128話 煌めき
こぼれて、消える。
日が沈み始め、猛暑と呼ばれる気温から幾分か涼しく感じられる時間帯になった。それでもまだジメジメとした鬱陶しい暑さは残っている。堅洲村は森の中にあるとはいえ、世界的な温暖化に抗うことはできないらしい。
明かりもないこんな場所には、日が暮れ始めると訪れる人間はほとんどいない。イチは普段隠している顔を今だけは出し、流れる汗をぬぐう。いつもは感じることのない頬を撫でる風が心地よく感じられた。だが、その顔は浮かない表情だ。さっき打ち水をしたばかりだというのに、射撃場の土は既に乾き始めている。
「あんまり効果ないみたいですよ、ケイさん」
『体感気温がわずかに下がる程度だ。飽くまでも気分的なものだな』
「じゃあ、これでよしとします。あと少ししたらみんなを呼んでください」
柄杓とバケツを手にしているイチは川に向かって歩き出す。ブリキのバケツに突っ込んだ柄杓がカラカラと軽い音を立てる。
森の木々ではまだ蝉が競い合うように幾重にも声を重ね、大合唱をしている。
「それにしても、ケイさんが許可するとは思いませんでした」
『ミヤの言うとおり、息抜きも必要だろう。気が張った状態では、できることもできなくなる』
「それならケイさんも参加するってことでいいですか?」
『気が向けばな』
イチは小さく笑ってフェイスマスクを目元まで上げると、射撃場の入口に置いていた二つ目のバケツを手にとった。
ケイから既死軍全員に宛てられた無線は突如として飛んできた。できるだけ全員射撃場に集まるようにとのことで、詳細は語られなかった。それぞれが普段着のまま、ものの数分で集まった。
そこにいないのはケイとミヤ、イチぐらいなもので、年末でもないのに全員に招集がかかるとは何事かとお互いに顔を見合わせている。
射撃場にあるのは乾いた薪が数本、これから焚火でもするかのように置かれているだけだ。
ざわついていた空気感も、ミヤとイチが現れただけでぴんと張り詰める。イチが手にしている大きな紙袋には一体何が入っているのかと、全員の視線が注がれる。
イチはどさりと足元に紙袋を置くと、薪に近寄り、マッチで火をつけた。遠慮がちに鳴いていた蝉の声を排除するように、小さい火が徐々にパチパチと小気味のいい音を立て始める。
ミヤは無理矢理役目を押し付けられたのか、花火を持ってきた張本人だというのにどこか面倒くさそうな様子に見える。わざわざ持ってくるんじゃなかったと今更後悔しても、もうこの場に引きずり出されてしまったのでは後の祭りだ。
「別に強制ではないから興味のないやつは帰っても構わんが」
そう前置きをすると、紙袋を掴んで口を下に向ける。ビニールがかさかさと触れ合う音がして花火の大袋が地面に落ちた。その内の一つを取り上げる。
「全て使い切るか、火にくべて処分してくれ」
ミヤが花火を手にしている様子がおかしくて、数人は噛み殺したように声を出さずに笑っている。ヒデもそれが花火の袋だと気付いたときには思わず声が漏れた。
初めて見たらしい興味津々のキョウがすぐにミヤに駆け寄り、「これ何ですか?」と目を輝かせている。
「それ、蜉蒼がいつも使ってる火薬と一緒だよ。火つけたらドカーン! だから、危ないし子供は近づいたらダメだよ」
近くにいたノアが笑いながらキョウから袋を取り上げる。
「な、何でミヤさん、そんな危ない物」
キラキラと輝いていた目が突如として怯えた色に染まった。しょんぼりとしたキョウを見かねたのか、宿家親であるヨミがノアを追いやり、訂正を入れる。
「ノアの悪ふざけにいちいち反応しなくていいから。そんな危ない物をわざわざミヤさんが持って来るわけないじゃん」
再びぱっと明るさを取り戻したキョウは犬であれば尻尾を振っているであろう表情で宿家親を見上げる。
「じゃあ、これどうやって使うの?」
「これは花火って言って、夏によくやる遊びだよ。ほら、あそこのチャコを見てごらん」
そうしゃがんで指さした先には、既に手持ち花火を数本手にしたチャコたちが焚火の周りに集まっていた。焚火に近づけた花火は、しばらくしてから音を立てて火を噴き出した。全員が数年ぶりに見たのだろう。小さくではあるが、わっと歓声が上がった。
「あれが花火? きれいですね」
「キョウもやっておいで」
ヨミは足元にあった袋から色々な種類を一本ずつ持たせ、キョウを焚火へと向かわせた。あとは周辺がどうにでも教えてくれるだろう。何だかんだで面倒見のいい人間の集まりだと、キョウと視線を合わせるため落としていた腰を上げる。
始めは突如として噴き出す火花に驚いていた様子だったが、数本使ううちに慣れてきたらしい。周りの誘や宿家親たちと笑えるようになっていた。
色とりどりに照らされるキョウの笑顔を遠くから眺めていたヨミは、「明日には忘れてるのにな」という不穏なささやきに振り返った。さっきまで明るかった視界が嘘のように暗くなる。暗闇を背負ったヤヨイに、ヨミの影がぼんやりと重なる。
「今が良ければそれでいいだろ。花火みたいに、一瞬光って、一瞬で燃え尽きる。私たちなんてそんなもんだ」
ヨミの言葉にヤヨイはにやりと笑う。期待していたような絶望に満ちた返事ではなかったものの、立場を理解しているヨミには満足だった。
「いいことを教えてやる。どうやら強烈な記憶であれば保持できるらしい。この花火だって、キョウが忘れたくないと思うなら、覚えているだろう」
「ヤヨイにしては、優しいな」
「こんな明るい夜ぐらいは、お前のための希望を語ってやってもいいだろう」
目を細めるヤヨイにつられて、ヨミも時折笑い声が上がる方へと目を向ける。
光を希望に例えるなら、対極の影は絶望になるのだろうか。影にしか生きることを許されない罪深い自分たちは、残りの人生すべてを絶望に捧げるしかないのだろうか。影の中には、暗闇には、本当に絶望しか存在しないのだろうか。
目の前の光が、いやに眩しく見えて、ヨミは思わずその場にしゃがみ込んだ。
「希望って、何だよ」
両手で抱えたひざの中に顔をうずめたヨミのわずかに震えている声がヤヨイに届く。
「辞書通りの意味をお望みか?」
「わかってるくせに」
「俺は以心伝心なんて言葉は信じてねぇからな。はっきり口に出して言え」
「望んでない」
ひどく遠くから笑い声が聞こえた気がした。ヨミはかき消されるような声で答える。浅くタバコを吸ったヤヨイは、一拍置いて返事をする。
「なら、お前への説明はこうだ。希望とは、絶望が生み出したまやかしだ、ってな」
沈黙したヨミは、それきり口を開くことはなかった。ヤヨイが見下ろすその背中は、震えているようにも見えた。半分ほどになったタバコをふかしながら、ヤヨイは光のほうに視線を戻す。自分より年上であろう宿家親も花火に興じている姿が見えた。
卵が先か、鶏が先か、この世に希望と絶望のどちらが先に生まれたのかは知る由もない。しかし、罪を背負った自分たちには絶望がお似合いだろう。その中に、ほんの一瞬光り輝く希望があるだけにすぎない。ヨミもそれは理解しているくせに、納得するのは余程難しいらしい。
しばらくして、ヨミは自分の隣から足音が立ち去っていくのを聞いた。黙り切ってしまった自分が面白くなかったのか、タバコを吸い終わったからなのか、理由はわからない。ヨミは少し赤くなった目をこすり、立ち上がる。
遠くに花火に照らされたキョウの笑顔が霞んで見えた。
「ほら、キョウ。これ途中から色変わるらしいで」
差し出された手持ち花火をキョウは「ありがとう」と受け取った。しかし、笑顔で目の前に立っている人の名前はよく思い出せない。誰かが彼を「チャコ」と呼んだのを聞いてやっと、そう言えばそんな名前だったと口に出してみる。
「ねぇチャコ。これと、他にもきれいなの教えて」
「もうどれがどれかわからんわ。まぁ花火なんてきれいでなんぼやし、どれでもえぇんちゃう?」
「それ、答えになってねぇぞ」
「じゃあヤンが教えたれや」
話に割り込んできたヤンが足元に散らばった花火を物色する。しかし、すぐに立ち上がって「多分これ」と、同じく答えにならない答えでお茶を濁した。
「二人とも頼りにならないよ」
そう困ったように笑っているキョウに、ヒデは手にしていた一本を渡す。先ほど自分が見てきれいだと思ったものと同じ種類だ。
「僕はこれがおすすめ」
「俺らより、ヒデのほうが美的感覚あるで」
「そうだな。信用に足る」
「花火ぐらいで大げさじゃない?」
ヒデの記憶には、確かに花火の映像がある。だが、「した」という記憶だけで、はっきりとしたことは覚えていなかった。それぐらい幼少の頃なのだろう。それならば、今日が初めてだと言っても過言ではない。
こういう花火はろうそくを使うものだと思っていたが、目の前ではそれよりも何倍も大きな炎を音を立てて揺らめいている。風で消えてしまう弱々しい火よりも、確かにこちらのほうが理にかなっているのだろう。
焚火に先端を近づけると、軽快な音を立ててヒデたちの手元から火花が吹き出した。
「これ、あと何本あるんだろうな」
「選択肢って、少ないほうがえぇんかもしれんなぁ」
「僕はいっぱいあって嬉しいよ」
「僕も、キョウに賛成」
「ほな、よぉさんある時にしかできん贅沢な使い方しよや」
どうやら今しがた使ったものは火薬が少ない種類だったらしい。たった二、三言交わしているうちに再び元の暗さになった。燃え残った持ち手を焚き火に投げ入れ、チャコは足元からまた拾い上げる。
「一気に火ぃつけたらめっちゃすごいと思わん?」
「あー確かに、子供の夢だよな」
「意外とそういうの同意するんだ、ヤンって」
「ねぇねぇ、僕にもちょうだい!」
口々にそんなことを言っていると、遠くから火のついた花火が飛んできた。もちろん投げられるように設計されてはいない。不規則な動きをした光は、四人の目の前を通り過ぎて地面に落ちた。
走って来たレンジは、遠くにいるジュダイに向かって叫ぶ。
「いや、投げるの下手すぎるだろ!」
「取らないレンジのほうが下手だと思うけどー!」
そんなやり取りを見ている四人の視線に気づいたレンジは地面でくすぶっている花火を踏み消し、焚火に投げ捨てる。
「花火合戦やってるんだけど、やらねぇ? なんか、雪合戦みたいな感じ」
突拍子もない提案にヒデがぽかんとしている内に、ヤンは二つ返事で参加を表明した。
「いや、花火投げるって、危なくない?」
「今更、俺らに危ないとかないだろ」
ヤンはあっけらかんと笑ってジュダイたちのほうへ目を向ける。ヤンの言う「俺ら」にはしっかりと宿家親も含まれているらしい。ヤンがすぐさま参戦を表明した理由が、その視線ではっきりとわかった。
「今日こそ勝つからな、ゴハ!」
そう鬨の声をあげたヤンはゴハを睨みつけ、口角を上げる。
「いつも通り、返り討ちにしてやるよ!」
聞き慣れた試合開始の合図だ。
「俺も加勢したるわ!」
「僕も僕もー!」
走り出した三人に、慌ててヒデも後を追う。ルールなどあるはずもない。当然、一体どうなれば勝敗がつくのか、誰も考えていない。行き当たりばったりの戦闘にヒデは苦笑しながらも参加することとなった。
目の前にはゴハだけでなく、宿家親のアカツキやシーナたちも既に勝ち誇ったような顔をして立っていた。
「威勢がいいだけの若造ども! 宿家親の力を思い知れ!」
「イチは当然誘側だよねー!?」
「えっ僕もやるの!?」
ノアに腕を引っ張られ、静観を決め込んでいたイチは思わず声を上げた。
ミヤと花火を持ってきたときは、どれほど夏らしく風流な夜になることかと期待していたが、そう言えばここはそんな集まりではなかったなと、フェイスマスクの下で小さく笑って言葉を続けた。
「やるからには勝ちますけど」