119話 雪ぐ(すすぐ)
死灰、復燃ゆ。
何とか男の巨体を引きずりつつ、チャコの待つ二階の部屋へと届けた。もう一人の密航者はほっそりとした体形で、この人が外に逃げてくれたら良かったのになと大きなため息を肺から吐き出した。
「ケイ、俺らシドのところ行くし、管理棟は堕貔来てもえぇで」
『わかった。早めに対処できるのは助かる。船の操縦者のほうは回収済みだ』
堕貔は任務の後処理を主に行う役割だが、それにしても早いなとチャコとヒデは驚いた顔を見合わせた。既死軍にいながらも人前に現れることのない堕貔は、二人にとっては幽霊のような少し不気味な存在だった。
「近くにいたんですね」
『生きてるやつはさっさと回収しないとな。幸い、シドたちも離れたところにいてくれた』
「そう言えば、シドって今どんな感じかわかりますか?」
ヒデの問いにケイは短く「うーん」と唸る。
『苦戦してるわけじゃないけど、流石に一対二だからな。それに相手も弱いやつらではない』
「なんや敵のこと、えらい褒めるやんけ」
『そのほうが勝てたとき気持ちいいだろ。安心しろ、お前らのほうが強い』
「おだてても何も出ぇへんからな」
そうは言うものの、チャコの口元は少し緩んでいる。その様子にヒデもふっと笑う。命のやり取りをしているというのに、こんな風に話している時間は楽しいとすら思えた。永遠に続くわけもなく、一瞬のことでしかない。それでも、この時間があるからこそ任務を続けられているように思う。
『任務を遂行して戻ってくるだけで十分だ。シドは今、管理棟からちょうど対角線上、港の入り口から見て一つ目の起重機のあたりにいる。頼んだ』
チャコとヒデはそれぞれの武器を握り直し、ケイの言葉にうなずく。
先に部屋を出たチャコは開きっぱなしになっていた廊下の窓から身軽に飛び降りる。ヒデは思わず窓から身を乗り出し、華麗に着地したチャコに倣おうとしたが、思いとどまった。既に遠くなった姿から「はよ来な置いてくでー!」と小さく聞こえ、慌てて階段を下りた。
一方、ヒデがまだコンテナの陰に隠れて船を待っていたころ、シドはロイヤル・カーテスの二人を探していた。確かにチャコの言っていた場所は今いるところだが、人影は見当たらない。密航者たちが船に乗り込む時を狙うつもりで、それまではどこかに潜伏しているのだろうか。だが、隠れることができる場所は限られている。建物と言えば管理棟ぐらいで、そこにはチャコがいるから使うことはできない。そうなると、コンテナの中か物陰ぐらいだろう。さっさと見つけて始末してしまうかとシドは引き金に指をかけた。
既死軍がいるのに気付いているのか、いないのか、辺りは不自然なほどに静まり返っている。長い黒髪と制服の裾が風下になびく。
「久しぶり、シド」
その声にゆっくりとシドは振り返る。見覚えのあるピンク色の髪は暗がりでもそれがヴァンであることがよくわかった。前髪は斜めに、後ろ髪は肩できれいに切りそろえられている。あの時と同じ髪型のままだ。隣には銃を手にしたディスが立っている。
「既死軍って何人いるんだよ。こんなに会わないもんかな」
顎に手を当てて考えるようなしぐさをするヴァンにシドは返事もなく銃口を向ける。
「撃ってもいいですよ。その代わり、あなたの頭にも風穴が開きます」
「も、ってどういうことだよ!」
あっさりと両手を上げていたヴァンは噛みつくようにディスを見上げる。
「任務に犠牲はつきものですから」
そういうディスは銃でシドを狙う。
ロイヤル・カーテスは持つ武器が決まっていて、ヴァンもディスも拳銃しか持っていない。それなら自分が負けるわけがないとシドは引き金を引く。ヴァンはその瞬間を見計らっていたようで、同時に姿勢を低くしてシドの胴体に手を回す。だが、シドも相手があっさりと大人しく銃弾に倒れるはずがないと踏んでいた。身を翻し、攻撃を避ける。そこにディスの銃弾が顔の横をかすめていく。
この距離では銃よりも接近戦に向いた武器のほうがいいが、手近にそのようなものは見当たらない。シドは拳銃をホルスターに戻し、手を空にした。
耳元ではやっと船が到着したことをヒデが伝えている。幸運なことに、シド達がいる場所からは死角になって見えていない。この二人以外にロイヤル・カーテスがいなければ、容易に気付くことはないだろう。
「覚えてるよな、シド。山奥の訳わかんない洋館で戦ったこと。俺は負けたとは思ってない」
生ぬるい不愉快な潮風がまとわりつくように吹き抜けていく。あの時とは山と海、屋内と屋外、環境が正反対だ。当時、シドに折られた方の腕を軽やかに回して見せ、ヴァンは口角を上げて薄っすらと笑う。
「けど、勝ったとも思ってない。俺は決着をつけたい」
そう語りかけつつ、そばにいたディスを片手で制し邪魔をするなという意思を伝える。ディスは呆れたように「はいはい」と返事をしたものの、照準は常にシドをとらえて離さない。
「お前も、そうだろ。シド」
言い当てられたことに対して不満げなシドだったが、睨みつける目と真一文字に結ばれた口元はぴくりとも動かない。
ヴァンは拳を握り、真正面からシドに向かう。だが、その初動はシドにかわされ、そのまま腹部を蹴りつけられた。数回咳き込んだだけで、すぐさま姿勢を低くしてシドの顎下から拳を突き上げた。シドは身体を後方に少し倒し、顎と拳の間に空気すら通れないほどのわずかな隙間を作る。当然ヴァンは次の攻撃を繰り出していて、左からの拳が飛んできた。横目でその動作を一瞥したシドはそのまま体を反らせ、軽やかに両手で地面を突き放すと、ヴァンから離れたところに着地した。一呼吸着く間もなく、今度はシドが拳を握る。ヴァンはひとまず、防御の姿勢をとった。だが、シドの様子から上体への攻撃を受けるとばかり思い込んでいたヴァンの考えが裏目に出た。目の前で視界からシドが消えたと思ったときには遅かった。
ディスは良くも悪くも公平で、ロイヤル・カーテスの中では一人ずば抜けて冷静だ。普通なら仲間に大声で危険を知らせたり、敵の位置を伝えたりするような場面でも、無言を貫く。今も、ただヴァンから言われた通りに静観を決め込んでいる。
シドは重心を低くし、腰に回転をかけて右足でヴァンの足元を狙う。ヴァンは咄嗟に片足を上げて攻撃を避けたが、既にその動作はシドの思うつぼだった。シドの蹴り技はそれだけでは終わらず、両手を地面についたかと思うと更に体を低くし、勢いよく身体ごと回転させて左足でヴァンの立っている軸足を絡めとる。
両足を取られたヴァンは一瞬全身が地面から離れ、すぐに背中から叩きつけられた。
シドは倒れているヴァンに馬乗りになり、前髪を掴む。
傍観を決め込んでいたディスだったが、流石に仲間が不利な状況をそのまま見ているわけにはいかない。ずっとシドを狙っていた銃口がやっと火を噴いた。二の腕をわずかにかすめ、弾道に合わせて血飛沫が後方に飛び去る。シドは手を離さないまま、自分に傷をつけた相手をおもむろに見る。シドの視線の先、ディスの眼鏡の奥にある冷たい瞳はシドではなくヴァンを睨んでいた。それもつかの間、ディスは少し袖をまくって腕時計を確認した。
「時間ですよ、ヴァン。私は行きますので、死んでなかったら後から来てください」
ディスの言う時間とは、恐らく船の到着時間だろうとシドは推測する。無線上ではヒデが既に操縦者を船底に閉じ込めたと聞いている。今からディスたちが見る光景はもぬけの殻になった船だ。だが、シドはそんな光景すら見せるつもりはなかった。
その一瞬、シドがディスに視線を向けたとき、ヴァンはシドに足を絡めバランスを崩させることに成功した。体の横に手をついたシドはそのまま回転してヴァンから離れ、立ち上がって走り出す。一度戻した拳銃をホルスターから取り出して構える。足音に気付いたディスは振り返りざまに再び発砲したが、銃口が向けられてすぐシドは右に半歩移動していた。的を失った銃弾はシドの左側を通り過ぎ、はるか後方に飛んで行った。ディスからの攻撃は避けたが、後ろからは既にヴァンが迫っていた。背中を目掛けて、飛び掛かる。シドは急に足を止めてその場で振り返ると、地面から足が離れていたヴァンの手首を掴み、背負うように体を引き付けて肩口から投げ飛ばした。短時間のうちに再び全身を強打したヴァンは短いうめき声を出したものの、必死に朦朧とした意識の中でシドの足首を掴む。
「俺が相手だ」
「いいや、シドを倒すのはこの俺だ」
その声と共に、シドの首筋に刃が触れた。いつの間にか背後に立っていたのはヴァルエだった。波が光るように、軍刀も鈍い光を反射している。
「先に船見て来たけど、もう誰もいなかった。先を越された。無駄足だからやめとけ」
前を走るディスに直接声をかけているのか、無線に話しかけているのか、ヴァルエが行動を制する。その声に合わせてディスが足を止めたか止めないかのうちに、足元に一本の矢が鋭い角度で飛んできた。コンクリートの床に弓は突き刺さることはなく、乾いた音を立てて地面に当たって転がった。ディスは拾い上げてその軌跡をたどる。
「あと、ヴァンとディスはそっちの相手しといてくれ」
ディスが見上げた先、積み上げられたコンテナの上にはチャコとヒデが立っていた。
「何やねん、三人に増えとるやんけ!」
「けど、ちょうど三対三だし、よかったんじゃない?」
そう言いながら二人は地上へと下りてくる。
「ほな、第二回戦、始めよか」