115話 水鏡
波紋の中に、静寂を。
激しい水飛沫が上がる。ミヤの攻撃をかわした加島は室内から出ようと試みたが、後ろから勢いよく押され、振り向きざまに池に落ちた。流石元軍人だけあって、実力は衰えていないらしい。ミヤはその巨躯を追って自らも池に飛び降りる。再び飛沫が高く上がり、乾いた地面や屋内をも濡らした。
攻撃体勢のまま自分の真上から飛び込んできたミヤの拳を加島は手のひらで受け止めて掴み、池をぐるりと囲む石を目掛けて突き飛ばした。されるがまま勢いよく背中を打ち付けたミヤだったが、一度咳き込んだだけですぐに立ち上がる。顔に出すことは決してないが、内臓にいくらかダメージがあったようで眩暈と吐き気がした。しかし、怯むことなく加島の脇の下に身体を潜り込ませ、真後ろに倒す。そのまま加島の顔面を掴んだミヤは全身の力を込めて、仰向けのままの顔を水面下に沈める。大の大人が子供のように手足をばたつかせ、必死に生を求めてもがいている。
『殺すなよ、ミヤ』
ケイから冷静に声をかけられ、そう言えばと思い出したように力を緩める。その隙を見て加島はミヤの下半身に足を絡ませて勢いをつけ、ミヤの身体を横向きに倒す。咄嗟に受け身を取ったミヤは池の浅いところで回転する。大して綺麗でもない水が口から大量に流れ込み、反射的に嘔吐いた。
二人が動くたびに池の水が音を立てて飛び散る。水を含んだ軍服とスーツはずっしりと重く、動きを鈍らせる。
水面に広がる波紋の下がよく見えないことを利用し、加島は再び懐から拳銃を取り出して引き金を引いた。だが、照準は定まらず、近づいていたミヤの頬をわずかにかすめただけだった。うっすらと滲んだ血が髪から滴る水に混じり、顎からしたたり落ちる。
加島は今度はきっちりとミヤの顔面に銃口を突き付ける。
「この距離だ。さっきの男ももう手出しはできないだろう」
勝利を確信したような口ぶりで加島は僅かに息を上げているミヤを睨みつける。
「こうも簡単に決着がつくとはな。流石に『万夫不当の縊朶』も、寄る年波には勝てんか」
「加島さんこそ、軍を抜けられて十年ですし、相当鈍っているようですね」
ミヤは短く鼻で笑い返し、「それから」と付け加える。
「撃つのは構いませんが、顔はやめてもらえますか。これでも整っているほうなので」
物理的な殺意を向けられてもなお、ミヤは表情を変えない。自分がここで死んでも志を継ぐ人間がすぐそばにいる。何も恐れることなどなかった。生にしがみ付くつもりなど毛頭ない。
だが、今は自分の生死よりも情報を聞き出す方が先決だ。もっと憎まれ口でも叩こうとしていたミヤだったが、それを飲み込み別の台詞に変える。
「俺が死ぬ前に、折角ですし、冥土の土産くださいよ。この帝国を沈める真似をするなんて、一体何が加島さんをそんな凶行に駆り立てるんですか。あなたが反葉山派なのは知っていますが、理由はそれだけではないですよね」
ミヤに向けた銃口と同じく、加島の口は少しも動こうとしない。恐らくこのまま膠着状態が続くのだろう。曲がりなりにも軍人だった男だ。簡単に口を割るわけがない。
「このまま冷たい水に浸かっているのは俺としても不本意です。手っ取り早く終わらせましょう、加島さん。話は変わるんですが」
そう息を吸ったミヤは一層冷たい視線を向ける。一瞬だが、加島の眉が動いた。
「ご両親はご健在だとか」
「そんな常套句のような脅しに動揺するとでも思うか。俺も舐められたもんだな」
ミヤはズボンのポケットに入れたままにしていたずぶ濡れの携帯電話を取り出した。今の戦いで画面は割れてしまったが、支障はなかった。親指で何度か画面を操作する。そのミヤの指の動きに合わせて発せられる感情のない声が、徐々に加島の顔が強張らせる。
「畏苑行政管轄第二十八区三十六番地の二。加島博史、美津子。昨日の時点ではお元気そうでしたよ」
眼前に突き付けられた携帯電話の画面には、加島の両親と陸軍の制服を纏ったミヤが玄関先で肩を並べている写真が映し出されていた。脅迫じみた言葉と写真に加島は飽くまで平静を装う。こめかみから頬を伝う水滴は、頭からかぶった池の水か、冷や汗か判別がつかなかった。
「老い先短い親がどうなろうと、俺にはもう関係ないことだ。そんなもので俺をどうにかしようなんて」
「そうですか。老い先、というのでしたら」
言葉を遮ったミヤは再び携帯電話を操作して画面を見せる。
「離婚された元奥様とご令息、ご令嬢についても、同じことが言えますか。あと、囲っていらした愛人の方二名も」
目に見えて加島の顔が色を失っていく。加島がどんな手を使っても居場所を見つけられなかった元家族も、誰にも話したことのない色恋沙汰も、今や目の前の男の手中にある。人質に取られたも同然だった。不敵な笑みの一つでも見せれば悪役に仕立て上げられるのに、その男は相変わらずの無表情だ。
「加島さんが口を割らないのは想定内です。お強い加島さんはきっと拷問のし甲斐もないでしょう。ですが、一般人となると、耐えられますかね」
「罪もない一般人に手を出すのか」
「仕方ないでしょう。加島さんが話してくださらないんじゃ、ご家族に協力を願うしかありません」
「誰にも話していない。誰もこのことには関係ない」
怒りからか、加島の目元が小刻みに痙攣している。その震えが腕にも伝わり、ミヤに突き付けたままだった銃口がガタガタと定まらなくなる。
目の前の男は何の躊躇もなく人を傷つける。そこには罪の有無も敵味方も関係ない。たった一言の命令で、いとも容易く生命の灯を吹き消していく。加島も先の戦争で実際に見聞きしてきたことだ。周囲はその姿に「死神」や「悪魔」などという陳腐な二つ名を与えることすらできなかった。当時の、今は元帥となった葉山が率いる部隊はそもそも他と一線を画していた。「精鋭」という言葉さえ似合わない。相応しい言葉があるとしたら、それは「異様」だった。だが、それでもミヤが纏っている空気は言い表せなかった。
「関与していようが、していまいが、そんなのは俺にはどうでもいいことです。加島さんに吐かせるためなら何でもします。この帝国で軍人に逆らえばどうなるかなんて、加島さんならよくご存知なはずですよね」
光がないと思っていたミヤの瞳の奥に、当時の炎を見た。
「折角なので、俺が責任を持ってやらせてもらいますよ。感動の再会をしたあと、加島さんが全部話したくなるまで、目の前でね」
わなわなと震えていた指が怒りに任せて動かされる。ミヤは瞬時に軍刀を逆手で抜き、拳銃を手のひらごと貫く。突き刺さった刃を血が伝わり、先端から落ちて池に静寂の波紋を作り出す。
「内乱予備罪は死刑です。今や、加島さんは生きていたところで、国益を損なわせるだけの存在です。死ぬまで税金で食わせてもらえるだけ、ありがたいと思ってください」
ミヤが軍刀を引き抜くと、握るほどの力もなくなった加島の手から拳銃が落ち、音を立てて池に沈んだ。
敵うはずがないことはわかりきっていた。一縷の望みをかけることすらおこがましかったと、観念せざるを得なかった。この男が現れた時点で敗北を喫することは予測できた。
「国益だの何だの、お前は変わらないな。縊朶」
「俺は命令されれば、何でもしますよ」
「この、帝国のイヌが」
脂汗をにじませた加島は傷ついた手を押さえて吐き捨てる。
「帝国のイヌとは笑わせてくれますね。今までも、これからも」
ミヤはそこで初めて口元を緩めた。
「俺は元帥閣下だけのイヌです」
ミヤが池から出るのと入れ替わりにシドが加島の前に立つ。すれ違いざま、ミヤの「水上は」という問いにシドは僅かにうなずく。二人にはそれだけで十分だった。
再び畳に上がったミヤは水分を含んだ軍靴が歩くたびに不愉快な音を立てるのも気にせず、一直線に水上へと向かう。先ほどは椅子に座ったままテーブルに突っ伏して失神していたが、シドによって叩き起こされていた。その室内にいる全員が後ろ手に縛られていて、既に戦意は喪失している。
「なぁ水上、陸軍と言わず、軍の人間はあと何人絡んでる。俺はあと何人に説教すればいい」
水上の隣の椅子にどかりと座ったミヤは足を組む。池の水がいまだに滴る前髪を一度掻き上げ、威嚇でもするように軍刀を触る。その様子を見た水上は必死に何かを話そうとするが、使命感と恐怖がせめぎ合っているのか、上手く言葉にならない。
「何かを話してくれさえすれば、死刑は免れられるように取り計らってやろう。元帥閣下は寛大なお心をお持ちだ。だが、このままだと流石に死刑か、良くても軍事監獄だろうな」
その施設名を聞いた途端、水上は目に見えて震え始めた。ミヤにすら「地獄の方がマシ」と言わしめるその場所は、ただ軍内で規律を犯した人間を収容しておくだけの施設ではない。
「あんなところで再教育されるのは、一人では心細いだろう。そこに仲間を連れて行ってもいいと言っているんだ。それでも仲間は売らないっていうのか?」
震える唇で水上はぽつりと三人の名前を吐いた。ミヤの知る人間ではなかったが、すぐさまケイとイチが調べるだろうと、水上をさらにおだてる。
「全員教えてくれた上で、お前もお国のために働きたいと心を入れ替えるなら、処遇も考えてやらんことはない」
「み、見逃してくださるんですか」
「見逃すとは言っていない。だが、軍事監獄送りも上に掛け合ってやろう」
朦朧とした意識でその甘言をすっかり信じ込んだ水上は更に仲間の名前を上げる。無線越しに聞こえるその名前を名簿化するイチの横で、ケイは一人一人の個人情報を辿る。既にシドが個室内にいた男たちから聞き出していた情報と、今得られた水上からの情報の限りでは、どうやら蜉蒼は本当に関わっていないらしかった。だがしかし、羅列されるのは軍人はもちろん思想家などを含む民間人など約三十人と、先の戦争以来最大規模のものだった。
「縊朶大佐、これでわたしは」
これ以上は知らないとミヤに誓った水上は懇願するような瞳でミヤを見つめ、震える声でおずおずと命乞いをする。国を相手に反乱を起こすつもりなら命を投げ出す覚悟ぐらいしておくものだと、ミヤはその態度が気に食わなかった。助けてやるつもりなど端からない。国家転覆を企てていた人間が罪を告白したところで、何を都合よく赦されると思ったのだろうか。
「帝国のためにと白状してくれたことには礼を言う」
ミヤは立ち上がり、水上を見下ろす。
「死刑も軍事監獄も更生施設も見送ってやろう。それで、代わりと言っては何だが」
一瞬、喜びからか顔が紅潮した水上だったが、すぐにそれは色を失う。自分が一体どんな組織を、どんな人間を相手にしていたのか、嫌というほど思い知ることとなった。
目の前に立っている男は、常軌を逸した人間だ。
「最近、衛生部が健康な生きた人体を欲しがってるらしくてな。そこまで『お国のために』と言う気概があるなら、ぜひ推薦してやろう」