表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Blackish Dance  作者: ジュンち
136/208

136話 内省

その感情は、本物か。

 真夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだ暑さはしぶとく残っている。降り注ぐ蝉時雨が気温を上げていくように錯覚させる。

 ヒデは陽射しから逃げるようにしながら庭の日陰で木刀を振っていた。弓であればいくら練習しようが今更もう手にマメもできないが、剣術となると勝手が違う。それを努力の証しだと言う人もいるが、そんなのはただの慰めで、大方握り方が悪いだけだろうと不意の痛みに手を止める。今晩にでも自分で処置をしようと思っていたマメが潰れていた。

 休憩するいいきっかけだと顎から滴る汗を拭い、縁側に座った。太陽は少し傾き始め、影が先ほどよりも伸びている。吹き抜ける風は生ぬるいが、汗を冷やすには十分だ。

 どれほど鍛錬を積もうと、どれほど汗をかこうと、満足できる日は来ない。自分に必要なことは心身の成長だとわかってはいるが、どうすればいいのか、五里霧中の状態だった。空から自分の手のひらに視線を落としてみる。既死軍(キシグン)へ来る前よりも手が汚れているように思えるのは、何も今しがた潰れたマメだけでも、今までの怪我の名残だけでもないだろう。

 手をぐっと握って見なかったことにしたヒデは立ち上がった。庭から土間に回ってアレンに声を掛けると、ブリキのバケツを手にそのまま川の方へと向かった。

 この時間帯はまだ暑く、元々住んでいる人数も少ないこともあって誰ともすれ違うこともなく滝壺からは少し離れた場所に着いた。涼むには滝壺が一番だが、シドがいるかもしれないと思うと足はその場所に向かなかった。日陰になっている川岸に腰を下ろし、足を川の流れに浸ける。水面は少しぬるさを感じたが、底のほうは冷え切っていて冷たすぎるほどだった。何度か足先を動かし、バシャバシャと水音を小さく立ててみる。空気を含んだ小さな泡は、できたかと思うとすぐに川下へと流れ去っていく。

 ヒデは絶えることのない流れをぼんやりと見つめる。一人になれる場所は堅洲村(カタスムラ)にはいくらでもある。今は自ら望んで一人になりに来たが、どこか物寂しさを感じた。

 何をしても満ちることのない虚無感の理由は、はっきりとわかっていた。

 チャコの死は受け入れたつもりだが、それでもやはりすぐに慣れるものではない。ふとした瞬間に形容できない感情が胸を圧迫し、渦巻くような分厚い雲ができるように思えた。たった数日では克服できるものではないんだなと、目頭が熱くなる感覚がした。

 川の水も空の雲も(とど)まることなく遠くへと流れていく。

「珍しいな、こんなところに誰かがいるなんて」

 足音に振り返ると、堅洲村(カタスムラ)では久し振りに見るヤンだった。制服ではない普段着の様子は、どこにでもいる青年にしか見えない。

「僕も畑当番だから、先に水汲んで行こうと思って」

 ヤンも同じくバケツを持っているところを見ると、ここへ来た理由もすぐにわかった。返事をしたヤンはヒデの隣に座り、靴を脱いで同じように足を川に入れた。

「今日はあとノアがいる。やっぱりこれぐらいの時間だよな」

「まだまだ暑いもんね」

 他愛のない話題はいくつかあるものの、そんなことを話す気分にはなれなかった。ヤンも座ってしまったことをどこか後悔しているようだ。二人は黙ったまま気まずそうに居心地の悪い無言の時間を過ごす。

 生暖かい風が一条吹き抜けた。

「チャコじゃなかったんだよ」

 過ぎ去る風に乗せるように、ぽつりとそうこぼしたヤンの顔は思いつめたように暗く影を落としている。

「シドを守って死ぬのはチャコじゃなかった。俺のはずだった」

 返す言葉も、反応も、何が正しいのかわからず、ヒデはただ静かに水面を見つめる。

「あの瞬間、シドは死んだと思った。俺はシドのために生きてるのに『その時』に間に合わなかったと思ったんだ。正直に言うと、チャコには何してくれてんだって腹が立ったよ。俺の役目のはずだったのに」

 ヒデは川から足を上げ、膝を抱える。まだ既死軍(キシグン)に来たばかりのとき、ヤンが射撃場で話した内容をはっきりと覚えていた。他人のために生きて、他人のために死ぬなど、当時のヒデにとっては衝撃的で理解しがたい考え方だった。まだ完全に納得できたわけではない。だが、今ならヤンの気持ちは少しは汲み取れるように思えた。

「俺さ、あの時、ヒデに聞かれただろ。シドが死んでも俺たちは仲間じゃないって言えるのかって。俺は今でも、答えは間違ってなかったと思ってる。けど」

 ただ耳を傾けるだけのヒデは、自分と同じではないにせよ、チャコの死にヤンも少なからず影響を受けていることに安心感を覚えた。あの夜、感情がないように見えたヤンも、やはりまだ人間らしさを持っていたらしい。

「シドが死んだときのことなんて考えたこともなかったんだ。俺はシドを守って死ぬ。シドが死んだあとの世界には存在し得ない。だから、実際にその場面を目の当たりにしたとき、何て言うのかは今の俺にはわからない」

 ヤンは自分をなだめるように一呼吸置く。考えを整理しているのか、言葉を続ける口は重い。

「もしかしたら、いつかは本当にシドがいない日が来るのかもしれない。俺が望んだ通りには世界は回ってないって、そんなの、わかってたはずなのにな。俺の望み通りの世界なら、俺はそもそもこんなところにはいない」

 ヒデにはヤンが何を思い出しているのかよくわかった。詳細を聞いたわけではないが、既死軍(キシグン)へ来る前にヤンは自殺未遂を起こしていることは知っている。ヤンはきっとその原因がない世界、もしくはそれに成功した世界、そんなあり得もしない架空の時間に思いを馳せているのだ。

 一瞬、間を作ったヤンはふっと笑う。

「まぁ、おかげでシドに会えたから俺はこれでいいと思ってるんだけどな」

 当然、ヒデにも既死軍(キシグン)へ来なかった世界線への分岐点はあった。だが、選択を誤ったとは今は思えない。ヤンも同じ気持ちなのだろう。道程は違えど、至った場所は同じもの同士だ。

 水面に映る影は段々と、しかし確実に長く伸びていく。

 しばらく黙っていたヒデはやっと口を開いた。

「僕はヤンの気持ちがわからなかった。目の前でチャコが死んでるのに、僕より付き合いの長いヤンが何で仲間じゃないって言ったり、任務を優先したりするんだろうって、びっくりしたし、不思議だった」

 冷たく濡れていた足先もすっかり乾き、体温が戻り始める。血色のいい肌色は最期のチャコと対照的だった。

「けど、咄嗟にでもその行動をとれたヤンは、何て言うか、その」

 自分が今から言おうとする言葉に、ヒデは多少の恥ずかしさを感じる。何度か「えーっと」と躊躇した挙句、ボソッと小さく「かっこよさがあるなって思ったよ」と呟いた。

 はっきり聞き取れなかったのか、初めはきょとんとした表情のヤンだったが、何を言われたかにしばらくしてから気付き、声を上げて笑った。

「任務中ってさ、何か自分じゃないみたいだよな。まぁ本当の自分って何だって聞かれてもわかんねぇんだけどさ」

 肯定も否定も、感謝もせず、ヤンはひとしきり笑うと、先ほどまでとは打って変わって穏やかな顔になる。

「あの時、シドは生きてた。だからシドの怪我よりも、チャコの死よりも、任務の遂行を優先させた俺の判断は既死軍(キシグン)として正しかった。けど、ヒデが欲しかったのは、既死軍(キシグン)としての正しい答えじゃなかったんだろ」

 今更になって、ヒデは自分の発言は幼稚だったなと顔を赤くした。事実を受け止め、それに対する最善策を即座にとるのが正しい行動だ。あの場面で自分に対して慰めや励ましなどあるはずがないことぐらい、今なら簡単にわかる。だが、そんな正解を導き出せる境地には、ヒデはまだ至っていなかった。

 首を縦にも横にも振らないヒデから視線を外し、ヤンは遠くの空を見上げる。

「確かに俺はヒデよりも既死軍(キシグン)の人間が死ぬのを見てきたから、チャコの時も、そりゃ思うところはあったけど、でも仕方ないことだってやり過ごせた。俺はこれからも仲間じゃないって言うし、既死軍(キシグン)として正しいと思う判断をする」

 晴天を仰ぎ見るヤンの横顔は清廉さを纏っている。シドのために生きると決めた人生をこのままヤンは走り続けるのだろう。自分の命すら捧げるヤンには、感情などは「仕方のないこと」として心に封じ込めるだけの力がある。ヒデはその言い分が正しいことも、自分が目指すべき思想なのだということも理解している。それでも、まだ感情を殺すことはできないし、自分にはそんな日は来ないんじゃないかと唇を噛む。

 苦悶するような空気感をにじませるヒデにヤンは目を合わせる。脳内が何に支配されているのかは一目瞭然だった。出会ったときから変わらず、いつまでも優しすぎるやつだなとヤンは気付かれない程度に笑う。

 このまま立ち去ることもできる。しかし、誰にも吐露できない心情をヒデになら伝えられる気がした。普段から強がっているわけでも、虚勢を張っているわけでもない。それでも、先ほどまで明るく笑っていた人間が突然、未来永劫その明るさを失ってしまうのは慣れるものではない。

「俺たちは人殺しだから、こんなことを言う権利はない。けど、今だけはさ、ここまで話したんだ。ついでに、全部取っ払って、言わせてくれ」

 今までにない声色に、「ヤン」になる前の人間性が見えたような気がした。

「俺も悲しいし寂しいよ。誰であれ、死ぬのは辛い」

 そう言い切ったヤンは手元にあったバケツと靴を持ち、立ち上がる。川にバケツを沈め、縁までなみなみと水を湛えさせる。

「じゃあ、俺は戻ってるよ。ノアが待ってるからヒデも早く来いよ」

 何事もなかったかのように、振り返ることもなくヤンは去って行った。その後ろ姿を見送ったヒデは、視線を落として自分の手のひらを開いて見た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ