118話 澎湃(ほうはい)
嵐の前に、海は凪ぐ。
今年の梅雨はあっさりと終わってしまったようだ。新緑をざっと濡らしたかと思うと、じめじめとした湿気だけを残して雨雲は去って行った。長かった明るい時間も日に日に短くなり、夕暮れ時は夏の訪れを感じさせる。
ヒデは持ち場で水平線に沈もうとする太陽を眺めていた。積み上げられたまま朽ちそうなコンテナの上から見る海は穏やかだ。かつては様々な国の荷物を載せた船が行き交っていたのだろうが、今は古ぼけたクレーンや倉庫があるだけで、長年使われた形跡はない。港の機能自体は少し離れたところに丸ごと移設され、ここに残されたのはただ雨風によって無に帰すのを待つばかりの無用の長物だ。
予定の時間にはまだあるだろうと、そのまま生ぬるい潮風に吹かれてみる。こんなふうにただ呆っと海を眺めたことは、思い返せば初めてのように思う。波がキラキラと輝き、空と同じように水平線も赤く染まっていく。森の中にある堅洲村では日の出も日の入りも見ることはできない。だからこそ、任務中にたまに見られる朝焼けや夕焼けはヒデにとって密かな楽しみになっていた。
空は次第に暗さを増し、時間が刻一刻と迫ってくる。ヒデはそろそろ時間かと、コンテナを一つ降りて海側からは死角になっている場所に身を潜めた。
『おー、来た来た。時間通りやな』
しばらくすると、チャコの嬉しそうなつぶやきが耳元で聞こえた。ヒデからは離れた、港の入り口近くからの無線だった。
『人数もケイの言う通りやし、多分持ってる荷物も調査通りやろな』
『それなら、船も時間通りだろう。ヒデ、よろしく頼んだ』
「わかりました」
『シドとチャコも、殺さないように頼むぞ』
『了解した』
『りょーかい』
『あとの指示はシドに任せる。以上だ』
聞き慣れた台詞で無線が途切れると、再び穏やかな空間に戻った。しかし、もうすぐ自分の出番もやって来るだろうと、ヒデは少しだけ顔をのぞかせて海の方を見る。変わらず波は穏やかなままで、これから不穏なことが起きそうなようには思えなかった。
今日の任務は、この港から国外に密航しようとしている人間たちを捕まえることだ。その密航者たちは現役軍人で、以前ミヤたちが捕まえた国家転覆を目論む集団に属している。ほとんどは既死軍や、情報を受けた治安維持部隊に捕らえられたが、数人だけはまだ居場所が掴めていなかった。しかし、ケイたちによる調査のおかげで、今日、この港から国外へと脱出する手筈が整っていることがわかったのだった。だが、今日の情報はインターネットの深海でも見つけることができた。もしかすると、ロイヤル・カーテスも同じ情報を掴んでいるかもしれないとケイから忠告されていた。
ロイヤル・カーテスさえ来なければすぐに終わるだろうと思っていたが、現実はそう簡単にはいかないものらしい。
『うわ、最悪や。ホンマにロイヤル・カーテス来よった』
幸か不幸か、ケイの忠告は当たり、チャコの双眼鏡には闇に溶けそうな色合いの軍服を着た二人の姿が映っていた。
『あれはヴァンと、えーっと』
名前を思い出そうと頭をフル回転させているチャコの唸り声が聞こえる。数秒してから『ディスやな』と、やっと答えが出た。
『今回はお互いに別の情報源から辿り着いたみたいだな』
予想が当たったことは喜ばしいが、当たらないほうが簡潔に終わらせられたなとケイは小さくため息をつく。だが、現れてしまったものは仕方がない。その場での行動はシドに託しているが、方向性だけは伝えなければならない。
『邪魔するならロイヤル・カーテスは殺しても構わん。だが、密航者だけは生きたまま捕まえろ』
了解の返事をした三人だったが、チャコはそれに言葉を続ける。
『何や、その言い方やったらロイヤル・カーテスのほうが敵みたいやな』
『敵はどちらもだ。だが、密航者にしてみれば死ねるロイヤル・カーテスが羨ましいだろう。これから生きたまま地獄に放り込まれるんだからな』
その返事にチャコは周囲に聞こえないほどの声量で笑った。
『ほんで、これからどうするんや。シド』
『俺はロイヤル・カーテスの二人を相手する。チャコとヒデは密航者たちを捕まえろ』
シドの指示を聞いたチャコは再び噛み殺したように笑う。
『そう言うと思ったわ』
もちろんシドにとって楽なのは、殲滅の許可が下りているロイヤル・カーテスを相手にすることだ。しかし、シドの思惑は、チャコが考えていたこと以外にもあった。ちょうど一年ほど前、山奥の洋館でヴァンとヴァルエと戦った記憶が消えなかったからだ。
ヴァンには勝ったものの、辛勝だった。そして、ヴァルエには骨折させられた上に決着がつかないまま、その場を去ることを許してしまった。
今ならヴァンにはその時の雪辱を果たすことができる。ロイヤル・カーテスはケイの読みでは十五人いる。どの任務に誰が出て来るかは流石のケイにもわからないことだ。だからこそ、会ったときに決着をつけなければならない。
「僕は船のほう見なきゃいけないから、しばらくはチャコ一人で頼めるかな」
『そのつもりやからえぇで。まぁ終わったら来てくれや。管理棟おるから』
「わかった。ありがとう」
そう言って無線を終えると、ヒデは真っ暗な水面へと視線を向けた。島国であるこの帝国から脱出するためには方法も場所も限られている。船を選んだのは、時間はかかるが人目に触れずに済むからに違いない。
遠くの水平線から小型の船がやって来るのが見えた。ヒデはコンテナの陰から少し身体を出し、弓を引き絞る。情報ではこの船に乗っているのは操縦者の一人だけだ。船が港に入り、停泊した。操舵室のガラス越しに男の顔が見える。そこでヒデは矢を放った。港や船首を鋭く飛んだ矢はヒデが思い描いた通りの軌道で男の肩を貫く。発砲音のしない弓矢は誰にも気づかれずに任務を遂行するには打ってつけだ。
ヒデはキョロキョロと辺りを確認してからコンテナを飛び降り、船に近づく。事前にイチから教えてもらった通りにロープで船を固定して、船内を見て回る。操舵室には男が一人、うずくまって肩を押さえている。この男は軍人ではなく、金で買われただけの一般人だ。痛みへの耐性はないのだろう。
ヒデはしゃがんで男と視線を合わせる。
「お邪魔してます。この船って密航するためのもので合ってますか?」
突き刺さったままの矢を引き抜くと、そこから血がじわりと広がった。ヒデは男の服の裾で汚れた矢の先端をぬぐう。
「肯定か否定か、どちらかはしてほしいんですけど」
怯えきった男は死の恐怖でも感じているのか、荒い呼吸をするだけで何も答えない。
「自分が何をしてるか、知らないはずはないですよね。失敗したら報いを受けるのは当然だと思いませんか? 今、あなたにできるのは僕らに情報を流すことです。殺したりはしないので安心してください」
ヒデはきれいにしたままの矢を握り直し、男の手の甲に突き立てる。短い叫び声を上げ、ぽっかりと小さい穴が開いた手を逆の手で覆うと、あぶら汗に塗れた顔をヒデに向けた。騙したなといわんばかりに睨みつける。
「殺しませんよ。今はね」
矢と情報を回収したヒデは船首と船尾を見て回る。男はヒデに洗いざらいを吐き出すと、きっちりと縛り上げられた。船尾にあったごちゃごちゃとした荷物をどけると、船の構造上あるはずのない地下へと続く扉が顔をのぞかせた。潜伏するための隠し部屋は大人二人が何とか入れるぐらいの狭い空間だ。
「ケイさん、船のほうは終わりました。さっきの情報通り、船尾に隠し部屋も見つけました。船はこのまま泊めておくので、あとは堕貔に任せます。操縦者は地下に入れておきますね。中からは開けられないっぽいです」
『了解した。チャコのほうも終わりそうだが、一応行ってくれ』
「わかりました」
ヒデは男を床下の小部屋に放り込むと、船から降りた。そして足早にチャコの方へと向かう。コンテナの間を縫うように進むと、目の前に三階建ての古臭い建物が見えた。地図上では管理棟と名付けられたいるそこには密航する予定だった男二人とチャコがいるはずだ。
屋内に入ると目の前はすぐに階段になっていた。左手には廊下が伸びている。階段を数段上ったところで、上階から「待て!」とチャコの声が降ってきた。
「チャコ、僕、今一階だけど」
『ほな階段で待ち伏せしとってくれ! こいつ、おっさんのくせにめっちゃ足速くて追いつけへん』
「了解。一階で待ってる」
そう返事をしたヒデは残りの数段も上り、踊り場に出た。足音が徐々に近づき、数秒もしないうちに男が現れた。軍人らしい体格をした背の高い男はヒデを視界にとらえると、舌打ちをして踵を返す。チャコはまだ現れない。
ヒデに背を向けた男は、その一瞬で背中に矢を受ける。ほとんど縋るような状態で割れた窓から身を投げ出した。その様子を見ていたのだろう。耳元からチャコの『俺が行く!』という声がした。ヒデも階段を駆け下り、今通ったばかりの入り口を再び出る。
よろめくように走る男は、疲労と矢の傷、二階から飛び降りた衝撃でほとんど力を失っているようだ。男を追って飛び降りたチャコはそのままヒデを追い抜き、やっと男の首根っこを捕まえた。
「鬼ごっこは俺の勝ちやな、おっさん。手こずらせてくれよって」
肩で息をするチャコは手にしていたハリセンを振り上げ、思いっきり後頭部に叩きつける。男はぐらりとその身体を揺らし、うつぶせに倒れた。一息ついたチャコは背中から矢を引き抜き、近くまで来ていたヒデに手渡す。
「軍人って足速いんやなぁ。俺ももうちょい鍛えなアカンわ。何にせよ、ありがとうな」
「僕は何も。チャコが追い詰めてたからだよ。それより、もう一人は?」
「気絶しとると思うけど、このおっさんのせいでまだ縛ってへんねん。俺そっち見に行くから、ヒデはこいつ連れて来てくれ。二階の一番奥おるから」
うなずいたヒデに笑みを返すと、チャコはまた走って建物へと向かった。ヒデはこの巨体をどうやって運んだものかと首をひねった。