137話 水面下
徳は孤ならず、必ず隣あり。
百年近く前に建設された陸軍本部の廊下をミヤは早足で歩いていた。何度か補修されてはいるが、それでも古さを隠しきれない窓からは晩夏の明るい陽射しが降り注いでいる。
すれ違う人々はミヤに道を譲り、軽く頭を下げる。しかし、通り過ぎたあとからは「うわ、機嫌悪そう」「いつも通りだろ」といった類の隠しきれていない話し声が聞こえてくる。
「そういえば反葉山派のヤツ、また逮捕されてたよな」
「大佐に直接鉄拳制裁されるより良心的だよ」
「言えてる」
「かなりの人数殴り殺してるらしいじゃん」
「お咎めなしどころか、揉み消してもらえるんだからいい身分だよな」
小声なのをいいことに、又聞きに又聞きを重ねたような出所不明の話題をくすくすと笑っている。そんな横並びで歩いている二人はミヤに聞かれているとも知らず、角を曲がって姿を消して行く。わざわざ相手にするほどでもない有象無象だと聞こえないふりを決め込む。
戦時下では英雄でも、平時は悪評が先行する。一部には熱狂的ともいえる支持者はいるが、軍内でのミヤこと縊朶樹弥は嫌われ者に違いなかった。だが、ミヤにとってはそんな評価などどうでもいいことだった。元帥の強大な庇護に胡坐をかいている自覚はあるが、それでもこの年齢で大佐まで上り詰めるには陰口を叩いているだけの人間とは一線を画す働きをしてきたつもりだ。
ミヤは元帥の執務室をノックして入室する。
「ご報告が二つあります」
元帥以外に誰もいない部屋で、ミヤは入るなり話を始める。内装に見劣りしない机の前に立ったミヤは背中で腕を組み、元帥は待っていたかのように机に肘を置いてミヤを見上げる。
「まず、皇への謁見ですが三日後に決まりました。これはお話になる内容が内容なので、秘書ではなく私がお供します」
「よく日程の調整がついたな。禁裏庁も丸くなったものだ」
「そうは仰いますが、様式美のように一度目は拒否されています。しかし、元帥閣下の謁見を断るとは」
ミヤは続けて「相変わらず、いい度胸ですね」と吐き捨てるように笑った。
ロイヤル・カーテスはその言葉を借りるならば皇の意思が大いに反映されている皇軍だ。元帥にしてみれば、正規の帝国軍がある以上、そのような私設軍、つまり武力を皇が持つことは阻止しなければならない。同じく、既死軍の頭主の立場としても、ロイヤル・カーテスはいないに越したことはない。
以前ミヤが冗談めかして言った「元帥から皇を説得してくれ」という話は頭主とミヤ、そしてケイの総意で実現へと進められていた話だった。表向きは元帥が謁見するということになっているが、実際に話す内容は皇軍と賊軍についてのことだ。
既に臨戦態勢のミヤの瞳の奥には今にも噛みつきそうな炎が見える。
「そう牙を向けてやるな」
「失礼しました。それから、二つ目ですが」
あっさりと炎を消したミヤは少し足の位置を動かし、軽く息を吸う。今から口にするのはまだ確認の取れていない話だ。もしかすると取り越し苦労になるかもしれないが、伝えないわけにはいかなかった。
「その皇が、何かしらの病に侵されているようです」
明らかに驚いた表情をした元帥はただミヤを見つめるしかできなかった。珍しく冷静さを欠いたような視線を受けながらミヤは淡々と続ける。
葦原中ツ帝国は明御神である皇が造り、統治する国で、帝国民にとっては絶対的な神のような存在だ。当然、皇に関する情報は畏れ多いものとして世間一般に出回ることはない。その顔も声も、限られた人間しか知ることはなく、元帥ですら基本的には御簾越しでしか謁見を許されない。だからこそ、国家を揺るがす一大事ともいえる病気のことなど元帥もミヤも初耳だった。
事態を短時間で飲み込んだ元帥は何度か瞬きをする。
「現時点では真偽不明ですが、私は事実ではないかと考えています。うちの情報筋は優秀ですし」
ミヤは自分の最後の言葉にふっと小さく笑う。その情報筋というのが既死軍のケイであることは、元帥ははっきり言われずとも理解していた。ミヤに賛同するように浅くうなずき、落ち着きを取り戻そうと椅子に座り直す。
「それで、その病というのは」
「調査中です。とりあえず、私が把握していることをお伝えしておきます」
その後、ミヤから伝えられたのは、病名こそ不明であるものの、今すぐ病状が急変するようなことはないとのことだった。しかし、長く患っているようで、最近発病したようでもないらしい。
そこまで聞いた元帥は考え込むように腕を組んだ。用件を全て伝え終わったミヤはぴくりとも姿勢を変えず、元帥の言葉を待つ。
最近の皇の動静は、いささか不審に思える点もある。気のせいだと受け流してしまえるほど些細なことでも、今は全てが何かの糸口に見えるようだった。
「もし樹弥の話が本当ならば、合点のいくことも多くある」
「私も、元帥閣下に同意します」
元帥が言わんとすることにミヤはうなずく。時期にすれば二年ほど前、なぜ皇が急にロイヤル・カーテスなどという組織を作ったのか長らく不思議だった。たびたび起こる蜉蒼のテロ行為に加え、元帥の私設軍が暗躍しているのは国を統治している皇にすれば面白い話ではないだろう。しかし、蜉蒼も既死軍も今に動き始めた組織ではない。大々的に活動している蜉蒼はともかく、決して陽の目を見ることにない既死軍の存在をいつ知ったのかは知る由もないが、長く見て見ぬふりを決め込んでいたのは事実だ。それを看過できなくなったのには何かきっかけがあるとは常々思っていたが、病身であることを考えると、事を急ぎ始めたのにも納得ができる。
お互いにロイヤル・カーテスについて話したいのは山々だが、軍内でする話でもないだろうとミヤは早々に話題を切り上げた。
「私からは以上です。これから禁裏庁で謁見について詳細を詰めてきますが、何かご要望はありますでしょうか」
「いいや。樹弥の思う通りにしてくれ」
「承知いたしました。では、後ほどご報告いたします」
一礼してミヤは部屋を後にした。陸軍の大佐として元帥に会うときは軍に関する話だけをしていれば済むため、話し方は厳めしくなるものの、精神的には気楽だった。
しかし、元帥の執務室を一歩出れば、そこは敵の方が多い世界だ。誰からもチラチラと鋭い視線を向けられる。
ミヤは先の戦争では十分すぎるほどの武勲を立て、帝国に勝利をもたらした功労者の一人といっても過言ではない。当時から既に世界有数の軍事国家ではあったが、それでも葉山やミヤの所属していた隊は群を抜いていた。畏敬の念をもって接してくる人間が多いときもあったが、最早、戦時下でのミヤの働きを忘れ去ってしまった人間や、そもそもの功績を知らない人間が増えて当然といって然るべき年月が過ぎてしまった。ミヤ自身も特に称賛が欲しいわけではなかったが、今の平和な日々があるのは一体誰のお陰だと、たまには悪態もつきたくなる。
時間の流れとは残酷なものだなと前髪を掻き上げて軍帽をかぶり直し、来た道を戻る。停めてあった車に乗り込むと、禁裏庁へとアクセルを踏んだ。
禁裏庁は皇が生活する禁裏の敷地内にあり、皇に関係する一切を取り仕切っている。大佐とはいえ、一介の軍人に過ぎないミヤにとっては謎に包まれた部分が多く、ここへ出向くのは気が進まなかった。
敷地外にある駐車場でエンジンを止めたミヤは小さく「葉山さんの邪魔をするな」とつぶやき、車を降りて乱暴にドアを閉めた。
それから三日経ち、謁見の日になった。元帥を乗せたミヤの車は前回とは違い、禁裏庁の敷地内に駐車した。帝国で最も厳しいのではないかと思われる身体検査をやり過ごし、やっと通行が許可された。元帥と言えども、この過程を省略することはできないことからも、禁裏が普通ではない秘匿された世界であることが窺える。
「お久しぶりですね。葉山元帥閣下」
二人を出迎えたのは、にこにことした人当たりの良さそうな細身の男だった。禁裏庁の長官で、年は葉山とさほど変わらないが、どこか高貴さを纏い若々しく見える。
「本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます。星宮長官もお変わりなく」
会釈を返した元帥もにこやかに笑って見せる。よそ行きの作り笑顔だとはわかっていても、滅多に拝めるものではないとミヤはその穏やかな表情を斜め後ろから見つめる。しかし、すぐに自分に向けられた視線に気づいてそちらへと意識を動かす。
「それでは、縊朶大佐殿はこちらで」
その言葉は「お引き取りください」の意味を含んでいる。ミヤがここで元帥と別れることは事前に合意の上だったが、いざ実際に言われてみると不愉快さが残った。
崩れることのない張り付いたような表情が不気味で、ミヤはこの男が苦手だった。だが、感情のままに噛みつくわけにもいかず、大人しく「承知しました」と睨みつけるように視線を合わせた。
徐々に小さくなっていく元帥と長官の背中を見送り、ミヤは壁際に移動する。別室で待機してはどうかと禁裏庁からは提案されていたが、元帥にもしものことがあった場合は禁裏といえども駆けつけなければならない。ミヤが待機できる場所で謁見の間から最も近いのはここだった。
どのような方法を使ったのか、ケイが入手した極秘であるはずの禁裏の地図を脳内に思い描き、今の元帥の位置を把握する。禁裏では拳銃の携行も、軍刀の帯刀も許されていない。とはいえ、暴漢が襲ってこないという保証もなければ、禁裏庁の人間たちを全面的に信頼しているわけでもない。元帥の強さは知っているが、不意の攻撃で命を落とした人間も知っている。そばにいれば防げるはずの凶行が起きないことを、今はただ祈るしかない。