108話 徒し野
愚劣な愛を、尊べ。
「アレンさんは、僕が既死軍に来るまでのことって、どれぐらい知ってるんですか」
「名前だけ、ですね」
ヒデは「そうですか」と返事をすると、考え込むようにしばらく黙った。アレンは静かにヒデが口を開くのを待つ。沈黙の時間は誰にでも必要だ。ましてや、何かの決意をもって話さんとするときには、最も尊い時間でさえある。
「あの、宿家親のアレンさんにどこまで話していいかわからないんですけど」
そう前置きをしてヒデは息を吸う。いざとなればきっと無線で聞いているケイが止めに入るはずだ。それまでは話してもいいだろう。そう思い、ヒデは吸い込んだ息を深く吐いた。まだ肌寒い空気がひやりと頬を撫でる。
「僕、家族って、お母さんしかいなかったんです。お父さんは僕が小学一年生ぐらいの時に突然いなくなって、それっきりです」
幼少期の記憶はほとんどなく、思い出すのも億劫だった。「それ」がいつだったのか、季節すら思い出せない。ただ、父親の失踪がきっかけで自分の人生が変わり果ててしまったことははっきりと自覚している。堅洲村で生活するうちに心の傷は多少癒えたにせよ、自分を殴り続けた母親も、自分たちを見棄てた父親も、その存在を忘れることはできなかった。既死軍に来てから与えられた率直な愛情も、不器用な愛情も、深く抉られた傷を塞ぎきるにはまだ足りなかった。
ただ短い言葉を発しただけなのに、それは苦痛を伴うような表情と声色だった。アレンはヒデの背中にそっと手を添える。その手のひらにヒデは体中の毒素を中和してくれているような温もりを感じた。
「失踪して七年経ってるから書類上は死んでいるんですけど、もし生きてたら、僕と同じ境遇ですね」
自分と父親の唯一の共通点に思えるのが、こんな奇妙な境遇だけであることにヒデは薄っすらと嘲るように笑う。
「記憶の遠くにいる僕たち家族は笑ってたんです。けど、お父さんがいなくなって、全部ぐちゃぐちゃになりました。お母さんが毎日泣いてたから、僕は笑ってほしいと思いました。僕を殴って、それでお母さんが笑えるならって思ったけど、ダメでした。僕が何をしても、何を言っても。理由はわからないけど、僕の存在自体が、お母さんにとっては」
そこまで言うと、両手で顔を覆った。声が震えているのが自分でもよくわかった。アレンは無言で背中をゆっくりと撫でる。
「誰かが、僕のせいで泣くぐらいなら、僕が。僕が傷ついて、死ぬほど傷ついて、それで」
ヒデはそこで言葉を止める。自分が限界を迎えたその時の、深夜の公園が眼前に広がっていた。
見兼ねたアレンは行き場を失ったヒデの感情を拾い上げ、言葉にする。
「それで、死後の世界へ来たんですか?」
「そう、かもしれません」
池の暗い水面、沈んだメダルが作り出した波紋、風に舞う千切られた表彰状、暖かくも涼しくもない風、外灯にぽつんと照らされたベンチ。
その空間で自分が考えていた「最悪の選択」を思い出し、一筋涙が頬を伝った。
「誰かに褒められても嬉しくなかった。だって、いちばん褒めてほしかった人は、いちばん笑っててほしかった人は、僕に、見向きもしなかった」
両手で覆われているヒデの表情が一体どんなものなのか、見なくても十分理解できた。アレンは落ち着かせるように手を動かす。しかし、それとは裏腹にヒデの語調は強まる一方だった。
「僕は死んでも良かった。僕の最大の不幸が、お母さんの最大の幸せになるなら、それでよかったんです。なのに、僕が死んだとき」
顔を上げた拍子に、溜まっていた大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「お母さんは泣いてました」
既死軍として初めての任務は「自分の遺品を母親に渡す」ことだった。自分が望んだことだったが、結果的に自分を苦しめることになった。自分が母親の元へ出向くのは情報統括官であるケイが許可したことだが、今となってはそれすら自分のせいに思えた。
ヒデは一息つく間もなく、言葉を続けた。
「そのとき、はっきりとわかりました。僕の存在は人を悲しませるだけなんです。だから、誰かを笑顔にするなんて、僕には」
そう声を詰まらせながら涙をこぼすヒデに、アレンは微笑みを返す。
「では、私の表情はヒデくんに、どう映っていますか」
涙でゆがんだ視界を介してですら、それが慈愛に満ちた表情であることはわかった。ヒデは手の甲で留まることのない涙をぬぐう。
「こうしてヒデくんが思い悩んでいることは、お母様にも、今心に浮かべている人にも、伝わっているはずです。だって、ヒデくんはこんなにも愛情深くて、優しいんですから」
アレンはヒデを抱き留める。全身に伝わる温かさがヒデの涙を止めた。
「愛情の表現方法は人それぞれです。ですが『人を愛する』というのは、私が思うに、覚悟と責任があって初めてできることです」
心の隙間を満たすような声がすとんと耳に響く。
「私が宿家親になったとき、守り抜こうと決めたことが一つだけあります。それは、誘の幸せを第一に考えることです。誘は任務に行けば、帰って来るとは限りません。死ぬ間際に、幸せだった時間を少しでも思い出してほしいからです。これが、わたしなりの愛情です」
ヒデはアレンの腕の中でその心地よい声をただ聞いていた。時折、自分の選択は間違っていなかったとでも言いたげに腹部の傷が痛んだ。
「僕の人生は、間違っていませんか?」
「これだけ悩みぬいたヒデくんが、間違っているはずがありません。きっと、届いていますよ」
その言葉に、ヒデは目を閉じる。こすられた目元だけが少し赤みを帯びていた。
「聞いたか? アレンの嘘も、大きく出たもんだ」
一連の会話を聞いていたケイは隣に座っているミヤに笑いを含んだ声で話しかける。
「だが、やっぱり宿家親はアレンに任せて正解だったな」
自画自賛するケイを鼻で笑ったミヤは、そのまま嘲笑したような表情で返事をする。
「さすが、情報統括官様は先見の明がおありでいらっしゃる」
「嫌味か?」
「褒めてる」
「そうは聞こえんな」
笑い返しながら、ケイはパソコンを操作してヒデたちの会話の音量を下げる。既死軍に属する人間たちには例外なく無線として右耳にピアスがつけられている。それは四六時中音声を録音し、ケイが望みさえすればいつでも聞くことができる。この既死軍ではすべてがケイの監視下に置かれている。
「それで、ミヤはこの独白を聞いてどう思う? ヒデのこと」
「どうもこうも。俺が頼まれたのは『見守る』。それだけだ」
「ミヤの言う『見守る』は、見てるだけか?」
「あのとき、俺は命を懸けて守ったつもりだ。燃え盛る炎に飛び込んだ俺の英雄譚でも聞きたいのか? これ以上、ケイは俺にどうしろって言うんだ」
渋い顔をするミヤにケイは「愛を教えてやる、とか?」と嫌味ったらしく笑った。ミヤはそれに不愉快そうな表情を返す。ヒデが何かに思い悩んでいるのは明らかだ。しかし、それは他人がとやかく言って解決するものではないだろう。
ミヤは遠い自分の過去を思い出し、ため息をつく。
「成長するには葛藤ぐらい必要だ。思春期ってやつだろ」
「名前がある感情は便利だな。よくわからん感情も、それだけで納得するしかなくなる」
その返事が癪に障ったのか、ミヤは人差し指でケイの額を弾く。
「思春期特有の葛藤の末、俺を殺しに来たくせに。よく言うよ」
「あの時の殺意は本物だった」
「それなら、殺意が足りなかったな」
そう笑ったミヤは立ち上がる。
自分の宿は居心地が悪いのか、ミヤは以前よりもよくケイのところへ来るようになっていた。特段気にするほどでもないのだろうが、どうもミヤとシドにはまだ確執があるようだった。
挨拶もせずに部屋をあとにしたミヤは、そのままアレンとヒデの宿へと向かった。満天の星空はただ明るく行く道を照らす。人生もこれぐらいわかりやすければいいのになとミヤは先ほどまで聞いていたアレンとヒデの会話を思い返していた。
誰にでも後悔はある。ままならないことの方が多いくらいだ。それでも、自分たちは生きていかなければならない。
玄関を開けると、アレンが囲炉裏のそばに座っていた。ミヤの来訪を予期していたかのように、手元には新しい湯飲みが二つ置かれている。火がパチパチと燃えている囲炉裏のやかんには水が張られ、うっすらと湯気を立て始めていた。
「ヒデは?」
「寝てしまいました。まだ体調が戻っていないのでしょうね」
その問いに不思議がることもなく返事をしたところを見ると、ミヤが先ほどまでの会話を聞いていたことを容易に見抜いているようだ。アレンは平然と茶を淹れる。
ミヤは草履を脱ぎ、アレンの正面に座った。この男も長年の付き合いになるが、つかみどころがない。
「アレンの言う愛とは何ぞやって、哲学か?」
「いいえ。私なりの答えです。ずっとシドくんといるミヤさんと違って、私は誘を二名、亡くしているので」
「エルとツルギだろ」
「おや、覚えておいでですか」
「俺が見つけてきた死体だ。忘れるわけがない。この堅洲村にいた人間は、全員覚えている」
「それは光栄なことです。エルくんとツルギくんも報われます」
熱い湯気を立てる湯呑を手に、ミヤは正面のアレンを見据える。
「誘は宿家親に勝てない。わかってるな」
「えぇ。ですから、ヒデくんでは到底勝てないような愛情を注いでいます」
思いもよらなかった返事にミヤは思わず小さく笑う。
「ミヤさんも、シドくんやケイくんに愛情を注いでみては?」
「優しくするだけが愛ではない」
アレンの言葉に圧され、うっかりと小っ恥ずかしい返事をしてしまった。しかし、それを気取られまいとミヤは茶を一口含んだ。
「ヒデのことはお前に一任している。愛情を注ぐのもアレンの勝手だが、忘れるな。誘はいつか、突如として帰らない」
「聞いていたでしょう? 私が愛情を注ぐのは、死ぬ間際に幸せだった時間を思い出してほしいからだと」
「手向けのつもりか?」
「そうかもしれません。誰にも愛されていなかったという現実を突き付けるのは、あまりに残酷ですから」
そう目を細めるアレンの優しい眼差しは相変わらずどことなく不気味で、ミヤはその表情が好きだった。この既死軍で宿家親になるまで生き残った人間が、優しさだけで形成されているわけがない。
「とにかく、ヒデのことは頼んだぞ、アレン。俺の役目はもう終わっている」
「ミヤさんとケイくんの望みなら、仰せのままに」
「いや、これは」
視線を外し、少し口を閉ざしたミヤはすぐにアレンの瞳を見つめる。
「俺の望みだ」