109話 駆る
退かざる者は、必ず進む。
春。それは誰もが浮足立ったように新生活に心躍らせている麗らかな季節だ。
人が行きかう駅の構内では、ふわふわとした現実味のない話し声が聞こえる。そんな場所を携帯電話片手に人込みを掻き分けて走る青年の姿は異様に映った。薄手のグレーパーカーとコートに、ベージュのズボンと黒いスニーカー。どこにでもいる大学生や高校生のような服装で走るのは、紛れもなくヒデだった。
通話口に向けて早口にヤンの状況を確認する。
「今、帝鉄の八社駅。これから高架沿いに走水駅方面に向かう。隼人、今どこ?」
『花街道と幹線の交差点、ほら、歩道橋すげぇあるとこ。悠理は?』
『俺は花街道から下って、えっと、これ何だっけ。あ、万国友好会館の交差点』
ヤン、ヒデ、ジュダイがそれぞれの電話越しに居場所を伝え合う。
休日昼間の繁華街、大勢の人がいる中で電話をしているのは誰の目から見ても自然なことだ。その自然さを創り出す。ただそれだけのために、ピアス状の無線があるにもかかわらず、わざわざ手に携帯電話を持っている。
徹と呼ばれたヒデは駅構内から外へ続く階段を駆け上がり、歩道橋で繋がったビルにそのまま入ってすぐさま階段を下りる。階段の上り下りはあるものの、歩道橋下にある横断歩道は一度赤になればたっぷり二分は変わらない。これは今いる場所から目的地まで行く一番早い道だ。ヤンとジュダイが伝えた場所ですら口頭だというのに、すべて位置関係も景色もはっきりとわかる。
ここは、阿清秀の生活圏だった。買い物も食事も遊びも、全てがここだけで済む繁華街だ。
言葉の端々から、ヤンとジュダイも既死軍に来るまではここが日常の一部だったことが窺える。意外とすれ違ったことがあったのかもしれない。ヒデはそんなことを考えていた。
それぞれが既死軍へ来る以前の知り合いに合うかもしれないという危険を犯してまで、今回の任務にこの三人が選ばれたのには理由があった。それは「土地勘があること」。それ一点のみだ。
久方ぶりにケイが手にした蜉蒼からの予告状は、黎裔が火災から立ち直ったことを意味していた。思ったよりも早かったなとその文面を読んだケイは渋い顔をして目を固くつぶった。
快気祝いや景気づけとでも言うつもりなのだろうか。帝都畏苑の中でも、老若男女が集まる一大繁華街を盛大に爆破しようというのだ。
割合で言えば、テロ行為は実行されるほうが多い。しかし、既死軍を疲弊させるためだけに送られてくる嘘のものも稀にある。既死軍にしてみれば、爆発物は見つかってくれた方が有難い代物だ。
ケイの見立てでは、今回のものは嘘の予告状だ。
蜉蒼の爆発物を見つけるために、既死軍は特定の金属に反応する探知機を使用している。それはいつも同じ金属が爆発物に使われているからなのだが、犯行予告が嘘だった場合はその探知機が反応することは決してない。それゆえ、「ない可能性のほうが高い」という状態で捜査を打ち切らざるを得ない。だからこそ、爆発物を見つけ、適切に処理をしてしまうほうが手っ取り早い。レイエイの現状を考えるに、ここまで大規模な行動ができるようにはまだ思えなかった。それでも予告状が来たからには誘を行かせないわけにはいかない。
頭主に大見得を切ったからには、この無為な鬼ごっこのような関係も早く終わらせなければとケイは再び眉間にしわを寄せた。
ヤンは大通り沿いに北の方向を目指していた。このまま緩やかな坂を上って行けば、百年ほど前の古い家屋が立ち並ぶ観光地に出る。ガイドブックでも取り上げられ、ツアーでも観光ルートに組み込まれる、観光客が絶えることのない場所だ。蜉蒼が狙うにはうってつけだろう。
『徹は駅についたら茶町のほうに向かえ。悠理はそこから商店街を抜けて徹と合流してくれ。俺は北小野に行く』
ヤンからの連絡にヒデとジュダイはそれぞれ返事をする。
ヒデが向かっている駅は、普通に歩いても十五分もかからない距離にある。そこから南に向かった先にある茶町もすぐの距離で、百貨店や高級ブランド店が立ち並ぶ人通りが多い場所だ。
今回は蜉蒼が指定した範囲が広すぎる。もし見つけられなかった場合、最悪の事態になることは間違いない。反対に、見つからなかった場合も、ただ疲れるだけで得るものは何もない。どちらにしても蜉蒼の手のひらで転がされているようで、面白くない任務だった。
そんなことを考えていると、遠くから名前を呼ばれる。聞き覚えのある緊張感のない声にギョッとして振り返ると、思った通りルワがすぐそこまで走り寄っていた。
「ヒデー!」
「な、名前呼ばないでください。僕が何でこんなところにいるか、わかりませんか?」
慌てて口元で人差し指を立てるヒデに、ルワは一度首をかしげると、言わんとすることにやっと気付いた。
「えーっと、なんて言うか、やっぱり『バイト』中?」
「そうです。そっちは?」
「俺も~。あ、名前はコウって呼んで」
「それ、本名ですか?」
「いいや。お前こそ、今日はどんな名前なんだよ」
「徹です」
「名前って毎回変わんの?」
「そうですね」
「えー無理無理。毎回なんて覚えきれねー!」
ヒデは半分笑いながら、ロイヤル・カーテスが使う偽名は毎回同じなんだなと思った。
詳しいことはお互いに話そうとしない。だがしかし、同じ場所に向かって走っていることを思えば、同じ命を受けた任務であることは明白だった。
「今日は他に誰がいるんですか?」
「教えない!」
「じゃあ、コウはどこ見るんですか?」
「俺はこのまま、まっすぐ高架下担当。ほら、やっぱり移動手段やられたら復旧するまでキツいじゃん。で、商店街と観光地は他のやつら」
ヒデの誘導にも気づかず、ルワはあっさりと答える。ロイヤル・カーテスは、どうやらルワ以外に少なくとも二人はいるらしい。
「そうですか。じゃあ僕とは駅で別れますね」
「徹はどこ行くんだよ」
「教えません」
「俺教えたじゃんー!」
「秘密は秘密です」
ルワはわかりやすくしかめっ面を作ると、携帯電話を操作して話し始める。小声でしばらくやり取りをすると、隣を走るヒデにそれを差し出した。
「話したいってさ」
相手はロイヤル・カーテスに違いないだろうが、一体誰だろうと恐る恐る受け取る。
「ど、どうも」
『うわー。ホントにヒデだ。うちのが世話になってるね』
『ほんと、コウが何か口滑らせてないか心配なんだよ』
声から察するに、恐らく電話の向こうはユネとヴァンだろう。「早速滑らせてましたよ」とも言えず、ただ愛想笑いをする。なぜ敵にこんな気を使わなければならないのかと、それは苦笑いと区別のつかない笑いだった。
『で、そっちは場所の見当ついてるのか?』
「なんとも、ですね」
『お前らの情報網も大したことないんだよ。僕たちの方が先に見つける』
「じゃあ、そっちはどうやって探してるんですか?」
『そんなのには引っかからないんだよ。コウじゃあるまいし』
「ですよね」
ヒデのその一言で、ルワがうっかりと何かしらの情報を漏らしたことを悟った二人はそれぞれ非難の言葉を口にした。
『まぁバレてるもんはしょうがない』
『あとでシメるって言っといてほしいんだよ』
『できるだけ早めにコウと別れてくれ。頼む。コウは墓穴しか掘らない』
ヒデは笑いながら「わかりました」と返事をして、携帯電話を返した。赤信号に足止めを食らう。長距離を走っても、二人とも息を上げることすらしていない。
「何て?」
ヒデは何と言えばいいものかと、何度か「えーっと」とうっかり声に出してしまいながら頭を悩ませる。
「首、洗っといたほうがいいかもしれません」
思いもよらなかった物騒な回答にルワは「何で!?」と困惑したように大声を上げた。近くにいた数人が振り返る。信号がぱっと青に変わり、それに合わせて人波が動き始める。
「俺、何かやらかした!?」
「それは、仲間内で聞いてください」
「あとで合流するの嫌になってきた」
そんな会話をしていると、あっという間に目的地だった走水駅に着いた。二人は顔を見合わせる。
「徹は、どっち行くんだよ」
「左です。コウは、まっすぐ行くんですよね」
「そうそう。けど、俺の担当、高架から北の範囲だし、どっかで右に曲がるかも。ここから先あんまり何もないし」
「わかりました」
ヒデはルワから視線を外し、駅前の様子を眺める。そこには二、三十人が座れそうなほど広い階段状のベンチが設置されている。ベンチでは友人との会話に興じている若い女性や、誰かを待っているような年配の男性、コーヒーを片手に読書をしている青年などが思い思いに時間を過ごしている。太陽は少し傾いているものの、まだ明るい。
電車が到着したらしく、駅からはどっと人が溢れ、それぞれの目的地に向かって散っていく。
ルワも同じ景色を見ている。
「この際、手柄はどちらでもいいと思います」
「そうだな」
「もちろん譲るつもりはありません。けど、それよりも僕らには、なすべきことがあります」
ルワの返事を待たず、ヒデは一歩踏み出そうとする。その肩をルワは掴み、振り返らせた。
「悲しくならないのか」
突然のことにヒデは眉を顰める。ルワの視線はヒデではなく、ベンチで思い思いに過ごす人を見ている。
「何がですか。急に」
「ヒデはもう、できないんだろ。こんな風に。自由に生きること」
「それはルワも同じですよね」
真剣な瞳に、偽名のことも忘れて思わずその名をお互いに呼んでしまう。しかし二人はそれにすら気付かなかった。
「俺は自由だ。しようと思えば何だってできる。けど、ヒデ、お前は」
「同情してるつもりなら、僕には要りません。どんな境遇を自由と思うかは人それぞれです。ルワにはわからないんでしょうけど」
肩に置かれた手を払いのけ、ヒデは笑う。
「僕は、間違いなく自由です」