139話 熱波
われわれを欺くのは、常にわれわれである。
大きな部屋に一つだけ掛けられている時計が示すのは早朝五時。太陽はまだ昇りきっていないが、外はうっすらと明るくなり始めている。寮長である男子生徒が「起床!」と絶叫する声に何となく規律の厳しかったどこかを懐かしさと共に思い出す。
ヒデは起き上がりながら「何で僕ばっかりこんな目に」と、朝いちばんにケイを恨まずにはいられなかった。一年ほど前に任務で事件を起こした未成年者が集められている更生施設に入れられたときも、問題を起こさなさそうなのがヒデしかいないからという理由で抜擢されていた。もちろん、今回も同じだ。
今ヒデがいるのは外界とは隔絶されたような平野に建てられた全寮制の私立高校だ。唯一の出入り口である鉄製の正門は固く閉じられ、一日に数回、教員の通勤や業者などが来たときしか開くことはない。外の様子を見ようにも、敷地を囲むように植えられた背の高い常緑樹や植え込みが視界を阻む。
寮は個室を謳っているものの、実際は壁が肩ぐらいまでしかない衝立のようなもので、立ち上がれば隣室の様子は丸見えになる。確かに相部屋よりかは気楽だが、それぞれの部屋にはドアもなく、これを「個室」と呼んでいいのかはいささか疑問が残る。
隣の部屋は同じクラスの生徒で、今回の監視対象だ。伸びをすると、眠そうな目をこすっている隣人と目が合った。「おはよう」と挨拶を交わし、寝間着代わりにしている学校指定の体操服のまま、寮長の後ろについてぞろぞろと外へ出る。
七百人ほどの全校生徒で敷地内の掃除をして、それからやっと朝食の時間になる。私語が許されているだけ更生施設よりマシだなと思いながら落ち葉をほうきで掃き集める。早朝でもまだ爽やかな涼しさには程遠く、昨夜の暑さの名残が纏わりつくようで不快だった。
二日前に夏休みが終わり、始業式と休み明けテストを経て、今日から授業が始まる。
一般生徒だけではなく、不登校生徒や問題行動がある生徒にまで広く門戸を開いているこの高校は、転校生や退学者など珍しいものではない。夏休みの最終週からここに住んでいるヒデは既にすっかり溶け込んでいた。初めは一体どんな人間の集まりなのだろうと思っていたが、生活してみると普通の高校生たちばかりだった。寮監である教師や寮長は規則に厳しいときもあるが、更生施設を経験しているヒデにとっては受け流せる程度だった。しかし、他の生徒は震え上がるもののようで、一部からは肝の据わったやつという認識をされていた。
部屋に戻って、制服に着替えてから教科書をかばんに詰める。どこかに潜入するのは年末の高校以来だった。真新しい制服に真新しい教科書はいつも新鮮な気持ちにさせてくれる。同じ高校でもこんなに校風が違うものなんだなと悠長に考えているうちに、人生で三回目となる高校生活の始まりを告げるベルが鳴った。寮を出るようにという合図だ。
校舎は目と鼻の先にあり、通学する手間がかからないのはこの高校のいいところだ。常に学校関係者に監視されているようにも思えるが、やはり更生施設と比較することで難なくやり過ごしていた。何事も経験してみるものだなと、記憶が薄れているのをいいことに、更生施設での生活を肯定的に捉えてしまいそうになる。
この高校では全寮制だと言うのに私物の持ち込みはごくわずかな衣類と文房具程度しか許されず、外部との連絡手段は学校から貸し出しされている旧式の携帯電話のみだ。教師は通話やメッセージの履歴を見ようと思えば見ることができるようで、迂闊な使い方はできない。更生施設にいる時は教官に扮したルキが色々と便宜を図ってくれたが、今回は協力者もいない独りぼっちだ。
担任による簡単な朝礼の後すぐに始まった一時間目は古典の授業で、教室は早速気だるげな空気感に包まれる。クラスの半分以上は授業に興味がないか、理解できていないかのどちらかだが、かといって不真面目さを出してしまうと教師にこれでもかというぐらい叱られる。それを回避するための処世術として、生徒たちは黙々とノートを取っていくだけだ。白かったノートがいかに黒く埋められようとも、それが脳内に蓄積されているとも限らない。
相変わらず任務前に慌てて覚え込んだことが奏功してか、ヒデはどの科目も難なく理解できた。それどころか、思ったよりも簡単で助かったなと思う余裕さえある。
黒板にチョークが当たる音や、時折思い出したように風力を強めるエアコン、どこかの教室から聞こえる教師の怒号、本来であればこれが日常である年齢のはずなのに、ヒデにとっては非日常そのものだった。そんな世界に、少し離れた席に座る今はまだ普通の生徒として生きている彼を連れて来るのかと思うと、多少は気が引けた。
ヒデが任務を始める数週間前、チャコが死んで早々にミヤは書類の束を手にケイの宿へ来ていた。パソコン作業の一切をイチに任せ、ケイは手渡された資料を読み始める。窓から吹き込む風はまだ熱気を含んでいて、晩夏とはいえ、引きずるような暑さがケイの伸び切っただらしのない髪を揺らした。
「これはまた、すごいのを見つけてきたな」
呆気にとられたような表情でケイは視線を上げた。机を挟んで前に座るミヤはあっけらかんと冷たい茶をすすっている。それどころか、どこか得意げだ。
「死体を探すのは得意なもんでな」
「第十四区役所放火事件で個人情報が燃えた内の一人とはな。名前も誕生日も、当然、家族構成や来歴も本当なのか不確定だ」
「全部燃えたからな」
ケイの不安を知ってか知らずか、ミヤは他人事のように笑って見せる。
「パソコンもあまり普及してなかった当時は全てが紙。そりゃ炎との相性は最悪だ。まぁ電子化が急速に進んだきっかけではあるが、死者はいなかったとはいえ、被害を考えると感謝は少しもしていない。軍内でも書類管理の規則が厳しくなって、とんだとばっちりだった」
懐かしい思い出を語るような口ぶりのミヤだったが、急に何かに気付いたように表情を変える。
「そういえば、この放火犯って今どうなってるんだ」
「十年で娑婆に出て、そのあと忽然と姿を消した。さて、今はどこにいることやら。どこぞの山でも掘ってみたら真相がわかるかもしれんな」
はぐらかしたような答えに、ミヤは思い当たる任務が一つだけあった。頭主に報告するときに全ての任務内容には目を通すようにしているが、詳細を知っているわけではない。それでも、「この男もきちんと闇に葬られるのか」と安心した記憶があった。既死軍が絡んでいる以上、世間では失踪扱いとなっている。そんな「表向きの設定」を未だに覚えて律儀に守っているケイを、ミヤは小馬鹿にしたようにわざとらしく鼻で笑う。
「まるで全部知ってるかのような言い方だな」
「この国では自業自得って言葉は使い勝手がいい。法律で裁けないなら、謎の失踪を遂げてもらうまでだ」
今はどこかの山で木々の栄養分として新たな生を育んでいるであろう男が引き起こしたのが、役所の放火事件だった。溜まりに溜まった国への鬱憤の炎で灰燼に帰したものは書類だけではない。
ミヤに笑い返し、ケイは「で、この第一候補のやつなんだけど」と話を戻す。
「一応、今まで既死軍に来た人間は全員生い立ちから人間関係まで全て身元を洗っている。だからこそ、こんな不確かな人間を入れるわけにはいかない。ヤヨイがきれいさっぱり忘れさせたとしても、何が引き金で過去を思い出すかわからない」
自分の言うことならすんなり受け入れるかと思ったが、「情報統括官のケイ」は一筋縄ではいかないようだ。既死軍ではただの宿家親であるミヤより、ケイのほうが立場が上になる。つまり、決定権はケイにある。
ミヤは腕を組んで、難攻不落そうに見えるケイをどう攻略したものかと考える。
「最近ならキョウという前例もいるし、ケイの言うことも一理ある、か」
「まぁこいつではないにしろ、誘は新しく入れるのは賛成だ。その場合、宿家親は誰にする。リヅヒかゴハか、別に俺はジンでもいいけど」
「順当に考えるならリヅヒだな。二年ぐらいは一人だろ」
その何でもない「一人」という言葉にケイは心臓を刺された気がした。宿家親が一人で生活しているということは、つまり誘がいないということだ。まだチャコが命を落として日が浅く、ケイにはどこか責任を追及されているように思えた。
宿家親は誰も等しく誘を亡くしている。別れ方はそれぞれだが、救える誘もいたのではないかと今でも後悔するときがある。ミヤに言わせれば仮定の話は自分にとって都合がいいだけの優しい世界だ。そんな世界に閉じこもることができたらどんなに楽だろうかと、昔は言われたそばから仮定の世界を構築していたものだ。だが、やはりミヤの言うことのほうが正しいと今は思える。
「こんな曰く付きは、ミヤが見てくれるのが一番だけどな」
「リヅヒで決定でいいだろう。人間観察には長けているやつだ」
ケイからの申し出を聞かなかったことにして、ミヤは茶を一口すすった。冷たかったはずの茶は、既にぬるくなっていた。