135話 一途(いちず)
不動の、信頼。
ヒデは沈痛な面持ちで宿の玄関を開けた。アレンの顔を見た途端、我慢してきた感情が溢れた。いつもの挨拶を口に出すことも、ブーツを脱ぐこともできず、土間に膝と手のひらをつく。
上り框に正座したアレンは小さくうなずきながらヒデが言わんとする言葉を待った。ケイから既死軍全員に宛てられた無線で既に何があったのかは知っていた。何と声を掛けるかは思案していたが、いざヒデの様子を目の当たりにすると、ただ見守ってやるのが正解のように思えた。
「ただいま、帰りました。僕は、帰って、来ました」
相変わらず涙もろいんだなと多少の困り顔をしたものの、アレンはただ優しくその姿に眼差しを向ける。
「アレンさん、何で人が死ぬのって、こんなに苦しいんですか。僕は、今までたくさん人を殺しました。その人たちにだって過去があって、大切な人がいて、守りたいものがあったはずです。僕はそれを全部無視して、殺しました。なのに、何で、チャコのときだけ、こんなに」
拭いきれない涙が滴り落ち、土間の色を濃く塗りつぶす。それは後から後から範囲を広げ、乾くことはない。
「泣いたって仕方ないのも、過去が変わらないのも、わかってます。アレンさんを困らせてるのも、当然わかってます。けど、僕はみんなほど、強くないんです」
そこまで言うと、ヒデは押し黙った。感情を抑圧することも、解放することも悪いことではない。経験したこと全てがその人間を形作る基となる。
土間が少し乾き始めたころ、アレンはやっと口を開いた。
「知らないほうがいいこともあるとは、魔法の言葉ですね」
その言葉の意味を飲み込むように、ヒデは唇を噛む。他人の人生に深入りすることの意味が、その重大さが、顔を曇らせる。
「ヒデくんの今の苦しみは、チャコくんを想うからこそ湧き出るものです。既死軍の人間はお互いのことを詳しく知りません。本名も、過去も、全てを捨ててここへ来るのはそのためです。知ってしまうと情を持ってしまう。情を持つと、失ったとき辛くて悲しいものです」
今まで何人を見送ってきたのか、重みのあるアレンの声はヒデを満たすには十分だった。ズタズタに切り裂かれた心が、ほんのわずかに快癒されたような気がした。
「だからこそ、私たちは仲間ではありません」
だが、そんな温かさもつかの間、ヒデははっと顔を上げる。その拍子に瞳に溜まっていた大粒の涙がこぼれた。
「仲間というのは、同じ目的を持ち、それを成し遂げようとする間柄を指します。確かに間違いではありませんが、仲間と言い切ってしまうには、私たちの関係はあまりにも儚い」
ヤンがぶっきらぼうに言い捨てた言葉の意味がやっと理解できたように思えた。ヤンはヤンで、ヒデよりもチャコとの付き合いが長い分、思うところはあったはずだ。それを全て心の内に閉じ込め、自分にも言い聞かせるしかできなかったのだろう。
「情というのは厄介なものです。相手のことが好きでも嫌いでも、心は動いてしまいます。ですが、それが人間というものです。ヒデくんは、ちゃんと人間なんですよ」
アレンはヒデに手を差し伸べる。手のひらを伝って、心まで温かさで包み込まれたように思えた。ヒデは立ち上がり、アレンの瞳をまっすぐ見つめる。
「僕はこれからも泣いてしまうかもしれません。それでも、いいんですか」
「私は、感情のままに泣いたり笑ったりしているヒデくんが好きですよ」
どこかからチャコがアレンに賛同する声が聞こえたような気がした。
強烈な光を一瞬放ったかと思うとすぐに消えてしまった儚い人生を想い、ヒデは目を閉じて天井を仰いだ。
チャコの死から数日後、ミヤは頭主の私邸にいた。昼間だというのに、どこか陰鬱とした重苦しい雰囲気が漂っている。そんな相変わらずの書斎で、陰気さを振り払うようにミヤは前髪を掻き上げて軍帽をかぶり直した。息がつまるような空気感は、部屋のせいでも話題のせいでもなく、頭主が纏っているものが創り出している。
「チャコの件ですが、事後処理は滞りなく終わりました」
選び抜かれた少数精鋭の一人が欠けた穴は大きい。
訃報を聞いたときはドロッとした嫌な感情が五臓六腑を舐めるように流れたような気がしたが、今ではただの情報として口にすることができる。それは頭主も同じだった。だが、気持ちのいい話題ではないことは確かだ。
「それで既死軍の、というか誘の人数が八人になりました。ロイヤル・カーテスも、ヴァンが死んでいれば十四人ですが、人数だけで言えば変わらず不利な状況です。新しい死体の目星はいくつかついてはいますが」
「難航、ということか」
言葉を続けた頭主にミヤは浅くうなずく。
「そもそも空いている宿家親が二人しかいないので、人数で勝ることはありません。最悪、昔みたいに宿家親に誘二人の面倒を見させてもいいんですが、まぁ、それは本当に最悪の場合ですね」
既死軍が始まって間もないころは試行錯誤の連続だった。幼いシドと、まだ子供と言って差し支えのないケイと共に暮らしていた日々に思いを馳せる。当然楽しかったこともあるが、どちらかと言えば苦労の絶えない日々だったように思えた。そんないつかの記憶を思い出し、ミヤはため息をつく。あのころに逆戻りはごめんだった。
「ロイヤル・カーテスも、最終的な目標が同じならこちらの邪魔をしないでもらえると助かるんですがね。共闘でもすれば蜉蒼ごときすぐに潰せると俺は思います」
「そうも上手くいかんだろう」
馬鹿なことを口走ってしまったと、ミヤはすぐに「夢物語でしたね」と発言を取り消す。
「まぁ、とりあえず蜉蒼はいいとしても、ロイヤル・カーテス、というか皇は葉山さんのお力で何とかなりませんか。以前、ルワがはっきりと『自分たちは皇の意思で動いている』と言っています。先に私設軍を創った俺たちが言うのも何ですが、互いに望みはこの国の安寧のはずですよね」
「大方、元帥のやることなすこと全てが気に食わんのだろう。禁裏の人間に散々悪口でも吹き込まれているだろうしな。禁裏なんて狭い世界にいれば仕方のないことではあるが、やっていることは私への当てつけだ」
「元帥のことが気に食わないなら、旧軍のように皇が元帥を兼任すればいいだけの話です。御簾の向こう側にいる皇には世界が見えていません」
「そうは言っても、皇は御簾の向こうにいるのが仕事だ」
再び呆れたように髪を掻き上げ、思わず出てしまいそうになるため息をつくのを我慢する。頭主の言い分も尤もだが、それなら先ほど自分が言ったように、既死軍の邪魔をしなければこれほど話がややこしくならずに済んだのになと、恨み言の一つでも皇に言いたくなる。
「まぁ、旧軍の体制に戻ったところで、辿る道は同じでしょう。ところで」
自分で提案したことを一方的に結論付け、ミヤは話題を戻す。
「皇は既死軍のことをどこまで知っているんですか。葉山さんが話すはずもありませんし、ロイヤル・カーテスから流れて来る情報程度ですかね」
「そうだな。詳しく知っているとは思えない。だが、既死軍を率いているのが私だということは確信しているだろうな」
「俺もそれには同意します。これだけの監視網と情報統制のなされた帝国で、秘密裏に行動できるのは元帥ぐらいなものでしょう。その結論に至ったのは称賛に値します」
「だが、それだけではないだろう。『生きて帰すな』という掟が十分守られていないのも一因ではないか」
「その件に関しては弁解の余地もありません。逃した人間は最終的には俺か堕貔が始末していますが、その間に情報が漏れているのは明白です。ロイヤル・カーテスと蜉蒼に対しては仕方がないと大目に見ていただいていますが、それ以外は徹底するようにケイに通告しておきます」
「ケイと言えば」
頭主の顔つきが変わる。それだけで空気の重苦しさに拍車がかかる。
「黎裔では特に大きな成果はなかったようだな。言っている間に季節が一周してしまうぞ」
その含意は汲み取るまでもなく、話の展開も読めている。ミヤは誰もが見慣れた表情のまま「そうですね」と短く返す。それしかできなかった。
「志渡は一旦返したまでに過ぎない。いつまでも既死軍にいられると、私としても計画が狂ってしまう」
「承知しています。ケイにはさっさと蜉蒼を」
「樹弥はあの時」
珍しく頭主がミヤを遮った。ミヤは口を閉じ、固く結んだ。今から何を言われても、それが自分の仕事だと割り切って、相応しい表情と返答をするしかない。
シドがこの私邸に閉じ込められていたとき、ミヤは何もできなかった。ミヤは飽くまでも頭主、もとい元帥に使える身で、反対するような言動はあってはならない。それを見兼ねたケイが文字通り自分の首をかけて頭主に意見したのだった。心の奥底では感謝していたが、それをこの場でにじませるわけにはいかない。
「禊からの依頼をその場で断ることもできた。『頭主は忙しい』と一言言えば済む話だったのを、わざわざ私に取り次いだ。その真意は何だ」
「真意も何も、情報統括官であるケイの意思を尊重したまでです。既死軍では俺はただの宿家親にすぎません。情報統括官の命令を聞くのが筋かと思いまして」
頭主は口角を上げると、「わざとらしい言い分だな」と短く笑った。
ミヤはまっすぐ頭主の目を見つめる。チャコが討ち死にした任務ではシドも大怪我をしているが、それは頭主には伝えていない。「シドの近況を聞かれていないから」という言い逃れも十分できる状況ではあるが、ミヤが初めて自分の明確な覚悟をもって隠そうと決めたことだった。
もしこのまま怪我が完治せず、既死軍としての価値がなくなったらどうなるかは考えるまでもないことだ。
「俺が葉山さんに嘘をついたり、隠し事をしたりしたことが今までありましたか?」
「いいや、お前のことは信頼している」
その言葉に、ミヤは素直にうなずく。
「いつまでも私に忠実であれ、樹弥」
「当然です。俺が尻尾を振るのは、葉山さんだけです」