138話 平行線
疑心の中に、何を見る。
元帥が皇の元へ向かってからちょうど一時間後、変わらない様子の元帥が禁裏庁長官である星宮と連れ立って戻って来た。その姿を認めたミヤは内心胸をなでおろす。こんな白昼堂々、側近である自分が近くにいるところで何か事が起きるとも思えなかったが、やはり心のどこかで杞憂では済まないかもしれないと考えていた。
型通りの別れの挨拶を済ませると、さっさと車へと引き返した。
無事に禁裏を後にした元帥とミヤは、陸軍本部ではなく元帥の私邸へと向かう。車内での会話はなく、ただしんと静まり返った時間が流れていく。この静寂を経験するたびに、シドが無口なのは自分の教育や育った環境だけではなく、父親である元帥の性格も大いに遺伝しているのだろうなとぼんやり考える。やはりシドは元帥の血を引いているのだと、沈黙にすら当然の事実を突き付けられているように思えた。
帰宅した元帥はいつも通り、その足で喫煙場所の一つとなっているサンルームへと姿を消した。その間にミヤは台所で茶を一人分淹れる。蒸気を噴き出しているやかんから熱湯を急須に注ぐと、茶葉の香りが広がった。緑茶は沸騰させていない湯のほうがいいらしいが、そんな温度を気にして飲んだところで、無粋な自分に味の違いなどわからないだろうと知らないふりを決め込んでいる。
熱い湯のみを盆に乗せ、元々は女中の休憩室として使われていた部屋へと入る。ここはミヤが自由に使える部屋だ。部屋と言っても四畳半ほどの広さで、家具も何もない。壁にもたれるように胡坐をかき、畳に湯飲みの乗った盆を置く。
数分後には元帥から、皇との会話内容の報告を受ける。一番の望みは皇がロイヤル・カーテスを終わらせることで、次点は共通の敵である蜉蒼を倒せるように手を組むことだ。既死軍が無くなることは全く望んでいない。もしロイヤル・カーテスが解散することの交換条件が既死軍の解散だとしたら、それは受け入れることができなかった。普段は学生や社会人をしているロイヤル・カーテスの面々と違い、既死軍の人間は既死軍だけが居場所だ。書類上死んでいる人間たちには他に行く当てなどあるはずもない。そのような境遇を意図的に作り上げたのにはいくつか理由があるが、やはり一般社会に戻れなくしておいて正解だったなとほくそ笑む。既死軍の人間は宿家親も含め、最早、今際の際まで戦う運命しか残されていない。それは全て頭主が理想とする世界を実現するためだ。
だが、元帥の纏っていた空気感から、都合よく事が運んだ様子は感じられなかった。
窓からまだ日の高い空を眺める。今頃堅洲村でシドは何をしているのだろうか。この時間帯であれば、何も予定がなければ寝ているのだろうなと、見慣れた寝顔を思い起こす。少なくとも週の半分は堅洲村に帰るようにしているが、この一週間ほどは帰れていない。四六時中相手をしなければならないような年齢でもなければ、不在の言い訳をしなければならないような関係でもない。それでも、自分が堅洲村に帰るまでに何か不測の事態が起きないことはない。先日の怪我は完治したものの、久々の大怪我にせめて死に際ぐらいはそばにいてやれたらと改めて思わせられた。
十分ほど経ったころ、ミヤは立ち上がり再び台所へ向かった。今度は二人分の茶を淹れ、葉山の書斎に入る。
来客用のソファに座っていた葉山の正面に腰を下ろし、湯呑をテーブルに置く。
「端的に言えば、現状維持だ。お互いの主義主張を譲る気もなければ、折衷案もない」
ミヤが座るが早いか、元帥は今にもため息を吐きそうな様子で手短に報告を済ませた。
謁見は人払いをしたのち、驚いたことに皇が御簾を上げて顔を見せたということだった。久方ぶりに見るその顔はケイの言う病のせいか、それとも単純に加齢のせいか、以前見た時よりも幾分かやつれているようだった。
表向きは帝国軍の近況報告ということになっているが、そんな報告書で済むような話をわざわざしに来たわけではないことは皇も理解していたようだった。お互いに私有軍の名前こそ出さないものの、牽制し合うような会話が続いた。
ミヤは、やはり仮定の話など考えるものではないなと淡い期待をすぐさま脳内のゴミ箱に丸めて捨てた。
「結論が簡潔で助かります。予想はしていましたが、皇もなかなかに頑固ですね」
「お互いに死人を出している。引くに引けない乗り掛かった船だ。最早どちらかが沈むまでは終わらん」
「しかし、元からこちらに手を出さなければ、チャコもヴァンも、出なかった犠牲ではありますがね。被害者面をされても困ります。一切を元帥に任せておけばお心を煩わせる必要もないのに、皇はなぜ」
「樹弥も言うようになったな」
そう言われたミヤは顔をしかめながら腕を組んでソファの背もたれに身体を預ける。皇は聡明で徳の高い人物だと聞き及んでいるが、会ったこともない人間の人となりなど知る由もない。今のミヤにしてみれば、皇は既死軍の邪魔をするロイヤル・カーテスを率いる総大将のような存在だった。
呆れたようなミヤとは反対に、元帥の顔にはどこか愁いを帯びたような影が落ちている。
「私たちが御簾を隔ててきた時間はあまりにも長い。樹弥が思っているよりも、はるかにな」
「葉山さんが信用できない、ということですね」
元帥ははっきりとした返事をせず、一口茶をすすった。まだ熱湯のような熱さを忘れていない茶が喉元を通りすぎて腹に溜まっていくのが感じられる。熱はすぐには冷めてくれない。
「皇は何か勘違いをしているのでは? 元帥が皇の配下である以上、俺たち軍人も、当然既死軍だって広義で言えば皇のもので、脅威ではないはずです。実際、既死軍は皇家不要論を唱えている人間も始末対象です」
「どうやら、私のその考えは御簾の向こうまで届いていないようだ。私は一度も皇が邪魔だと思ったことはない。まぁ軍内ではどういう考えの人間がいるかは知らないが、少なくとも私は元帥として皇を守って死ぬ覚悟はあるし、帝国軍人にはそうあってほしいと願っている。帝国には皇が必要だ」
「俺も皇は存続派です。帝国民のために、この国の神として君臨し続けてもらわなければなりません。ですが、軍事に関しては口を挟まないでいただきたい。皇が命を賭すべきは最後の一人までをも護ることであって、百人を斬るのは元帥をはじめとする軍人の仕事です」
お互いに現状を打破するための策をあれこれと頭の中で考えてみるも、一向に名案は浮かばなかった。さっき元帥が言った「乗り掛かった船」という言葉がよく今の様子を表していた。
「そもそも、元帥という立場の人間が目障りであっても、その存在を作り出したのは皇家です。皇が元帥を兼ねなくなった原因は紛れもなく、第二次世界大戦の失態がきっかけです。当時も帝国は類のない強さを誇っていたはずですが、皇に軍事の才がないお陰で苦戦を強いられたことに間違いはありません。今でも、皇を批判する気は毛頭ありませんが、葉山さん以上に軍事能力に長けているとは思えません」
「今更八十年も前の話をしても仕方がない。樹弥は仮定の話は嫌いだったはずだろう」
「そうですが、芸は道によって賢し、です」
つい先ほど「もしも」の世界を想像していた自分を戒めたはずだったのになとミヤは息を深く吐き出す。これ以上は話しても埒が明かないことだとミヤは話題を変える。
「それはそうと、皇がご病気というのは、葉山さんから見てどう思われましたか」
「私にはわからない。医師なら見るだけでわかることもあるのかもしれないがな」
表情や纏っている空気感はそのままだが、わずかに声色に変化があったように思えた。皇は頭主としては煩わしい相手だが、元帥としては守るべき対象だ。しかし、いくら堅牢に守ろうとも武力では病に敵わない。その複雑な心情や無力感が声に現れているのだろう。
「禊には引き続き病について調べるようにと伝えておいてくれ」
「わかりました」
「私からは以上だ。あとは秘書にやらせるから、樹弥は帰ってもいい」
その言葉通り、立ち上がろうとしたミヤを元帥がすぐさま「樹弥」と引き留めた。何か言い忘れたのかとミヤは再び座り直す。
「時の流れとは、早いものだな」
珍しく感傷的なことを言うものだと思わず目を瞬かせた。久方ぶりに皇に会ったことで何か思うことがあったのだろうと、短く「そうですね」と同意する。
「樹弥は、これから既死軍はどうなると思う」
「どうなるはわかりません。ですが」
間髪入れず返事をした。三つ巴ともいえる現状では、楽観的にも悲観的にもなれない。まさに明日も見えない五里霧中の状態だ。それでも、ミヤには一つだけはっきりと言い切れることがあった。まっすぐに元帥の目を見る。
「俺とケイがいる限り、既死軍は決して終わりません。俺たちが葉山さんの意志を共に貫きます」
このミヤの燃え盛るような瞳を元帥はもう何年も見ている。
同志は今までに何人もいた。だが、ひとり、また一人とその姿はこの世から消えていき、今もなおそばにいるのは最早ミヤだけとなっていた。元帥にとっては唯一にして腹心の部下と言える。
ミヤの言う通り、今後のことなど誰にもわかるはずがない。皇と腹を割って話したつもりでも、わだかまりの残る結果となった。将来が明るいという希望的観測すら今はできない。それでも、自分たちにとって都合のいい未来を想像しないことには、一歩も踏み出すことはできない。
自分に向けられる視線に応えるように元帥はうなずいた。