117話 距離
だから、「ただいま」を伝える。
ミヤと別れたヤンとヒデは言われた通りの場所から移動器でルキの事務所に戻った。相変わらずのヤンは、ヒデにルキの話し相手役を押し付けてさっさと堅洲村へと帰っていた。
まだ空は薄ぼんやりと明るさが残っている。ヤンはまっすぐ宿には戻らず、射撃場の物置から手近にあった木刀を一本手にした。今日はただ立っているだけで終わってしまった不完全燃焼のような任務だった。目の前には強そうな敵がいたのに、ミヤだけであっさりと片付けてしまった。
そんな光景をまざまざと見せつけられ、ヤンは居ても立っても居られなかった。走って宿に戻り、玄関に木刀を立てかけると、勢いよくガラスの引き戸を開ける。宿家親のゴハは居間で寝転がって本を読んでいた。台所には材料と料理の中間のような食材たちがそのまま置かれている。ヤンが任務から戻ったときに見るいつもの光景だ。
「ゴハ! 俺と戦え!」
「望むところだ!」
ゴハは本を閉じ、いつも手元に置いている木刀を握ると、丸腰に見えるヤンに攻撃を仕掛けた。だが、ヤンもやられに来たわけではない。一歩後ずさりすると、戸に立てかけておいた木刀ですぐさま防御する。
「たった数時間の任務で俺が恋しくなったか?」
受け止められた刀身に更に上から力を加え、ゴハはバカにしたような笑みを浮かべる。
「バカ言え。出番なかったから憂さ晴らしだよ」
「任務に行って出番なし? それは笑えるな」
間合いを取り、お互いに構えを整える。ヤンは一呼吸つくと、ゴハ目掛けて切りかかる。全ての攻撃を刀身で防ぎながら、ゴハはヤンのがら空きになっていた足を払った。後ろ向きに体勢を崩したヤンだったが、手をついてすぐに体勢を立て直す。一段高くなっている居間から玄関のガラス戸までは土間になっている。さほど広くはないが、二人にとっては戦うには十分だった。上り框に飛び乗ったゴハは勢いをつけて上からヤンに木刀を叩きつける。
ヤンは左腕で上から降り下ろされた木刀を防ぐ。痺れる電撃のような痛みが腕から全身に広がる。こうして生身で防御してしまうのは悪い癖だなとヤンは冷静な分析をしてみるも、それが活かされるのはすぐではなさそうだった。
意識が木刀の方に集中しすぎていたことに気付いたころには、もう腹部を蹴られていて、そのまま後方に吹っ飛んでいた。玄関の戸に全身を打ち付け、その衝撃で枠から戸が外れた。
悲惨な音を立ててガラスが割れ、古く痛んでいた玄関の引き戸も細い格子の部分が数か所折れてしまった。
壊れた戸の上に仰向けに倒れているヤンの腹部に軽く足を乗せたゴハは勝ち誇った顔で見下ろす。
「任務帰りでお疲れだろうし、今回は明日の掃除と洗濯だけで勘弁してやるよ」
「皮肉か?」
「皮肉だ」
差し伸べられた手を素直に掴んだヤンは立ち上がり、制服の汚れを払う。振り返って「にしても」と苦虫を食い潰したような顔をする。
「これ、ヤバくね?」
「ヤバいな。けど、俺は正当防衛だから、仕掛けてきたヤンのせいだと思うぞ」
「はぁ? ゴハが大人しくやられてればよかったんじゃねぇの?」
「それで勝って嬉しいならそうしてやってもいいけど」
戸もそのままに口論をしていると、暗がりから人影が現れた。
「やっぱり。思った通りですよ、ケイさん」
『お前ら、またやってくれたな』
そこにいたのはイチだった。今の発言からするに、ケイには既に二人が何をしでかしたか、わかっているようだった。特に指示されたわけでもないのに、二人はそろって地面に正座をする。いっそ怒鳴り散らされたほうが清々しくも感じるが、ケイは無線を介してチクチクと刺すような嫌味を言う。
『あのな、既死軍にも一応経費というか予算というか、そういうのがあってだな』
「決して潤沢なわけではないです」
追い打ちをかけるようにイチが抑揚のない声で補足する。無線越しにも呆れた表情をしているケイの顔が浮かぶ。またクマを増やす原因を作ってしまったかもしれないと、二人は多少申し訳なさそうな顔を作ってみる。
『お前らが元気なのは結構だが、今日で何回目だ。あまりにも続くようなら襖も障子も全部撤去するからな。当然、冬場もだ。既死軍の決定権は何であろうと俺にある。忘れるな』
「すみませんでした」
仲がいいのか悪いのか、二人は睨み合いながら声を合わせる。耳の奥でケイのため息が聞こえた。
『最早俺は呆れてる域だから怒ってはないというか。まぁ、とにかく今後は外でやってくれ。俺からは以上だ』
「僕は蔵から代わりの戸を持って来ます。と言いたいところですが、蔵を管理しているジンさんはしばらく帰って来ません。鍵がないので開けられませんね」
いたずらっぽく「残念でした」と付け足すイチに、ゴハは口をとがらせる。
「ケイは予備の鍵持ってないのかよ」
『持ってるけど、気が進まないな』
そうブツリと無線を切られると、イチも「そういうことです」と踵を返した。その後ろ姿が闇に溶けたところで二人は立ち上がる。
「ヤンが避けないから怒られたじゃねぇか。お前が責任取って掃除しろよ」
「はぁ? お互い様だろ」
「生憎、俺より弱いヤツの声は聞こえないもんでな。ほら、さっさと片付けろ」
言い返そうとしたヤンだったが、ふと、ゴハが裸足でいることに気付いた。自分はまだ既死軍の制服で、ブーツを履いたままだ。ヤンは舌打ちをして悪態を突きながらも、言われた通り役目を引き受ける。地面に散らばったガラスは見事なまでに砕け、踏みしめる度に靴底に硬い感触がする。玄関の隅に置きっぱなしになっている箒とちりとりを手にしたヤンは渋い顔をする。
「絶対ゴハより強くなってやるから」
「何万回も聞いたけど、それ、いつ実現してくれるんだよ。俺は待ってるんだけどな」
脱ぎ捨てられている下駄をゴハに投げつけ、ヤンは「今に見てろよ」と返す。
「負け犬の遠吠えって感じだな」
下駄を履きながらゴハは声を上げて笑う。
しばらくして片付けも終わり、外からまじまじと室内を見たゴハは今更実感がわいたように呟く。
「俺らのせいとは言えさぁ」
「俺ら、って責任認めたんだな」
揚げ足を取ったヤンをちらりと一瞥してゴハは視線を戻す。
「こう、玄関に戸がないのは落ち着かないよな」
「それは同感」
ぽっかりと口を開けたままの玄関は、冬でもないのに寒々しく見える。防犯意識がないとはいえ、このままでは何となく心もとない。しばらくどうしたものかと頭をひねっていると、ゴハが何かに気付いたように口角を上げる。
「なぁヤン。ジンって、しばらく帰って来ないって言ってたよな」
二人は顔を見合わせたかと思うと、同時に走り始めた。向かう方向は同じだ。
「鍵貸さないケイが悪いよな!」
「俺もそう思う!」
既に夜の帳は下り、当然の如く堅洲村は静まり返っている。ヒデが玄関を開けると、がらんとした室内はオイルランプでぼんやりと明るいものの、珍しく誰もいなかった。しかし、ヒデは居間に「ただいま帰りました」と声をかける。最早習慣となったその言葉は、言わないほうが落ち着かない。その声が聞こえたようで、いちばん奥にあるアレンの部屋の襖が開かれ、リヅヒがひょっこりと顔だけ覗かせた。そのわずかな隙間から暗がりの廊下に光が漏れる。
アレンが一番仲がいいリヅヒは、今一人で生活している。共に暮らしていた誘のリヤは、ヒデが既死軍へ来たばかりのころに蜉蒼の爆破に巻き込まれ死んでしまった。それ以来、リヅヒ曰く「気ままに」独り身を謳歌しているらしい。
「久しぶり、ヒデ」
ブーツを脱いだヒデは居間を通り過ぎ、「こんばんは」とアレンの部屋に近づく。そういえばあまり入ったことがないなと一度は躊躇したが、リヅヒに手招きされるまま敷居を跨ぐ。
「お帰りなさい。出迎えられず、すみません」
アレンが困ったように笑っている。将棋盤の上で駒がせめぎ合っているところを見ると、白熱した戦いに二人して没頭していたようだった。自分が任務でいないときでも、こうして穏やかに時間を過ごしているのだと思うと、アレンの宿家親以外の顔を見たようで、ヒデは何となくその様子に安心感を覚えた。
「いえ、お構いなく。僕は着替えてくるので、ゆっくりしていってください」
「そうは言っても、任務帰りのヒデくんを無下にするわけにはいきません。晩ご飯にでもしましょう。リヅヒくんも食べていきますか?」
「俺はいいや。俺がいたらできない話もあるだろ」
リヅヒは座ることもなく、部屋を出ようとする。しかし、半歩も歩かないうちに振り返ってアレンの前にある将棋盤を指さした。
「それ、そのまま置いといてくれよ」
「わかりました。が、私にはリヅヒくんに勝ち目はないように見えますよ」
「だから策を練って来るんだよ!」
「潔く負けを認める方がいいんじゃないですか」
「そんなこと、するわけないの知ってるくせに」
返事をする代わりに二人は笑い合う。それがお互いに納得した合図なのだろう。リヅヒは「じゃあ、また」と部屋を後にした。
腰を上げたアレンはおもむろに将棋盤を部屋の隅に移動させる。
「すみません。僕、もう少しゆっくり帰って来たらよかったですね」
「とんでもない。ここはヒデくんが帰って来るべき場所ですよ。リヅヒくんはまた今度来てくれたらいいです。時間だけはたくさんありますからね」
料理を温める時間があるからと言われ、ヒデは先に自室で着替えを済ませた。既死軍の制服を脱ぐと、別人のようになった心持がする。任務中と、それ以外の時間と、どちらが自分らしいのかとぼんやりと考えながら居間に戻る。
まだ料理は出来上がっていないようで、アレンは上り框に座り、土間に置いた七輪で魚の開きを焼いている。隣に座ったヒデにアレンは笑いかける。
「任務はどうでしたか? そう汚れていなかったところを見ると、戦闘もなかったんですかね」
「そうですね。僕は見張りというか、見守りというか。あ、というか、今回の任務自体は軍服だったので」
網に乗せられた魚をひっくり返しながらアレンはうなずく。ふっくらとした身は脂で光り、香ばしい香りを広げている。
「軍人という視点からだと、世界も違って見えることでしょうね」
「そうですね」
換気のため開け放たれた玄関のガラス戸の向こうに広がる夜空に目を向ける。煙ではっきりとはしないが、そこにあるのはどこまでも続く満天の星空だ。
「帝国軍だけじゃなくて、既死軍も。僕らがしてきたこと全てが、綺麗なことでないのはもちろんわかっています。でも、やっぱり、誰かの心に土足で踏み込むのは、何というか」
「気持ちのいいものではないですね」
語尾を小さくするヒデに変わってアレンが続ける。
「戦禍の中では、平和な生活をしているときならできないようなことも平気でできるんですよ。それこそ、人を殺すことだって厭わなくなります。いつ死ぬともわからない、そんな日々の中で生きているヒデくんたち誘が常識的な感情を持つのは、苦しいだけですよ」
アレンは再び菜箸で魚をひっくり返す。その様子を見ていたヒデは、魚のぎょろりとした濁った眼と視線が合ったようで、目を逸らした。
「慣れたと思ってました。人を傷つけても何も思わなくなって、既死軍としての生き方を理解したつもりでした。けど、誰かを守るって、傷つけるより難しいことなんですね」
「守ったつもりでも、傷つけてしまうことは往々にしてあります。それはヒデくんが、いちばんわかっているじゃないですか」
ヒデはアレンの横顔を見遣る。長い髪が横顔にかかって表情ははっきりとは見えないものの、このよき理解者はいつでも包み込むような言葉をくれる。それはもしかしたら自分が欲している物ではないのかもしれない。しかし、アレンの口を介した言葉は全てが温かく感じられた。
自分を見つめる視線に気づいたアレンは髪を耳にかけ、ヒデにふっと笑いかける。
「だから、ヒデくんは誰よりも優しいんですよ」