112話 大いなる泥船
ためらわずに、乗れ。
桜の季節も終わり、太陽が出ている時間も日に日に長くなる。しかし、夜はまだ肌寒く、急いでいるわけでもないが、ヒデは樹海を走っていた。この木々しか見えない世界も慣れたものだ。春も盛りを過ぎた今日の日付はわからない。しかし、二年前のこの季節、自分は既死軍へ来た。三年目が始まろうとしている。
視界が開け、遠くに廃墟街が見えた。もう少しでルキの事務所に着く。ヒデは境界で足を止めた。
二年前の自分は、世界がこんなにも広いとは考えたことがなかった。狭い生活範囲だけが全てで、そこには苦痛しかなかった。ルワは既死軍のことを「自由がない」と言ったが、そうは思わない。ただ自分の感情のまま、泣いたり笑ったりできる既死軍での生活は自由そのものだった。
「ルワにも、わかってほしいな」
新月も近づき、堅洲村であれば満天の星空だ。しかし、ここは遠くにかすむ街灯りで堅洲村ほどはよく見えない。
事務所に続く階段を上り、ドアをノックして開けると、正面のデスクに座っているのはルキではなくイチだった。
「お疲れ様」
機械で作られた感情のない声でイチがあいさつをする。イチがいるということは、ルキは出かけているか寝ているかのどちらかだろう。表向き「探偵事務所」を名乗っているここは二十四時間年中無休を謳っている。たった一人でその看板を背負うのは酷だろうとここへ来るたびに思う。
「詳細は全員が集まってから」
ヒデはうなずき、来客用のソファに座った。何かを話すわけでもなく、しばらくぼんやり待っていると、隣の部屋から何かが落ちたような鈍い物音がした。
「もしかしてルキさんいるの?」
イチは何度か小さく首を上下に振り、視線を隣室に続くドアに向けた。
「二時間ぐらい前に帰って来た。今は仮眠中、のはず」
さっきの物音は、ルキが立てたものに違いない。状況から推測するに、もしかするとベッドから落ちたのかもしれない。
「ルキはまた探偵ごっこか」
「探偵というより密偵」
そう言いながらイチが視線を戻した先、事務所の入り口には、いつの間にかヤンが立っていた。この事務所に来るときはいつもしかめっ面をしているものの、ヒデの隣に座るときは口元が緩んでいるように見えた。
「密偵って言えば聞こえはいいけど、やってることは盗聴器しかけたり家に忍び込んだり、犯罪だからな」
『その犯罪のおかげでお前らは任務に行けるんだから感謝しろよ』
ヤンは会話に割って入ったケイに「はいはい」と気だるげに返事をしてソファにもたれ、あくびをする。
「密偵ってことは割と長期なんじゃないの? イチはいつからここにいるの?」
「一週間前ぐらいかな」
「それだけ長いとケイが死なないか心配だな。イチがいないと生活成り立たないんだろ」
ケイの多忙は誰もが知っていることだ。そんなケイの日常を哀れむでもなく、けらけらと笑い飛ばしながら、ヤンは頭の後ろで腕を組む。
「今までヤヨイさんとかジンさんとかが何とかしてくれてたし、最近はセンがその役してくれてるし、大丈夫」
真面目な返答をしたイチは、前にいる二人に聞こえないぐらいの声で「ですよね?」と問いかけた。だが、耳元からは曖昧な返事ともつかない声がしただけだった。
「数字名のよしみってやつだな」
一瞬、何のことかわからなかったヒデだったが、納得したように手を叩いた。
「そう言えば一も千も、数字だね」
「けど、京さんは十の十六乗だから敵わない」
珍しく冗談のような台詞をこぼすイチだったが、表情からも声からもその感情は読み取れない。
『その考え方なら俺も那由他には敵わないけどな。くだらないこと話してないで、さっさとルキを起こしてくれ』
返事をしたイチは左手にあるドアからルキの自室に入り、すぐに出てきた。それからしばらくして、見慣れたスーツ姿のルキが部屋から出てきた。
「やっぱり見知った場所と人って安心する~」
ネクタイを締めながら、イチと居場所を交代する。デスクに座ったルキの顔は、先ほどまでの寝起き感のあるものから、仕事用のものに変わっていた。
「あれ? シドは?」
「先に向かいました」
「ねぇケイ~、シドってどこまで聞いてるの~?」
『ルキからの報告も含めて、全て連絡済みだ。ミヤの事務所で合流させてくれ』
「了解~。ってことで」
天井を仰いでいたルキがヤンとヒデの方を見る。
「今日はシドと三人だよ~」
「けどミヤの事務所って、ミヤもか?」
「まぁまぁ、それも含めて説明してもらうね~」
二人の正面に座っていたイチがルキの机から資料取り、手渡した。
「今回これを作ったのは僕なので、僕から説明します」
そう言ってイチが話し始めた。それはいつもの間延びしたルキの説明よりも簡潔だった。
今回の任務はある人物を捕まえることだ。それは十年ほど前まで帝国陸軍に所属していた元軍人で、名を加島という。
その男が、国家転覆を画策しているというのだ。
珍しく情報源は現役軍人であるミヤからで、ミヤも頭主、もとい元帥から聞かされた話だった。ただの噂の可能性もあったが、十年も前に軍から姿を消した人間の名前が突如挙がるのもおかしな話だと、元帥は直観的に判断した。ミヤも同意見で、すぐさまケイに話を通した。
加島が実際に計画を企てているのは、ルキの調査ではどうやら本当らしかった。きっかけはミヤにもルキにもわからなかったが、そんなものは直接会ったときに吐かせればいいだけのことだ。
「でね~こっからが面白い話なんだけど~」
イチの説明がひと段落つくと、ルキが意気揚々と口を開いた。
「国家転覆ってさ~お金かかるじゃん~。色んなもの用意しなきゃいけないしさ~。でさ~、その資金源って言うのが」
「旧財閥の一つ、鳥船財閥」
そう遮ったイチは主導権を取り戻し、話したそうにしているルキの視線を見ないように努める。社名を聞いたヤンは「あぁ」と何かに気付いたように声を上げる。
「旧軍と揉めてお取り潰しになったところか。その加島ってやつに資金提供する気持ち、わからんでもないな」
「軍に逆らった鳥船財閥は全財産没収の上、一部の人間は死刑になった。けど、推測の域は出ないものの、隠し財産があったとしか考えられない」
「なんかさ~映画みたいじゃない~? 軍に潰された一族の人間が元軍人と手組んでるってさ~。面白いよね~」
仕事用の机に足を乗せたルキはへらへらと笑いながらタバコをふかしている。
ヒデは遠慮がちに「あの~」と手を挙げる。一つ、気になる点があった。このような内容の任務には必ずと言っていいほど名前が出るのに、今日は全く聞いていない。
「蜉蒼って、関わってないんですか? 喜んで手伝いそうなもんですけど」
「えっとね~。武器の提供とか、何かしらでは関係があるのかもしれないけどね~。ルキさんが調べた限りでは表立っては関係なさそうだよ~」
「裔民以外の人間が蜉蒼に連絡取るっていうの、難しそうだよな。神出鬼没なわけだし。連絡手段すらわかんねぇよな」
「そうそう~。それにさ~、この情報を蜉蒼が聞きつけてたところで、今、加担するような機動力があるとは思えないしね~。まぁ、いてくれないほうが助かるっていう希望も込みで『関わってない』って言っとくね~」
一口に「既死軍から見た悪者」と言っても、色々な関係性があるんだなとヒデは納得したようにうなずいた。一つの悪事を潰したところで、すぐに別の悪者が現れる。いたちごっこというより趣味の悪いもぐら叩きのように思えた。
「で~、話戻すんだけど~、今日はなんと! 加島が開いてる悪い会議を襲ってもらいま~す!」
『人聞きの悪い言い方をするな』
久し振りに会話に加わったケイは説明を補足する。
『ないとは思うが、失敗した場合の帝国の損害を伝えておく。軍を率いる元帥の死亡は当然として、主要銀行と交通機関及び畏苑の電力源である発電所の爆破。そして加島の最終的な目的は軍の解体だ。夢物語も大きく出たもんだな』
壮大な計画を聞いたヒデは憐れみを含んだ声でぽつりとつぶやく。
「国に恨みを持つって、どうしてなんでしょうね」
「軍を辞めた人間だ。逆恨みなり何なり、心に溜まった澱があるんだろうよ」
ヤンはソファにもたれたまま、呆れたような、嫌気がさしたような、そんな瞳で天井を見上げて続ける。
「財閥も同じだ。少なからず、今の五大財閥だって軍と何かしらの関係がある。それが良好とは限らない。糸が切れたら、たどる道は鳥船財閥と同じだ」
「国と財閥なんてさ~、どこの国でも持ちつ持たれつでしょ~? 何もこの国に限ったことじゃないよ~」
ルキはかすかに口元だけで笑い、ヤンを肯定する。しかし、ヤンの視線は動かず、鼻で笑い飛ばされただけだった。しょんぼりとしたルキを横目に、イチは話を締めにかかる。
「何はともあれ、国がひっくり返るかどうかはみんなの働きにかかってるから、よろしく」
簡単にそう言うと、イチとルキは二人を階下へ見送った。
だだっ広い二階は壁に簡易な棚が並び、そこには銃弾や矢などが置かれている。そんな部屋の隅にぽつんと段ボールがあった。
「この正装用の軍服って、戦いには不向きだよなぁ」
「ヤンはこれで戦ったことある?」
「あるある。既死軍の制服の方が圧倒的に動きやすい。ヒデは?」
「戦闘らしい戦闘はないかな。着たことも一回しかないし」
「それなら、お荷物だな」
声を上げて笑っている内に、二人は着替えを済ませ、拳銃と軍刀を手にした。
「失敗したらこの国がどうにかなるなんて、わくわくするな」
「こんな任務に心躍らせてるなんて、ヤンらしいね」
「そう言うお前は?」
階段を下りながら、ヒデは首をひねる。帝国は今までにこんな危機を何度乗り越えてきたのだろうか。確かに蜉蒼はテロ組織だが、どちらかと言えば、世間や既死軍を弄ぶ愉快犯的な要素の方が強い。だが、今回ばかりは明確に国家を狙った犯罪だ。
失敗すれば国の存続にかかわるかもしれない。そんな任務にどんな心持ちで臨もうかと頭を悩ませてみても、出てきた言葉は陳腐なものだった。
「がんばる、かな」
「ヒデらしいな」
再び笑ったヤンは移動器がある地下へと続く扉を開けた。