134話 祭りのあと
過ぎ去った、祭囃子。
身を挺して自分を守ったチャコを振り返ることなく、シドはヴァルエの腹部に銃口を押し当てて引き金を引いた。自分の後方にただ気力もなく立ち上がっただけだと思い込んでいたチャコのどこにそんな体力が残っていたのかと驚いて隙を作っていた。焦げ臭いにおいがして、ヴァルエは前かがみに腹を押さえる。しかし、それと同時にシドもよろめき、二、三歩後ずさった。同じような場所にヴァルエの軍刀が突き刺さっている。
シドはもう一度引き金に指をかけた。呼吸をするたびに傷口が抉られるように感じられる。額に汗がにじみ、歯を食いしばる。痛みごときで目の前の敵に負けるわけにはいかない。
足をわずかに動かすと、水音がした。誰のかわからない血溜まりができていくのが靴底の感覚だけでわかる。
自分と同じような表情をしたヴァルエがこちら側に手を伸ばす。このまま柄を握られては傷口を広げられるだけだ。シドは考える間もなく、身体に栓をしていた軍刀を引き抜く。箍が外れたように赤い血が勢いよく流れ出る。
手にした軍刀の刃は妖しげにてらてらと赤く鈍い光を放っている。今やシドの半身は己の血で染め上げられ、白かった制服は見る影もない。
「皇に賜った軍刀とやらを、俺に取られた気分はどうだ」
傷跡を押さえて荒い呼吸をしているヴァルエは虚ろな瞳で「最悪だ」と力なく答えた。お互い意識が朦朧としているのは察している。最早相手より先に倒れるわけにはいかないという意地だけで立っているように思えた。
「ヴァルエ! 犬死になんて許さないんだよ!」
ほとんど叫ぶようなユネの声にはっと我に返ったヴァルエは瞬きをする。このまま軍刀を渡すなど、あってはならない。だがしかし、目の前にいる男は満身創痍だというのに、一部の隙もない。鋭かった眼光は更に覇気を増し、纏った周囲の空気だけで人ひとりぐらいは倒せてしまいそうだ。
「さっさと取り返すんだよ、この馬鹿!」
怒声に乗せた銃弾がシドの手をかすめた。その衝撃で軍刀は弾かれ、音を立てて地面に落ちる。
ユネは拾い上げた拳銃を手に、その持ち主を背負って足を引きずるようにしながら走っている。脱兎のごとく、軍刀を奪い返したヴァルエはそのあとを追った。
シドはロイヤル・カーテスの背中を見届けると、突然魂が抜けたかのように背中から地面に倒れた。
ヤンは手当てをしていたチャコから離れ、シドの名を叫ぶ。
チャコのもとに着いたヒデは抱くようにして上半身を起こしてやる。止血の甲斐もなく、赤黒い血がドクドクと流れて白い制服を染め上げていく。傷は肺を貫通しているようで、呼吸をしているのだろうが、ただ風が音を立てるだけだ。
焦点の定まらないチャコの視線はヒデを見ているようでもあり、どこか遠くを見ているようでもあった。ヒデは何度か名前を呼んでみるも、その声には反応がなかった。その代わり、かすかに唇を動かした。
「水泉。そこに、おるんか?」
初めて聞く名前にヒデは眉を顰める。いつもと違って覇気のないか細い声は、チャコのものではないように思えて不気味だった。
「迎えに」
たった一言のために、息も絶え絶えになりながら、必死に何かを伝えようとする。チャコには目の前に「誰か」が見えている。その「誰か」はチャコに何かを語り掛けているのだろう。頬を一筋の涙が伝ったように見えたが、すぐに血に混じって消えてしまった。
「俺はまだ、死ぬわけにはいかんねや。けど、水泉」
力なく、しかし、持てる限りの余力でチャコは空に手を伸ばした。
「水泉、俺は」
重力に逆らうこともせず、腕がぼとりと重苦しい音を鳴らすように地面に向かって落ちる。
静寂が訪れた。
ヤンは気絶したシドを背負い、立ち上がる。だらりと腕を垂らしたシドもまるで死人のようだ。
「諦めろ」
「何で、ヤン。何でそんなこと言うの。死んだんだよ。仲間なのに」
ヒデの目からはとめどなく大粒の涙がこぼれる。チャコの頬にぼたぼたと落ちるも、魔法は存在しない。一度閉じられた目が開くことはない。
立ち上がっていたヤンはしゃがみ、右手でヒデの顎を上げて視線を合わせる。
「俺たちは仲間なんかじゃない」
「仲間じゃなきゃ、何なの」
ヤンの手を振り払い、ヒデは腕で目をこするようにして涙を拭く。摩擦で目元が赤みを帯びた。
「頭主さまのために集められた。それだけだ」
「それでも」
「それでも、何だ。いちいち泣いてたらきりがないだろ」
「じゃあシドが死んでも、同じこと言えるの」
「言える。俺が今までいくつ死体を見たと思ってる」
すぐに答えたにしては、語気が荒い。気が立っているのか、その表情は硬く曇っている。
ハリセンを拾い上げたヤンは腰を上げ、シドを背負い直す。
「俺はシドとチャコを移動器に運ぶ。代わりにさっさと部品を見つけて来い。任務はまだ終わってない」
ヒデは深く息を吐き出し冷静さを取り戻そうと努めも、意思に反して涙は止まらない。目を閉じて何度か深呼吸をしてみる。
その様子を見たヤンは気まずそうに一言付け足した。
「チャコのためにも泣くんじゃねぇよ。立派に戦って死んだんだから、称えてやるのが筋だろ」
何度か涙をぬぐいながら、ヒデはヤンの背中に涙声で「うん」と返事をする。
「二階には目当ての物なかったように思う。一階から探してくれ」
「わかった」
目元の薄い皮膚が血が滲んでしまうのではないかというほど、ヒデは強くこすり、無理矢理涙を止めた。それでも頭の中にはチャコの顔と声が溢れかえる。目の前にいるのに、その瞳も唇も二度と動くことはない。弾けるような笑顔も明るい声も、その灯と共に吹き消され、この世からは消えてしまった。
目の前にいるシドやヤンも、そして自分すら、いつかはこの世から呆気なく消えてしまう日が来るのだと考えると、止まったと思った涙が一筋流れた。
結局、ヤンが二人を移動器まで運び終わって合流しようとしたところでヒデが部品を入れた隠し金庫を見つけ、任務は終了した。
ガチャガチャと音を立てる部品が入った段ボールを移動器に起き、ヒデは一息ついた。座席に横たわるシドとチャコはどちらも死んでいるようでも、眠っているようでもあった。いつもと違う雰囲気で満たされている空間でヤンとは一言も交わさないまま、ヒデはただ過ぎ去る暗闇を見ていた。
視界はどこまでも暗く、闇で満たされている。
今まで何人も人を殺してきたというのに、たった一人の死でここまで憔悴してしまうとは、なんと滑稽なことだろうと嘲るような笑いが込み上げてきた。両手で顔を覆い、何度か意識的に深い呼吸を繰り返してみる。落ち着きを取り戻そうとしてみるも、フラッシュバックするようにチャコとの思い出が脳を満たす。
人はすぐには死なないらしい。
ルキの事務所に着き、ヒデはチャコを二階の何もない部屋にそっと下ろす。ヤンはそのまま三階に上がり、しばらくして階下へと下りてきた。
事務所で帰りを待ち受けていたヤヨイは、先にシドの様子を診ているらしい。まだ目を覚ましはしないが、命に別状はないとのことだった。わかりやすい区別だなとでも言うように、生活感のない空間に横たえられたチャコを見て呆れるように笑いながらヒデの隣に座った。
再び無言の時間が流れる。堅洲村へ帰ることもできたが、なぜか二人は動こうとしなかった。この場を離れると、もうチャコとは二度と会えないことを知っているからだ。
永遠にも感じる時間が過ぎたころ、階段から足音が聞こえてきた。荒々しくドアを開けたヤヨイは二人を睨むように一瞥すると、チャコを確認し始める。負傷者に対しては悪態をつくのに、今はただ黙々と手を動かすだけだ。それがチャコの現状を物語っているようだった。
「死体観賞とは、いい趣味してるな」
ヤヨイらしい台詞だが、その言葉が突き刺さった。医者に死を断定されてしまっては、一縷の望みも失われる。既に白衣にはかすれたようにシドの血が移っているが、そこに赤黒い色が上塗りされていく。
「チャコの死亡を確認。以上だ」
ケイにそう無線を送ると、やっと二人に視線を合わせる。
「さっさと帰って、飯食って寝ろ。お前らの命はまだ続いてる」
オイルランプを持ったケイは無言で玄関の引き戸を開けて上がり込んだ。深夜の宿はしんと静まり返っている。一番奥にある部屋の襖を開けると、わずかな物音で目を覚ましていたダツマが布団の上で正座していた。
チャコのいないこんな夜更けにケイがやって来たことの意味はすべて理解しているようだった。膝の上で握られた震える拳がそれを伝えている。
「言わなくてもいい。全部、わかって」
「チャコが死んだ」
ケイはダツマの言葉を遮る。その表情は硬く、見下ろすその瞳は睨んでいるようにさえ見える。全てを察していようが、己が招いた結果は己で責任をもって決着をつけなければならない。相手の良心に任せて逃げることは許されない。
ランプの光はお互いの背後にある影に一層闇を落とす。
まっすぐケイの目を見つめるダツマは口を真一文字に結んでいて、取り乱す様子は見受けられない。何度か浅く呼吸をしたのち、ダツマはやっと口を開いた。
「リヤが死んでからどれぐらいになる」
「二年と少しだ」
「そうか」
ふっと息を吐き出すと、やっと顔を上げた。
「長い間、死人も出さずに、よくがんばってくれたな。ケイ」
自分に対して恨み言を言われるでもなく、チャコに対して冥福を祈るわけでもなく、ただ、ねぎらいの言葉をかけられたのは意外なことだった。
「俺に何も言わないのか。二年前、リヅヒには殴られたぞ」
自嘲するような笑みを浮かべるケイにダツマは思い出したように何度か小さくうなずく。
「お前を殴ってもチャコは帰って来ない。それに、既死軍は、そういう所だ。わかってるよ」
「物分かりが良すぎるのも、俺にとっては良心の呵責に苛まれる一因なんだがな」
「そうか、それは悪かったな。とにかく、報告ありがとう。あとは一人にしてくれ」
ダツマの瞳は光を失っている。ケイはうなずくこともせず、襖を閉めた。乾いた音が鳴り、再び屋内が静寂に包まれる。襖を隔てた向こう側では物音ひとつしない。
数歩歩いて、チャコに割り当てられていた部屋に入ってみる。元々物のない生活だが、それでも、最初から人など住んでいなかったかのように小ざっぱりとしている。この部屋の主は二度と戻ってこない。
がらんとしたもの寂しげな空間をあとにして、ケイは自分の宿へと戻った。