114話 志操堅固
守り抜け、踏み躙れ。
ミヤはゆっくりと室内を見回す。畳敷きだが、あるのは高級そうなテーブルと椅子だった。そして、そこに行儀よく並んでいる顔ぶれは聞いていた通りのものだ。逃げ出すでもなく、何か行動を起こすでもなく、蛇に睨まれた蛙のように硬直したまま誰一人動かない。
上座の加島の隣に座っている男は、今も財閥として会社が残っていれば相応の社会的地位を持ち、順風満帆な人生を歩んでいたであろう鳥船だ。ミヤと同じくらいの年齢のはずだが、それよりもいくらか老け込んで見えた。他は加島が軍人時代に親しくしていたのが二人。これも元軍人で、陸軍と海軍の人間が一人ずつだ。そして唯一軍人ではないのが、過激な思想家で国から目をつけられている男だ。
視線を滑らせたミヤは強張る表情の末席の男で目の動きを止める。その視界に映る男は、ミヤもよく知っている現役の陸軍中尉だった。
「国に食わせてもらってる身分で、どういうつもりだ? なぁ、水上」
びくりと反応したその背中にミヤは冷ややかな視線を投げかける。ミヤの登場に逃げ出すかと思われた水上だったが、果敢にも立ち上がり、飛び掛かろうとする。しかし椅子から腰を上げた僅かな瞬間、シドが一発で正確に足を撃ち抜いた。立ち上がることすら叶わず、水上は血が滲む太ももを押さえて再び椅子に座り込む結果となった。
「命を賭して一人を護る者を皇と呼び、命を賭して百人を斬る者を元帥と呼ぶ。そして、帝国のために命を賭す者を帝国民と呼ぶ」
ミヤは呪文のような言葉をつぶやきながら数歩詰め寄り、痛みにうつむいていた水上の頭髪を背中側から掴んで顔を上げさせる。水上はわずかに首をひねり、ミヤを視界の端にとらえる。しかし、ミヤにとっては他人から殺意の籠った目を向けられるのは慣れたものだ。涼しい顔をしたまま、殺意を行動で返した。
「お前に、この葦原中ツ帝国で生きる価値はない」
勢いをつけてそのまま水上の顔面をテーブルに叩きつけた。既にテーブルに並べられていた食器やグラスが甲高い音を立ててぶつかり合い、割れる。その音に掻き消され、水上の鼻の骨は静かに折れた。美しく磨き上げられたテーブルの黒い天板はこぼれた料理や飲み物、水上の血でインクをまき散らしたかのように、水溜りを作り出す。ミヤは気絶した水上から手を離し、おもむろに加島を見据える。
「さて、俺は加島さんに話があります。他の方は後でゆっくりと聞かせてもらいます」
そう言い終わらないうちにミヤはテーブルに飛び乗り、しゃがんで加島の胸倉を掴む。既に割れていた食器が踏まれてバリバリと音を立て、更に細かく砕ける。
元海軍の男はミヤを止めに入ろうと、手のひらにすっぽり収まる小型拳銃を手にした。鈍い銀色のそれは護身用程度のもので、当たるのが急所でなければ殺傷能力も低い。それと同時に、元陸軍の男もミヤに殴り掛かっていた。しかし、ミヤは迫りくる脅威に気付きながらも加島から目を離すことはない。
結局、元軍人たちは発砲することも、拳を叩きつけることも叶わなかった。拳銃を握ったままの手首はごとりと重い音で床に転がり、殴り掛かった腕は肩から切り落とされた。ミヤと男たちの間合いに入ったシドは構え直した軍刀の切っ先を、手首から先を失った男のまつげの先に突きつける。
シドにとって「殺してはいけない」という命令が一番厄介で苦手だった。このまま一突きしてしまえば呆気なく終わらせられるのに、どうやらケイには真相解明というものが必要らしい。面倒な任務だと、目の前の男に八つ当たりでもするかのように刃の方向を変え、床に膝をついていた男の太ももに突き立てる。そのまま軍刀はふくらはぎと床を一直線に貫いた。ねじるように引き抜くと、野太いうめき声がだらしなく響き渡る。腕を失った男は床に伏せたままぴくりとも動かない。
戦闘経験のない鳥船と思想家は恐れおののき、鉄臭い空気が漂う空間で繰り広げられる光景を石像のように凝視していた。
帝国において様々な権力を持つ軍人とはいえ、逮捕権は与えられていない。誰か一人、逮捕権を持つ治安維持部隊役でもいれば手っ取り早く逮捕してしまえるのだが、それをミヤは拒否した。飽くまでも「軍の問題」としてこの騒動にかたを付けたいらしかった。
シドは加島以外の男たちが戦意を喪失した様子を見て、部屋の隅に移動した。軍刀も拳銃もしまったとはいえ、臨戦態勢であることに変わりはない。壁にもたれ、ただじっとミヤの横顔を見ていた。
ぴったりと閉じられた障子越しに、食器の割れる音がした。ヒデは鞘に納まったままの軍刀の柄を握り、それを冷静に聞いていた。冷静どころか、その食器に盛り付けられている料理が勿体ないとすら思う余裕があった。
既死軍の人間は相手がだれであろうと容赦ない。その中でも、シドは頭一つ飛びぬけている。「躊躇」という言葉などとは無縁だろう。その宿家親であるミヤは言わずもがなだ。
ヒデも慣れたもので、どんなに大きく不穏な音がしたところで驚く気にはならなかった。しかし、目の前の客や従業員は僅かな物音にも飛び上がらんばかりで、弱々しく体を震わせている。
「あの」
思わず声を発したものの何を言うつもりだったのか、その場にいる全員の視線を受けてなお、すぐに言葉は出てこなかった。もう一度「あの」と繰り返した。ここにいる人間に安心感を与えたいのか、それとも自分を鼓舞しているのか、ヒデは「心配は要りません」と続けた。更に何かを言おうとしたところで、外から水飛沫が聞こえた。それはヒデも含めた全員が思わず視線を向けてしまうほどの音量だった。
無線はケイに一方的に切られており、宴会場の外での会話や状況はわからない。不測の事態であれば何かしらの連絡が来るはずだとヒデは体勢を戻す。落ち着き払ったヒデの様子に、その場の動揺した空気も徐々に収まる。だが、店がめちゃくちゃに荒らされてしまっていることを想像しているようで、従業員の顔は暗い。確かに、聞こえる物音は穏やかなものではない。大事にしていたものが無残な姿に変り果てるのをただ黙っているしかない人々を多少不憫に思う。ましてやここはそれなりに歴史がある料亭らしい。代々受け継いできたものもあるのだろう。
ヒデは一際暗い表情をした着物姿の中年女性に目を向ける。
「あなた方が守ってきたものがあるのと同じく、僕らにも守るべきものがあります。こんな言葉で、あなた方の大切なものを壊していいとは思っていません。ですが、僕らは綺麗事だけでは生きられません」
正座した女性の握った拳がわなわなと震えているのがはっきりとわかる。ヒデは耐え忍ぶことこそが美徳だと言い切ってしまうことはできなかった。その先に拓ける道が明るいものとは限らないことを知っているからだ。しかし、踏み躙られなければ得られないものがあることも知っている。
しばらくの沈黙の後、口を真一文字に結んだ険しい表情のままで女性は浅くうなずいた。
ヤンが立っている真正面に加島がいる個室がある。池を超えた先ではあるが、遮蔽物がないことからよく見えた。開け放たれた障子と鴨居、敷居で四角く切り取られたそこはさながら劇場のようで、ミヤやシドの無駄のない動きが現実味のない演劇のように思われた。
しかし、現実では演出のように華麗に血飛沫が舞い散ることも、断末魔のような悲鳴が上がることもない。血が湯気を立ててどくどくと溢れたのち、ただ粛々と畳や壁、障子に染み込んでいくだけだ。
逃走経路を断つために外へつながる出入り口に立っているが、出番はないに違いないとヤンは少しため息をついて遠くで上演されている戦闘シーンを眺めていた。
ちらりと右に視線だけを動かし、ヒデがいる宴会場を見遣る。そこはそこで不気味なまでに静まり返っていて、ヤンはこんな料亭程度の敷地でよくも静と動を作り出せたものだな、などとぼんやり考えた。
「なぁケイ、加島に援軍って来そうなのか?」
ややあってから、ケイの声が聞こえた。
『俺からカメラで見える範囲にはいない。まぁ連絡する暇もなかっただろう。近隣もお利口に戒厳封鎖令を守ってるよ』
「流石、よく飼い慣らされた帝国民だな」
ヤンは嘲るように笑い、料亭内以上に静寂を貫く背後を一瞥した。
「話には聞いてるけど、ミヤってさ」
再び敷地内に目を向ける。
「どれぐらい強いんだ?」
『少なくとも俺よりは強い』
「ケイの強さを尺度にされてもな。俺は情報統括官やってる死にかけのケイしか見たことないし」
『俺も既死軍で生き残った人間だ。それなりだとは思うぞ。昔は顔が腫れるまでミヤに殴られたもんだ』
「それで今も五体満足なら、大したもんだな」
『だろ。もっと褒めてくれてもいいんだぞ』
「それは遠慮する」
そっけなく答えたヤンの視界は池に突如として上がった水飛沫に釘付けになった。噴水のような勢いのある水柱は劇場から飛び出して来たミヤと加島が作り出したものだ。飛沫が自分の所まで飛んでくるような二人の激しさに、ヤンは思わず引きつったように口角を上げる。
「あんなのを毎日まともに喰らってたって言うなら、俺はケイを少しは尊敬するかもな」
『今どんな光景を見てるか知らんが、概ね俺の想像通りだと思う』
ヤンは万が一を警戒して軍刀を握り直し、攻撃態勢をとる。ミヤとシドという既死軍における双璧がいる限り、出番はないだろう。しかし、迫りくる殺気立った雰囲気を感じた身体は勝手に動く。ミヤやシドが呼吸をするように人を傷つけられるのと同じく、自分にも染み付いた動作というものがある。
一瞬途切れたケイの声が再び聞こえた。
『ミヤが加島たちを殺さないように見張っててくれ』