝わる。
顔を見合わせて苦笑いすると、真面目な学生ぶるために黙ることにした。
夜、消灯時間が迫り、どこかから「おやすみ」と友達に挨拶する声が聞こえてくる。ヒデも布団に潜り込み、残日数を数えてみる。明日も退屈でつまらない学校生活を送りながら、白河の監視を続ける。この数週間で白河についてわかったことと言えば、どこか影はあるが、いたって普通の高校生だということぐらいだ。既死軍に属する者は例外なく暗い過去を背負っているのは明白だ。自分には知らされていないだけで、この白河にもケイが白羽の矢を立てるに足る暗い道のりがあるのだろう。阿清秀だった自分も白河と同じく、機能不全家族というにふさわしい親子関係だった。だが、そんなことは誰にも話したことはなかった。
いかに一般的な人間関係というものが薄い氷のようなものか思い知らされる。薄っぺらく、少しの衝撃で簡単に壊れてしまう。たとえ丁寧に扱っても、その形を保ち続けることは難しい。いつかは融けて、跡形もなくなる。
目を閉じたヒデは何度か深く呼吸をして、眠りについた。
「おかえり~!」
ドアを開けるなり、相変わらず明るいルキの声が出迎える。
「戻りました」
「高校生活どうだった~?」
「面倒くさいの一言です」
旅行にでも行けるほど大きなカバンをソファに置き、その横に座る。無事に任務が終わり、秋岡は転校することとなった。最終日には担任が企画したらしく、クラス全員からの寄せ書きが贈られた。一か月いたかいないかのクラスメイトに書くこともないのだろう。半分以上が「元気でね」という何の感情もない言葉だけだった。しかし、何人かは別れを惜しむようなメッセージで白河もその内の一人だった。仲のいい友人として認めていてくれたことに、ヒデは任務が上手くいっていたのだと安堵した。別れ際にも最後まで手を振ってくれていたのは白河だった。
しばらくののち、ルキに報告を終えたヒデはゆっくりと休むことなく堅洲村へ帰って行った。ここよりもやはり自分の部屋の方が落ち着くのだろう。
ルキはヒデが置いて行った荷物の片づけを始める。荷物といっても、私物の持ち込みがほとんど許可されていなかったため、あるのは数着の服と筆記用具ぐらいだ。そんなカバンの中に、見慣れない色紙が入っていた。真ん中にクラスの集合写真が張られている寄せ書きだ。ヒデはあまり顔が写らないように少し伏し目がちになっている。
「ねぇケイ~、お別れの色紙出てきたんだけど~。青春だね~」
「そんなどうでもいい報告じゃなくて、任務の報告をさっさとしてくれ」
はいはいと言いながらもルキはその色紙を読んでみる。
「こういうのってさ~、ヒデは本当は手元に置いておきたいって思ってるのかな~?」
「さあな。どう思っていようが、許可はできない。それに、ヒデは意外と冷淡なところあるから何とも思ってないと俺は思うがな」
ケイの言い分に納得したような返事をしたルキは色紙を脇に挟んで屋上に上がる。洗濯物がはためく屋上からは廃墟となった灰色の街並みが一望できる。ビルの縁に腰掛け、ポケットから取り出したタバコを咥えてライターで火をつける。色紙の角を指でつまみ、目に焼き付けるようにもう一度まじまじと眺めてみる。
時間が経てば、この写真に写っている人間たちは秋岡というクラスメイトのことなど忘れてしまうだろう。たった数日同じ教室にいたというだけで親しい結びつきを強要されて、やはり社会というのは薄っぺらいもので構成されているんだなと思わされる。
「ケイってさ~絆って言葉、好き~?」
「何だよ、突然。報告はどうなってる」
ルキはライターで色紙に火をつけた。思ったよりも燃えにくかったが、一度火がつくとあっという間に思い出を焦がし始めた。徐々に学生たちの文字や顔は焼かれ、無かったことになっていく。指先を舐めるように火が迫ってくる。このまま焼かれて、消えていく。
「報告は後でするからさ~、ねぇ、どう思う?」
「俺は気に喰わん。諸説あるが、元々は動物を繋ぎとめていた綱って意味だ。それを人間関係に流用したにすぎない。結局、人が逃げ出さないように関係を強要して縛り付けてるだけの美辞麗句だ」
ケイらしい言葉にルキは声を出して笑った。
「じゃあ、ルキさんたちには絆があるってことになるね~」
「そうだな」
ルキは指を離した。
黒く燻ぶった色紙の端だけが、風に吹かれることもなく落ちる。ルキは立ち上がり、その紙切れを踏みつけて空を見上げる。
紫煙が青い空に消えていった。